聚楽第行幸(2)【天正16年4月14日】
言い争いがだんだん近くなってくる。
摩阿姫様の女房さんと、茶々姫様のところの乳母殿である
静かなのにヒステリックな言い合いの合間に、お楽の半泣きな制止が挟まる。
うっっっっわ、ド修羅場。
キャットファイトなんて可愛いもんじゃない。
ライオンか虎のデスマッチって言った方が近いやつ。
混ざりたくない気持ちでいっぱいになってくるぅ!
でも、小袖を絡げてダッシュする足は止めない。
ここで逃げたら、全体のスケジュールが崩壊する。
部下を見捨てることも、なるべくしたくない。
曲がればすぐ摩阿姫様のお部屋という角で、一旦停止。
小袖の裾を直して、息切れしそうな呼吸を整える。
目を瞑って、拳を握って気合を入れて。
「何事ですか!」
精一杯の虚勢を張った声を上げて、私は修羅場へと躍り出た。
槍みたいに剣呑な視線が、一斉に集まる。
うひぃぃぃ! 嫌な感じぃぃぃぃ!!
内心気圧されかけながら、必死でガンを飛ばし返す。
もちろん摩阿姫様の女房さんへでも、お楽へでもない。
この場の異分子である、袖殿の方へだ。
「道を開けてくださいませ」
出したい悲鳴を飲み込んで、必死で落ち着いた声を出す。
ちょっとは、怖い場面にも私も慣れたみたいだ。
足も震えず、心臓もあまり跳ねていない。
つんとおすまし状態を維持して、すたすたと修羅場に飛び込めた。
まずはまっすぐお楽の側へ。
目に涙をいっぱいにした彼女の手を握って、頭二つ上にあるお楽の顔を覗き込む。
すっかり怯えきっている彼女に、私は安心させるように笑いかけた。
「こちらへおいでなさい」
「姫様……っ」
「良い子ね、お楽。
がんばってくれてありがとう」
可愛い顔をくしゃっとさせたお楽へ手を伸ばして、頭を撫でたら後ろのお夏へパス。
心得たもののお夏は、お楽の肩を抱いて即座に撤退した。
部下の救出は完了っと。
次は袖殿の撃退だな。
すすすっと摩阿姫様の女房さんに寄り添った。
別に袖殿が怖いわけじゃないよ?
悪質クレーマーへの対応は、一対複数が基本だ。
この袖殿は、簡単に言うとモンスターペアレント。
一人で立ち向かって良い相手じゃない。
うちの母様と同い年くらいの女房さんと、それとなく視線を交わす。
すっかりうんざりしきった目だ。
袖殿、長時間とは言わなくても、それなりに居座ってるんだな。
「さて、袖殿」
わざとらしくため息を吐いて、袖殿に視線をくれてやる。
「これはいかなることでございますか」
火の粉が散るように、激しく視線がぶつかった。
先に動いたのはあちら。
形だけは整った袖殿の顔に、笑みが浮かぶ。
「ごきげんよう、与祢殿。
そなたをお待ち申していたのですよ」
「私をですか」
「ええ、そう。一緒においでになってね?」
「は? どこへ?」
「どこって、うふふ、我が姫様の元へですわ」
何言ってんだ、このおばさん。
おめーんとこの茶々姫様の順番は、とっくに終わってるんだが。
そっちの都合には合わせないよって、真っ先に説明したのに忘れたんだろうか。
あと、気安く名前で呼ぶな。
あんたに本名呼びを許した記憶はないんですけどぉー?
神経を軽く逆撫でされて、イラッとくる。
うわべだけがんばって取り繕ってた笑みすら、だんだん無になっていく。
「お断りします、
今とても急いでおりますので」
「あら、我が姫様がそなたをお待ちなのよ?
お化粧をして差し上げて」
待たれても無駄だっつーの。
無理を通そうとする前に、最初から寝坊せずスケジュールの通りに動けよ。
てか、さっさと派遣している侍女の阿古にメイクしてもらえ。
つまんないわがままは却下よ、却下。
「袖殿」
心持ち語気を強くして、目をすがめる。
クレーマーはさっさと切り捨てて、仕事に移らなきゃ。
「できません」
「まあ、どうして?」
「次のお化粧の順番は、
こちらの加賀の方様だからです」
「あら、後に回せばいいでしょう」
えっ、こわっ。
何をあっさり割り込み宣言してるの、このおばさん。
摩阿姫様は秀吉様の大親友たる前田利家様の娘かつ、城奥の金庫番を務める重役だぞ。
寵愛ランクだって、明らか茶々姫さまより上だ。
謎の強気に唖然としていたら、隣の女房さんが憮然と口をはさんできた。
「袖殿、控えなさいまし」
「あらあら、なぜ?」
「摩阿姫様に無礼ですと何度言わせるの?
