春はゆき、夏がくる【天正16年4月25日】





「……そんなところにいたのね」




 旭様が、ゆるりと微笑む。

 春の日差しを眩しがるように目を細めて、私たちをじっと見てきた。

 鷹揚なふうに見えるけれど、これはあれだ。

 私をからかうぞって前振りの表情。



「す、駿河御前様」


「……ずいぶんと暇そうだこと」



 ほらきたぁぁぁ!

 おもちゃを見つけた猫みたいに、目が光った気がする!

 三人揃って、慌てて木陰から転がり出る。

 小袖の裾を踏みかけながら、早足で渡殿の側へ。

 ほとんど滑り込むように跪いて、横に並んで首を垂れた。

 心臓がバクバクしてるのに、背中がぞぞっとしている。

 サボりを偉い人に目撃されるって、マジで私たちは運が無い。



「まことお見苦しいところをお見せいたしました」



 平にご容赦を、とさらに深めに頭を下げる。

 一応私は官位持ち。三人を代表してのお詫びを申し上げるべき立場だ。

 文句の一つも言いたいところだけど、率直に言えるほど図太くない自分が悲しい。



「山内の姫よ、面を上げなさい」


「いえ……恐れ多いことにて」



 あんま上げたく無いんですよねえ。

 にこにこと話しかけてくる徳川様に対して、低い頭を維持したまま言葉を濁す。

 こういう時は、父様の真似をするに限る。

 真面目ないい子のふりをしておけば、だいたい誤魔化せるのだ。

 はあ、と困ったようなため息が聞こえた。



「そなたにそう畏まられたくはないのだが、

 なあ旭殿?」


「……はい、殿」



 苦笑気味の徳川様の言葉に、旭様のいらえが返る。



「……お与祢にはずいぶん、

 世話になりましたもの」



 柔らかな声なのに、じわじわ怖いんですけど。

 旭様、それ本心で言ってらっしゃる?

 半分以上信じられない気持ちが、顔に滲み出てきそうだ。



「……お与祢」


「はい」


「……今少し、近う」



 こっち来いとか何。私に何するつもりだ!

 顔は伏せたまま、ちらっと両脇のおこや様と萩乃様と視線を交わす。

 両脇から脇腹を突かれた。一人で行け、と二人の目が訴えてくる。

 一緒に行ってよ……一緒に旭様の圧を感じて震えるほどの友情はないのかよ……。

 もう一回脇を突かれて、諦めて腰を上げる。

 とぼとぼと渡殿の欄干の側へ近づいて、すぐ下あたりで改めて膝をついた。



「……さきほど、あにさんと面会して参ったわ」



 ぽつり、と囁くように旭様が言う。

 秀吉様に会ってきた? 徳川様と?

 妹が兄に会うのはいいけど、夫同伴でって何かあったんだろうか。



「……おいとまを、してきたのよ」


「えっ、まさか」



 驚く私の前で、旭様が徳川様に微笑みかける。

 にこりと笑み返した徳川様も、ゆったりと肯定するように頷いた。



「……ワタクシ、駿河へ戻るの」



 急ですね!?

