聚楽第行幸(1)【天正16年4月14日】




 夜明けの直前。

 薄暗い城奥に、ガンガン灯りが点けられていく。

 蝋燭や火打ち石を抱えて、侍女や女中たちが走り回る。

 昼かと思うほどの明るさに満ちた城奥を、私は走る寸前の速度で歩く。

 人にぶつかることはない。

 私の侍女が、私が通ると叫ぶような先触れをして歩き去った後だ。

 そこらへんの侍女や女中たちは、私を見た瞬間に一斉に避けてくれる。

 大勢の人を割って歩く快感を楽しむ暇もなく、歩きながらお夏にスケジュールの進捗を確認させる。

 


「お夏、次の予約」


「加賀の方様と駿河御前様でございます」


「洗顔とお肌の下拵えは?」


「姫路の方様のお化粧の間に、

 お楽を向かわせました」



 と、いうことは既にスキンケアは終了してるか。

 肌を落ち着かせるためのインターバルを計算しても、ちょっと急いだ方がいいな。

 遅すぎると加賀の方様のお肌が、乾燥してしまうかもしれない。

 


「織田の五の姫様の担当は?」


「お鈴です。洗顔を待たせますか」


「ううん、五の姫様はむくみがちでらっしゃるわ。

 念入りに按摩をして差し上げる必要がある」


「頭皮から首元まで?」


「そう、しっかりむくみを取っといて。

 油は唐胡麻、化粧水はハマナス」


「承知しました、女中に伝言させます」

 


 誰ぞ! とお夏が後方の女中を呼ぶ。

 最後尾の女中が走ってきた。




 今上帝の行幸、当日。

 私───いや、私率いる御化粧係の戦は、真夜中から開始した。


 だって今日メイクするべき人は、寧々様だけではない。

 大政所様と竜子様。竜子様よりは寵愛が劣るけれど、気を使うべき身分の側室方数人。

 羽柴の格と威勢を示すために参加する彼女らのメイクも、寧々様から命じられている。

 そんな片手で足りない人数の彼女らに、今日は手の込んだ豪華なメイクを施さなくてはならない。

 今回の行幸は、式典や宴、観劇やレクリエーションが目白押し。

 息を吐く暇すらない、過密スケジュールが組まれているのだ。

 はっきり言って、化粧直しをする時間は少ないと予想される。

 だからできるかぎり長くメイクが崩れないよう、丁寧に仕上げなければならない。

 スキンケアとベースメイクを念入りにやって、多少崩れてもパパッと治せるよう計算して、しっかりと顔を作り上げる必要がある。

 必然的に、一人あたりの所要時間はめちゃくちゃ長くなるが、ここで手抜きなんて論外だ。

 だって、日本一高貴な人々の前に出るんだよ?

 私が下手を打てば、寧々様の名誉に傷が付く。

 御化粧係の名が泣くどころの騒ぎじゃない。

 羽柴の看板を汚したが最後、私のキャリアが人生ごと終了するわ。

 ぜっっっっっったいに、それだけは避けなきゃならない!

 