空桶みたいな頭じゃ、わからないのかしら」
「家臣の娘が主家の姫を差し置く方が、
よほどの無礼ではなくて?」
女房さんの嫌味たっぷりな注意を、袖殿が鼻で笑う。
茶々姫様は織田一族の姫で、摩阿姫様は織田家に仕えていた前田家の姫。
家臣筋の娘と言えばまあ、そうなんだけど。
「ハッ、何を言っているのかしら」
あ、女房さんがとうとうキレたっぽい。
はっきりと鼻で笑い返した。
「傍系の姫に尽くす礼は持ち合わせてなくてよ?」
袖殿の顔が、みるみる怒りに染まっていく。
売り言葉に買い言葉とはちょっと違うが、まあこうなるよねー。
前田家にとって主家の姫と呼べる方は、信長公の娘である織田の五の姫様だ。
信長公の姪にすぎない茶々姫様は、主家の姫の定義から微妙にズレる。
前田家に主家の姫と認定してもらえなくても、当然だったりするんだよね。
そういう茶々姫様のお立場わかってはいるのだろう。
袖殿は唇を噛んで、睨み返す以上のことができなくなっている。
大事な姫様が、ここでは大した存在じゃない。
認めたくない事実だろうけど、現実って厳しいよなあ。
「袖殿、お帰りを」
ちょっとだけかわいそうに思いながら、咳ばらいをして告げる。
「これ以上私の仕事が遅れると、
行幸の予定が狂う元になりますゆえ」
早く帰りな? 秀吉様と寧々様のご不興を買いたいのかい?
そんな副音声を心で流しながら、ちょっと強めに睨み返す。
袖殿の顔が、少し青くなる。
背中を押してあげようと口を開く。
私の声が出るより先に、女房さんの笑い声が廊下にこぼれた。
「ふふ、山内の姫君の言うとおりね。
お帰りはあちらよ、袖殿」
「……くっ」
「ほら早くなさいな。
なけなしの殿下のお情けを無くしたいの?」
「きさまっっっ!!!」
青から赤へ。袖殿の顔色が、即チェンジする。
油断しきっていた女房さんの襟を、素早く伸びた手が荒々しく掴んだ。
やばっ! 乱闘とかやばいって!!
慌てて袖殿の腕に飛びつく。
どうにか引き離そうとしてみるけど、大人に子供が敵うはずない。
あっさり私は振り払われて、廊下に尻餅をつく羽目になる。
ほとんど同時に、女房さんの鼻先で袖殿のヒステリーが爆発した。
「このっ! 犬の娘の女中風情が!」
「あ゛ぁっ!?
うちの殿様と姫様を愚弄するなっ!!」
一拍遅れて、女房さんが怒鳴り返す。
襟も掴み返して、頭突きするように顔を寄せて。
両者の第二ラウンドが開始してしまった。
「ちょっ! と、止まって!!
落ち着いてくださいっっ!!!」
止めろって声を張り上げてもだめだ。
発情期の猫じみた声による威嚇合戦の前じゃ、簡単にかき消される。
ああああ! なんでこうなる!?
理性を素早く放棄するのやめて!?!?
戦国で生き始めて2年ちょっと経つけど、やっぱサクッとキレる人が多い。
すぐケンカのバーゲンを開始するし、すぐにケンカを高価買取する。
ちょうどこの二人みたいにな!!!
困ったもんだよ!! 誰か助けてぇぇええ!!!
「……夜明け時からうるさいこと」
頭を抱える私の後ろで、ゆっくりと襖が開いた。
眠気をほんのり宿した、気怠げな声音に振り返る。
白い小袖にロイヤルブルーの打掛を羽織った、旭様がいた。
髪をお気に入りのギブソンタックに結い、両脇に女房を従えて、腕を組んで立っている。
ものすごく、強そうなマダムに見える。
メイク前の素朴なすっぴんなのに、やたらと存在感を放っている。
あんなに薄かった影、なんでそんなに濃くなってるの。
うっかり二度見する私を、旭様はめんどくさそうに見下ろしてくる。
怒ってらっしゃるなーと思いながら、おすましに切り替えて頭を下げた。
「駿河御前様、
お騒がせして申し訳ございません」
「……どういうことなの、お与祢」
そこの二人を見たらわかるでしょ、旭様ぁ。
あなたの登場で黙ったけど、元気にガン飛ばし合ってるじゃん?
