行幸のあとのひととき【天正16年4月25日】




 帯に付けた明るい朱塗の印籠を外す。

 螺鈿と金銀箔で鳥が描かれた、お気に入りのアイテムだ。

 蓋を開けて、小さく丸めた綿球を取り出す。

 綿球は更にぎゅっと小さく丸め、隠し持ってきたキセルの火皿へ詰め込む。

 そして手のひらサイズの小瓶から、薄荷とオレンジビターのブレンド精油をたらりと一滴。

 はー、準備完了。

 いそいそと吸い口を咥える。

 口から吸ってー、鼻から吐いてー。



「っあ゛───……」



 鼻を通り抜けるメントールが沁みるぅー。



 



 本日は従五位下掌侍に成り上がってから、一〇日後。

 三日の予定だった行幸は、やっと昨日終わった。

 延長になったんだよ、行幸。

 最終的に、九泊一〇日になりました。


 最初はね、二日の延長だった。

 これは帝のご希望。もう少し聚楽第で過ごしたいとの思し召しで、秀吉様も大喜びで受け入れた。

 ここまでは既定路線だったらしい。

 石田様に聞いたが、延長の可能性は朝廷側との事前打ち合わせで、サブの予定に入れていたそうだ。


 しかし、日程は狂った。


 行幸五日目。

 さあ帰宅ですよ、という朝に、国母の君様と女御様が延長を要求し出したのだ。

 私のメイクや各種ケアが、たいそうお気に召してしまったせいである。

 彼女らにお仕えしている上臈衆も、この頃には私の侍女団から受けたメイク等にぞっこんだったのも運の尽き。

 女性陣の強烈な延長要求に帝が負けて、秀吉様に延長を申し入れた。

 お母さんと奥さんに弱いってどうなんだ、治天の君。

 そして、一日。

 また一日、もう一日。

 行幸は、どんどん伸びた。

 当初は喜んでいた秀吉様の顔が心無しか引きつり、寧々様の目が「まだ居座るんかい」と言いたげに少し据わってくるまで。


 行幸延長の影響を、私ももろにくらったよ。

 私のメイクや美容が理由の大半を占めているんだもの。

 国母の君様と女御様にほとんど釘付け。

 毎朝毎晩スキンケア&メイクは当然のこと。

 ヘアケアやボディケアまで一任されてしまった。

 わずかに空いた時間には、メイク担当の女房衆に突貫教育もしなければならなかった。

 美容は継続と臨機応変さが求められる分野である。

 安定したルーチンケアと、臨機応変な対策の合わせ技がなければ美は維持できない。

 御所にお戻りになられても不足がないよう、常時彼女らの側に仕える人たちには最低限のルーチンだけは覚えてもらう必要があったのだ。


 正真正銘のオーバーワークだった。

 死ぬかと思ったわ。


 もうね。寧々様のために使う時間の確保だけで精一杯。

 竜子様以下は侍女に任せてフル回転だった。

 自分のために使う時間なんてほぼなかった。

 国母の君様たちがきらきらしていくのに反比例して、私たちはぼろぼろになっていった。

 私や侍女たちが誰一人として倒れなかったのは、奇跡に近いと思う。


 まあ、それも昨日までのことだ。

 さすがに一〇日目に至って、秀吉様が国母の君様に帰ってって申し入れたんだよ。


 大政所様が体調を崩しちゃったからって。


 ちなみに、本当の病気ではない。仮病だ。

 九日目にうんざりしてきたのか大政所様が、「今日から病になるでな! よろしく!」と御殿から出てこなくなったのだ。

 秀吉様がこれ幸いと、それに乗っかった形だね。

 これは効果がある断り文句だったようだ。

 国母の君様たちはしぶしぶではあるが、帰宅に同意してくれた。


 そしてやっと、昨日に還幸とあいなったわけだ。

 帰っていく帝や公家衆は、ほっとした様子だったようだ。

 日に日に秀吉様や大名衆の目が死に、実務担当の奉行衆たちの目が冷たくなっていったんだもんな。

 ストレスからの解放に泣きたいくらい嬉しかっただろうね。

 国母の君様たちはどうだったかって?