 体調は最近絶好調そうだったけど、髪は伸びきってないぞ。

 大丈夫なのか。不安になってそっと見上げると、徳川夫妻はくすくすと笑った。



「いやなに、そろそろ頃合いであろうとな、

 数日前から旭殿と話しておったのさ」


「……体の調子も戻りましたし、

 行幸も終わりましたからね」


「ええ、旭殿にはお戻りいただかぬと困りもうす」



 徳川様が旭様の手を取って、ぎゅっと握った。



「ワシ一人に、駿府の城の畑は、ちと広うござるゆえ」


「……もう、お上手なのですから」



 徳川夫妻は、くすぐったそうに笑い合う。

 それが身分に釣り合わないほど普通の夫婦らしくて、少し安心した。

 ちゃんと旭様は、今を飲み込めたんだ。

 旭様は徳川様の妻として生きることを受け入れて、徳川様も旭様をちゃんと妻として大事にしている。

 過去を思い返せば、完璧な幸せ、ではないかもしれない。

 でも、それでも。これも一つの、悪くない夫婦の形だ。

 よかったね、と思いながら控えていると旭様が私に目を戻した。



「……それで、なのだけれど」


「はい」


「……帰るにあたって、あなたの侍女を一人ほしいの」


「は、えっ!?」


「……駿河にあなたを連れていけないでしょうが」



 そりゃそうだ。私は寧々様の御化粧係だもの。

 旭様について駿河には行けない。行く気もさらさらない。

 それでもまだ、旭様には私の令和式ヘアアレンジが必要だ。

 髪の長さをヘアアレンジでカバーして、体裁を整えている状態だからね。

 メイクだって同じ。ギブソンタックに白塗り天正メイクは似合わない。

 スタイリストとメイクさんをこなせる人材を連れて帰れなきゃ、大いに困るのはよくわかる。わかるけどさぁ。

 吐き出したい感情を飲み込んで、駿河御前様、と旭様を呼んだ。



「……何かしら」


「まことに申し訳ないのですが、

 その、今は人手が足りない状況でして」



 行幸からこっち、人手が不足しつつあるんだよ。

 あっちこっちから、降るようにメイク依頼が舞い込んでいるせいだ。

 寧々様が、令和式メイクを内外に解禁しちゃったのだ。

 私本人は滅多に出向かないが、私が仕込んだ侍女たちを派遣して依頼を捌いている。

 一人抜けると、確実に侍女たちに影響が出る。

 使用人の福利厚生を守るのも主人の務めながら、ここはちょっと粘りたい。



「……あら、そう」



 私の説明に、旭様はちょっと考えるふうを見せる。

 お、引き下がってくれそうかな。

 一押しのために、代替案を提示してみる。

 あと少しで研修を終える新人の中から、一番出来が良い者を一人差し上げよう。

 研修は実地訓練を残すばかりだ。一ヶ月ほど待ってもらえたら、確実に人材を提供できる。

 しばらく帰宅を延ばして、京屋敷で待ってもらえないかな。

 遠回しにそんなお願いをしてみたら、旭様が顎に人差し指を当てた。

 いける? いけた? そわそわする私を見下ろして、薄い唇の片方がゆるりと上がった。



「……そういえば、あなた」


「は、はい」


「……義姉上に、殿と私の様子を流していたわね」



 ずぅっと、と囁く旭様の笑みに、私は固まった。

 う、うそ。気づかれてただと。

 確かに寧々様に命じられて、徳川夫妻の様子は報告していた。

 徳川様が一時的に中奥に住み着いていたこととか、旭様と一緒に畑で仲良く過ごしていた様子とか。

 重要なことは徳川様の侵入くらいしか話してない。

 スパイのノウハウがないのだ。見聞きしたことをそのまま話すのがせいぜいだった。

 でも、徳川夫妻に黙って、ふたりのプライベートを第三者に流し続けたのは事実。

 後ろめたさは、あるんだよなあああ。



「……侍女を一人、寄越してくれるわね」


「うぅ……承知いたしました……」


「……ふふふ、よろしく」



 ううう、旭様に転がされてしまった。

 私は悪くないはずなのに、どうしてこうなる!

 悔しさを噛み締めていると、面白そうに旭様に笑われた。

 それがまた小憎たらしいほど元気で、良かったんだか悪かったんだか。

 素朴でおとなしくて優しかったらしい過去の旭様はもういないのか……!