 だからね、私がんばったぞ。

 寧々様や孝蔵主様と相談して、分刻みレベルでギチギチにスケジュールを固め、念入りに調整を重ねた。

 寧々様・大政所様・竜子様たち上位三人以外の全員への説明も手抜かりない。

 東様同伴で、早い段階から直接出向いてやった。


 順番は城奥での序列が下の人からスタートなこと。


 行幸一ヶ月前から当日まで、うちの侍女からスキンケアと、美容カウンセリングを受けること。


 当日のメイクに希望があれば、担当侍女を通して私へ要相談。


 当日は自己都合での順番変更不可。

 どうしても変更を希望する場合、私ではなく侍女がメイクを行うことになること。


 そんなずいぶん一方的なお願いをしたんだけど、あっさりほぼ全員に呑んでもらえた。

 拍子抜けするほどみんな聞き分けが良かったのは、寧々様の一筆の効果だけじゃない。

 側室方が、意外なほど私に好意的だったおかげだ。

 自分で言うのもなんだけれど、近頃の城奥において私のメイクは羨望の的だ。

 私のメイクを受けられる人は、城奥ヒエラルキーの最上層にいる寧々様と竜子様のみ。

 二人に施されているメイクは、従来通りの白赤黒で構成されたメイクではない。

 素顔と変わらないほど白粉が薄いのに、白塗りよりも肌はなめらかで自然な陰影がある。

 眉は引き眉にせず、まぶたや唇に赤以外の色を塗っているのに、奇抜どころかえも言われぬ優美さを漂せる。

 使っているコスメは、すべて巷で大流行している最新のものばかり。

 それもとと屋の最高級ラインのもので、店頭には並ばない寧々様専用ブランドだ。

 そんな豪華で不思議なメイクで、日を追うごとに寧々様たちの美貌は目に見えて磨かれていく。

 秀吉様の寵愛も以前にも増して深くなり、ほとんど二人で独占状態になりつつある。

 御側室たちが、秀吉様を魅了する私のメイクに興味津々になってしまうのも、当たり前の結果だった。

 彼女たちのほとんどは、一度でいいから私にメイクをされたいって、熱望していたそうだ。

 だからもうね、みんな絶好のチャンスを逃すものかって勢いだった。

 大丈夫かと思うほど素直に、何でもかんでもほぼ受け入れてもらえたからありがたかった。

 スキンケアを侍女に、という提案は残念そうにされたけどね。

 きちっと私が教育した侍女の中でも、よりすぐりのメンバーを派遣したから、残念そうにされる以上のことはなかった。

 むしろ派遣した侍女をすごく気に入って、引き抜かせてもらえないかという打診まで出る始末だ。

 現段階で抜かれると困るから保留にしているけど、私的には嬉しい誤算だ。

予想を超えて侍女たちのスキルが高まっているってことだもの。今後もこの調子で育てていこう。


 まあ、問題がなかったわけではないよ。

 恥ずかしがりだか人見知りだかで、対面が叶わないままの御側室も一人いる。

 ぶっちゃけると、茶々姫様だ。

 あちらは乳母殿を通してでしか話ができなかった。

 本人は隣室で控えていたらしいけど、一つ質問して返事が返るまで本当に手間。

 襖越しでいいから直で返事してくれりゃいいのにと、何度思ったことか。

 担当侍女の件もかなり渋られた。よく知らない侍女は緊張しちゃうとか、なんとか。

 お夏を除いて一番人当たりと腕の良い侍女をほぼ貼り付けで派遣する、という譲歩をこっちがするまで粘られたよ。

 女房や侍女たちも茶々姫様を気遣ってほしいとうるさいし、乳母殿はしつこく私が来れないのかと何度も言ってくるし。

 過剰に茶々姫様を守って甘やかすみたいな姿勢って感じ?

 さんざん困らされたけど、茶々姫様本人はすまなく思ってらっしゃるようだ。

 後日無理を言ってごめんなさい、ありがとうと言っていた。らしい。

 派遣中の侍女ごしの伝言だから真偽のほどはわからない。

 でも一応、こちらに無茶を言っている自覚があるならぎり許してあげる。

 つもりだったんだけどなあ。



「姫様」



 伝令の女中を送り出したお夏が話しかけてくる。



「浅井の一の姫様のことですが」


「なに、問題でも起きた?」



 メイク予定時間に、本人の支度が間に合わなかった以上のことでも起きたか。

 すまなそうアピールしておきながら、寝坊かましてきたってだけでイラッと来ているのに。

 つい剣呑な目をお夏に向けると、安心してください、と言われた。



「さすがにもうお化粧が終わった頃合いと思いますから、

 阿古を引き上げさせようかと」


「いいわよ、女中に様子見させてきて」


「承知しました。終わっていたら、

 京極の方様のところへうかがわせても?」


「そうね」



 それが一番いいんじゃないかな。

 側室としては新参者で末席の茶々姫様の側で、阿古に暇をさせるのはもったいない。

 撤収させて竜子様の洗顔とスキンケア、それからヘアアレンジを任せたほうが効率的だ。



「京極の方様の髪に使うかんざし一式も持ってって阿古に渡して」


「承知しました」


「髪の結い方は、お方様のご意見をうかがいながらやるように伝えなさい」


「はい、ではそのように」



 新しい女中がお夏のもとに呼び寄せられる。

 その姿にちょっと安心する。使える側近がいるって超助かる。

 お夏だけでなく、ほかの侍女たちもだけど、みんなのおかげで今のところおおむね順調だ。

 直前で急な参加表明をした旭様のこともあったが、移動が常に競歩になったくらいで済んでいる。

 このまま最後の寧々様まで、何事もなく終わってほしいもんだね。


 ぼやぼや私が考えている間にも、隣のお夏はフル回転で働いている。

 女中を伴走させながら、足を止めずにメモ帳に私の指示を書きつけていく。

 筆をぶれさせないし、足ももつれさせないなんてすごいな。



「姫様! 姫様大変です!」



 横目で感心していると、前方から女中が走ってきた。

 加賀の方様──前田のまつ様の娘・摩阿姫様の元につかわせた侍女、お楽の女中だ。

 青い顔で息を切らしている。

 あかん。なんかトラブったな。

 一瞬嫌気で足が緩みかけるが、意地で加速する。



「どうしたの」



 出会い頭に問うと、女中が泣きそうな声で叫んだ。



「か、加賀の方様のお部屋の前にっ」


「加賀の方様の部屋の前に何?」


「浅井の一の姫様の乳母様が押しかけていますっっ」





 はぁぁぁぁぁああああ!?!?






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