 もちろん、大満足の笑顔。最後の最後までにっこにこ。

 寧々様の目を死なせる程度に、自由に振る舞い切って帰っていった。

 なんか生きるのが楽で、幸せそうな人たちだったな……。

 いっそ羨ましい厚かましさだ。肝の小さい私には、絶対に見習えないが。



 そんな感じの波乱の行幸を終えての、今日だ。

 秀吉様と寧々様は休み。今日は休むと昨日の段階で宣言した。

 ずいぶんと疲れ切った様子だったから仕方ないよね。

 ゆっくり一日寝てくれ。


 主がそうして休んでいても、私含む城表や城奥に仕える者はやることがたくさんだ。

 イベントの後には、後片付けが待っているのは当然でしょ?

 実働は侍女や女中たちだけれど、女房には彼女らの指揮という業務がある。

 私も朝から普通に起きて、通常どおり働いている。

 寧々様と竜子様の朝のお手入れをして、ご飯を食べたら祭りの後始末にかかった。

 行幸中に使用したメイクグッズのお手入れや、消耗したコスメの補充といった細かい仕事が山積みだったからね。

 急がなきゃならない部分から処理させていくけれど、いつもより忙しない。

 でも、昨日までとは比べ物にならないほど楽だ。

 そう思ってしまうのが、ちょっぴり悲しい。



 まあ、ともかく今日はそんな感じ。



 で、私が今、何をしてるかって?

 休憩だよ、休憩。

 疲労が溜まりに溜まっているからね。

 ごく僅かな隙間を見定めて、お夏たちにも断って、ちょっとだけ休憩中ってわけ。

 人気のない中奥の庭の木陰に潜り込んで、ハッカパイプならぬハッカキセルを味わっている。

 本当ならさ、タバコを咥えたいところなんだけどね。

 もう海外からタバコ文化が入ってきていて、お金を出せば手に入らないこともないし。


 でも今世では、吸わない。


 禁煙を堅く心に誓っているから、タバコには絶対に手を出さない。

 喫煙というやつは、一度覚えると禁煙しようとすると苦労する。

 覚えるのは一瞬で、やめるには倍の時間が掛かるってどういうことよ。

 それにタバコはストレスに効くけれど、美容と健康にだって良くはない。

 肺がんリスクを上げるだけでなく、肌荒れがしやすくなってしまう。

 アレルギーとか持っているとやばいよ。

 小難しい因果関係やメカニズムがあるんだが、イチコロで悪化する。

 マジでタバコは百害あって一理なしってやつだ。

 メリットはリラックス効果とかっこいいイメージしかないんで、魅力があるにはあるんだが。


 と、いうわけで。

 今は代わりに、ハッカキセルで誤魔化している。

 これはこれで美味しい。疲れにだって効く。

 口寂しさを満たせて、タバコより健康リスクが無い点も良い。

 最高だね、メントール。

 香りが美味しいタイプの精油とブレンドしたら、そこそこな満足感があってなかなか良い。


 あー脳みそがすーっとする。

 きもちぃぃぃ〜……。

 





「あ、いたいた」


「あら本当」



 のほほんな声がふたつ。

 さわさわと耳に入ってきて、煙管から口を離す。

 振り向くと、近くの渡殿に馴染みの顔が二つあった。



「おこや様に萩乃様じゃないですか」



 ごきげんよう、と軽く会釈する。

 おこや様と萩乃様はにやっと笑って、丁寧に頭を下げてきた。

 


「これはご機嫌麗しゅう、粧殿」

 