「すまぬな、余計な労を取らせてしもうて」



 徳川様が心持ち眉を下げて、けれどもにこにこと話しかけてくる。



「いえ、駿河御前様のためにございますれば」


「そう言うてくれるか、恩に着るぞ」


「恐れ多いことにございます」


「しかしこのまま、と言うわけにもいかぬな」



 徳川様が難しい顔で顎の髭をさする。

 太い眉を寄せた、わかりやすく真剣な表情だ。

 妻のフォローを真面目にやろうとするなんてえらいな、徳川様。

 きちんと私の心情を理解して、不都合を補填しようと思ってくれているようだ。

 妻の事情が事情だ。この無理は通さなければならないからこそ、円滑に通す方法を真剣に探している。

 さすが近い未来の天下人だよ。その真面目さには頭が下がる。



「どうぞお気になされますな」


「だがなあ」


「徳川様のお気持ちだけで、十分にございます」



 困らせすぎちゃうのは、なんだか悪いもの。

 侍女が一人抜けたら手痛いが、一ヶ月ほど待てば新人たちの研修が終わる。

 少しだけ最前線の侍女たちには苦労をかけるけれど、リカバリーが効かないというわけでもない。

 徳川様と旭様の事情も、よくよくわかっている。

 私の都合ばっかり主張して、ごねるわけにもいかない。



「侍女から一人お連れいただける者を、

 取り急ぎ見つくろいまする。

 今少しお待ちいただけますか、駿河御前様」


「……よくてよ」



 満足げに旭様が頷く。

 納得してくれてなによりだよ。

 帰ったら急いで、侍女たちに話さなきゃ。

 たぶん、一人か二人は手をあげてくれるはずだ。

 だって確実に旭様専属になれる。

 替えが効かない人材だから、女房としての雇用になる可能性が高い。

 俸禄も待遇も、今よりずっと良くなるはずだ。

 上昇志向が高い子なら大チャンスと捉えてくれるだろう。 



「……一〇日ほどは、徳川の京屋敷にいるから」


「はい、それまでには必ず」



 打掛をひるがえして、旭様は渡殿の先へ歩き出した。

 ずいぶんと気ままになられたこと。

 ま、人の気持ちに引きずられすぎるよりは良いか。

 旭様はこれからずっと、大大名の正室としてやっていくのだ。

 適度な図太さと気ままさは必要になってくる。



「この恩は、またいずれ」



 残された徳川様が、おっとりとおっしゃる。

 良いよ、気にしないでって。徳川様も今後苦労するだろうし、このくらいほっといてもいいよ。

 気まぐれになった旭様には手を焼くと思うけど、がんばって付き合ってあげてほしい。



「徳川様、どうぞお気遣いなく」


「いやいや、ワシの気が収まらんのだ」



 ちゃんと恩返しをさせてくれ、と徳川様は旭様の背中を目で追って続ける。



「旭殿を力付けてくれたこと、

 まことありがたく思っておる」


「左様ですか」


「左様だとも、

 だからちゃんとこの恩は覚えておくよ」



 ふっくらした頬が、柔らかく緩む。

 旭様に向けたおだやかな眼差しに、ちゃんと温度が備わっている。



「それでは、またな」



 にこっとしてから、徳川様も歩き出した。

 旭様を呼んで、追いついて。肩を並べて去っていく。

 二人の後ろ姿を見送って、ふっと肩の力を抜く。

 一応、一件落着って感じかな。



「徳川様たち、行かれた?」



 こそっと後ろから、おこや様が聞いてくる。



「行きましたよ」



 返事の代わりに、くたびれたような長い吐息が二人分。

 振り向くと、疲れ切ったようにおこや様と萩乃様が立ち上がるところだった。

 悪いな、付き合わせて。私も疲れたよ。

 とりあえず休憩でもしようか。そういうことになって、近場の建物に上がる。



「駿河御前様って、あのようなお方だったんですね」



ぞろぞろ城奥の方へ向かいながら、萩乃様が口を開いた。



「もっとおとなしやかなお人柄だと、

 聞き及んでおりましたわ」


「色々、あったみたいですよ」


「徳川様の元に嫁がれて、

 気持ちを新たにされたのかしらね」


「うん、そんな感じ?」



 どんな感じよ、とおこや様たちが笑い出す。

 聞かれても答えられないよ。色々秘密な話が多いんだから。

 笑ってごまかして、紫陽花が咲き始めた庭を通り過ぎていく。

 



 忙しくも賑やかな春が終わって、静かに夏が始まる。

 旭様はそんな季節に、駿河へとお帰りになった。


 この時、私がはからずとも徳川様に着せた恩。

 それが返ってくるのは、十二年ほど先になる。

 まあ、同時にとんでもない目に遭うんだけれども。






 ───今はまだ、誰の知るところでも、ない。





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