言葉にはせず、目くばせしてみせる。
旭様が、袖殿と女房さんを見比べた。
「……早くお化粧をしてちょうだい」
あからさまに大きなため息が、薄い色の唇から溢れる。
雌虎のデスマッチは無視することにしたんですね。
なるほど、賢い選択だわ。ありがたく乗っからせていただこう。
「はい、ただいま」
「お待ちなさいっ!」
すたこらしようとする私に、袖殿の声が追い縋る。
「与祢殿、我が姫様のお化粧はどうするのっ」
まだ言うのかよ。
うんざり顔だけで振り向くと、ギラリとした目に射抜かれた。
めげない人だ。その図太さにいっそ尊敬しちゃいそう。
どう追っ払おうかな、と思ったら旭様にまたため息を吐かれた。
「……振り向いてやらないの」
細い手が私の顎を掴んで元の位置に戻す。
手付きは優しいけれど、結構強引にだ。
逆らわないから痛くはなかったけど、何するんだよ。
抗議の意思を顔に出すと、きゅっとタコの口にさせられた。
「……そこのあなた」
思い出したように、旭様が袖殿に声を掛ける。
「……下がりなさい」
「っ、しかしながら、我が姫様のお支度が」
私をタコにしていた手が離れる。
腕をたどって旭様を見上げると、表情を消した頬がほんのわずかな緊張を漂わせていた。
でも、それは一瞬のこと。
すぐにそれは消え失せて、柔らかに口元が緩められる。
気づかず言いつのる袖殿に、旭様が一歩踏み出した。
「……お黙り」
「!?」
袖殿の口を、旭様の手が塞ぐ。
突然のことに袖殿が抵抗するけれど、口をおおった手は離れない。
ぴったりと、吸い付いたかのようだ。
焦りに丸く開かれた目を覗き込み、言い聞かせるように旭様は続けた。
「……お与祢は、これから、
ワタクシと摩阿姫のお化粧をするの」
「んっ、むっ、」
「……前田筑前様とうちの人に、
このこと言ってしまおうかしら?」
「ぅうっ、っ」
「……それとも、うちの兄さんに直接がいい?」
ゆっくりと、小さな子に言い含めるようなくちぶりだ。
並べている内容はかなり凶悪な脅しなのに、とても優しく聞こえてくる。
酸欠か、恐怖か。白くなりつつある袖殿の顔から、ぴったり張り付いていた手が離れる。
「かはっ、こほっ」
「……ここで引くなら、
ワタクシのお腹にしまってさしあげるわ」
どうかしら? と咳き込む袖殿の背中をさすってあげながら、旭様がささやく。
ややあって、袖殿が頷いた。唇を噛んで、口惜しげに。
満足ついでにほっとしたのか、旭様が細い息を吐く。
頃合いかな。そっと旭様の後ろから、袖殿に声を掛ける。
「お引き取りを。
一の姫様のお化粧は、遣わした侍女に」
「もうよい! 結構よっ!」
袖殿の甲高い声が私の言葉をさえぎる。
「姫様を軽く扱う者の手など要らないわ!」
「えっ、でもお化粧しないと」
「我々でして差し上げますっ!」
私と旭様を、袖殿がギッと睨んでくる。
燃えたぎる重油のような、暗くて粘ついた恨みのこもった目だ。
流石に私たちがびっくりして黙り込むと、袖殿は打掛を翻して行ってしまった。
嵐の去った後のような、静けさが落ちてくる。
その場の誰もが、何も言えない。
すごかった……もう……いろいろと……。
「……お化粧、してしまいましょう」
旭様が、仕切り直そうとでも言うように手を叩いた。
慌てて頷いて、廊下の隅で震え上がっていた侍女を呼ぶ。
本来の意味の騒々しさが戻ってくる。
加賀の方様の女房さんたちも、慌ただしく動き出した。
「あの、ありがとうございました」
バタつく最中、お部屋に戻る旭様にお礼を言う。
「……礼は必要ないわ」
肩をすくめて、旭様はくすくす笑った。
摩阿姫様があんまりにも怖がるから、見てられなかったらしい。
自分が収めるしかないか、と踏み切れたなんてすごいよ。
以前の旭様からは考えられない行動だ。
「……お化粧は、摩阿姫からしてあげて」
気持ちが落ち着くでしょうから、と旭様が私の背中を押す。
お部屋に入ると、隅っこで摩阿姫様がぷるぷる震えていた。
たしかにこれは、お化粧して気持ちを切り替えさせて差し上げなきゃだ。
「加賀の方様、お待たせしました。
お化粧いたしましょう!」
意識して明るくて柔らかい声をかけて、摩阿姫様の元へ向かう。
そんな私の背に触れる旭様の眼差しも、とても柔らかかった。
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