「粧の姫君、今日もお可愛らしゅうございますねぇ」



 綺麗なローズレッドとアプリコットに彩られた唇から、呼ばれたくない名前が出る。

 まったく、あんたらねえ……。

 年下の友達をいじって楽しいか。大人気ないぞ。

 口から露骨なため息が出ちゃうわ。



 国母の君様に押し付けられた候名、粧内侍しょうのないし



 私の呼び名は、それのせいで一気に変わった。

 粧内侍、粧殿しょうどのしょうつぼねなどなど呼ばれ始めたのだ。

 まだ年若いからということで、粧姫しょうひめしょう姫君ひめぎみと呼ばれることもある。

 ガチで嫌だ。ダサいのもあるけど、私が私じゃなくなるみたいで嫌だ。

 名前が一人歩きしている、とでも言えばいいんだろうか。


 叙位の一幕と合わせて、謎多き可憐なお姫様のイメージを持たれつつある。


 セクハラ内府様によるセクハラに、扇で顔を隠して黙り込んだのが原因っぽい。

 あまりの暴言を受けて涙を流して震えていたとか、その姿がとても可憐だったとかという噂が出回った。

 それだけじゃない。寧々様が私を大切そうに扱っていたことも、噂に変な拍車をかけてしまった。


 実は寧々様の女房じゃなくて、大切に育てている養女だって話まで囁かれ始めたのだ。

 才気を見込んで引き取ってきて、婚姻外交に使うため色々仕込んでいる姫なんだろう、みたいなね。

 他にも実は寧々様の産んだ姫で、丈夫に育てるため七つまで山内家に預けてあったとか。

 いやいや、実は秀吉様がうちの母様に手を付けて生まれた姫だとかなんて話もある。

 ねえ、尾ひれどころか背びれまで付いてない?

 最後のゴシップを捏造したやつ、父様と私にぶちのめされたいの?

 マジでこんな感じで、好き放題に言われまくってる状態だ。

 否定しても無視しても、キリがないったらありゃしない。

 私が私として認識されていない感じがして、非常に気分が悪いことだ。


 私はただの与祢だっつーの。


 羽柴の隠された姫でも、可憐な深窓のお姫様でもない。

 山内家で父様と母様からいっぱい愛されて育った姫。

 寧々様に才能を買われて城奥でばりばり働く御化粧係。

 ずっと、そういうただの与祢でよかったのに最悪だ。



「……やめてもらえます?」



 めんどくさそうな私の声に、二人が顔を見合わせる。

 じろりと睨んでやると、二人が肩をすくめて笑った。



「ごめんごめん。

 ちょっとお与祢ちゃんを候名で呼んでみたくて、

 ねえ?」


「申し訳ありません、うふふ」


「ほんっっっとやめて。

 嫌なんですって、その呼ばれ方!!」



 呼びたいだけで呼ぶんじゃない。

 何にも良いものは出てこないんだからな。

 庭に降りてきた二人が、私の両脇にしゃがむ。



「国母の君様直々の命名なんでしょう?

 末代まで誇れる誉れでは?」


「誉れだとしても、野暮な名じゃないですか……」


「ちょ、あははっ、不敬よそれ」


「さすが与祢姫というか、くふふ、

 官位を受けても変わりませんわね」



 けらけら二人が笑い転げる。

 まったくもー、このお姉さんたちときたら。

 私が急に身分を上昇させても、まったく態度を変えない人たちだなあ。

 でも、悪いことじゃないよ。

 急に媚びてきたり、必要以上に怯えたりされるよりはずっといい。

 この一〇日で、私の周りにはそういう人が大量発生中だ。

 宝くじ一等を当てた人に群がる、有象無象みたいにね。

 信用できる人って少ないもんだなー……と実感しているからこそ、二人の存在はありがたい。



「で、何しに来たんです?」


「えっとね、萩乃殿が京極の方様に、

 ボーロをもらったんだけどね」


「え! 持ってきてくれたんですか?」


「与祢姫にも差し上げようって、

 おしゃべりしているうちに全部食してしまいました」


「なんで!!!」



 ずるい! 酷い!! 食べきるなよ!!!

 謝りながらも笑い上戸と化している二人の脇を、容赦なく指で突っつく。

 限界に近かった腹筋には、大ダメージだったっぽい。

 楽しげな悲鳴を上げて、おこや様も萩乃様も横に尻餅をついた。

 可笑しくなってきて、私もつられて笑う。


 楽しい。本当に。学生時代を思い出す。

 やっと日常が戻ってきたって、じんわりと実感が湧いてくる。

 私が私に戻っていく。とっても、嬉しい。






「……こんなところにいたのね」




 

 穏やかな私たちのひとときに、静かな声音が滑り入ってくる。

 はっと三人そろって、口をつぐんで。

 そして、目に映った人影に、唖然とする。






 ───渡殿に、徳川様と旭様がいた。






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