徳川夫妻の仲は悪くない(3)【天正16年4月9日】
「……どこへ行っていたの」
帰ってきたら開口一番、旭様に軽く睨まれた。
ほっといてよもー。大政所様の許可を得て離席してたんだぞ。
まあ言い訳しても仕方ないから、頭を下げておく。
「申し訳ございません、
お茶の用意しておりました」
「……茶なんて、侍女に頼みなさい」
「自分でやりたい性分なんですよー」
「……変な子だこと」
おっしゃる通りで。
笑って流して、お夏からお盆を受け取る。
縁側に下ろしたお盆には、土瓶二本と湯呑みが人数分。
手伝ってもらいながら、てきぱき準備する。
湯呑みを満たす透明な薄っすら黄みがかったお茶を、ちらりと旭様が覗き込んだ。
「……今日は何の茶?」
「ただの煎じ茶です」
「……普通のものを出すなんて、
珍しいことね」
「ですけど、
井戸で冷やしてございますよ?」
ひえっひえにしてきたんだよ。
冷えた飲み物ってそれだけで贅沢だ。
煎茶だって今の時代はおいそれと飲めるものじゃない。
ちゃんと大大名とその御正室に出すのに、ふさわしいものをチョイスしてきたんだぞ。
ふぅん、という感じで旭様が湯呑みに口を付けた。
一口飲んで、息を吐く。
「……そちらの湯呑みに私の分を」
「はい、ただいま」
「……殿、どうぞ」
「ああ、かたじけない」
用意を始める私の横で、旭様が口を付けた湯呑みを徳川様に渡す。
二人ともにこにこしているが、いちゃついて回し飲みしているのではない。
毒見だ。
ここで徳川様の口に入る物は、必ず旭様が先に口を付ける。
そうすれば、簡単に毒を仕込めなくなるからだ。
さすがの秀吉様だって、妹殺しは躊躇なさる。
家臣が勝手にやったら、やった奴は八つ裂き確定だ。
だから、旭様の毒見は、徳川様の強力な護りになっている。
「……握り飯もようございますよ」
「旭殿、おかか様の握り飯まで毒見せずとも」
「……だめですか?」
旭様が、齧ったおにぎりと徳川様を見比べる。
しょぼ……とした妻に、徳川様が眉を下げておろおろした。
大政所様がからからと口を開けて笑った。
「ええやないのぉ、婿殿」
「ですがなあ」
「おみゃあさんのこと、大事にしたいんよぉ」
させておやり、と大政所様が徳川様の肩をばしばし叩く。
今度は井伊殿がおろおろし始めた。
気安すぎるか、流石に失礼だと思うかしているんだろう。
止めるか止めないか迷っている様子だ。
「……殿」
旭様が、じっと徳川様を見つめる。
押し負けた徳川様が、苦笑いでおにぎりを受け取った。
「……たんと召し上がってね」
旭様は嬉しそうに笑って、また一つおにぎりに口をつける。
なんか、すごいなあ。
毒見を済ませた徳川様の皿に積むその姿に、私はこっそり胸の内で感嘆した。
こんなふうに旭様が積極的に動くようになるなんて、夢にも思わなかった。
もう夫を失いたくないから、自分を変えたんだろうか。
良い変化、と言っていいのかな。
徳川様は変わった旭様に何も言わない。自然に受け入れている。
妻の変化に何を思っているのか。
にこやかなお顔からは、まったく読めない。
そもそも徳川様がどういう方なのかも、いまいちよくわからないわ。
羽柴家中で言われるように、腹が黒いって印象は受けない。
がっしりしていて強そうだし、実際鍬を振るわれる様子を見るにパワーとか凄そう。
頭の回転が早い方だというのは、話していてなんとなくわかる。
旭様と大政所様には優しく気遣って接している。
私にもそうだ。結構気安く接してくれるし、ハーブの話とかもよく聞いてくれる。
個人的に秀吉様より安心できるわ、この人。
下ネタ振ってこないんだよ。
話しかけられても警戒しなくていいだけ、すごく楽だ。
良い人、の、ように思う。
でも、それだけなのだろうか。
天下を取る人が、良い人で始終するわけがないと思う。
秀吉様が、そうだもの。
あの人は、良い人ではあるが悪い人でもある。
寧々様や竜子様を愛して大切にしている。
一方で、旭様を無理矢理愛する夫と離婚させて徳川様へ送りつけた。
戦場や外交では華々しくて清々しい戦い方をする。
一方で、ゾッとするほど残酷な手段にも及んでいる。
徳川様も、きっと秀吉様と同じだ。
そうでなければ、戦国最後の勝者になるはずがない。
「女房殿、いかがしたかな?」
おにぎりを食べながら、徳川様がきょとんと私を見下ろす。
やべ、見すぎたか。旭様と井伊殿の視線が痛い。
お行儀良くなくて悪かったって。謝るって。
慌てて床に指を付いて、口を開きかける。
同時に、お腹が思いっきりなった。
ぐぅぅぅぅぅぅぅっ、と。
ついでにぎゅるぎゅる胃が動く音まで追加だだよ。
私の胃腸、空気読んでくんないかな!?
焦る本体を無視して、お腹は元気にごよごよと長めに鳴る。
四人分の視線が、私のお腹に集まるのを感じた。
「ははははは!
腹が減っていたのか!」
徳川様の笑い声が、沈黙を破る。
少しだけ出たお腹を揺すって、子供のように徳川様は笑う。
わらっ、笑わなくてもいいでしょ!?
子供のささやかなお腹の音で、そんなにウケる必要ある!?!?
ますます熱くなる顔を手で覆ってうずくまる。
世界を受け入れたくないぃぃ……はずいぃぃぃ……。
「っふふ、女房殿、顔を上げられよ」
「……ちょっと待ってもらえますか。
今、恥ずかしいので」
「くくっ、そうか、それもそうだな」
ぽんぽんと頭を撫でられる。
手の厚みが父様に近くて、安心してしまうのが悔しい。
純粋一〇〇パーセントの羞恥で震えていると、目の前におにぎりを置かれた。
ちらっと見上げる。私に食べ物を与える時の父様と、まったく同じ顔の徳川様がいた。
「ほら、お食べ」
「えっと、お気持ちだけ……」
「遠慮などせんで良いから、ほらほら」
断ろうとする私に、徳川様はどんな勘違いしてくれてんだ。
なんでそこで、おにぎりを追加してくる。
いや、お腹が減ってなくもないけれどね?
ここで食べたら、私はお腹を減らして徳川様をガン見したお子様です、と宣言してるのと一緒になるじゃん。
本来なら思春期の前振りがスタートするセンシティブお年頃ですよ、私。
もうちょっと、こう、気遣って丁寧に扱ってもらえません……?
「……殿」
私たちを眺めていた旭様が、ふいに口を開いた。
「……ともに過ごしてくださって、
ありがとうございます」
ゆっくりと、旭様の丁寧に結われた頭が下がる。
髪を飾る螺鈿のコームが、きらきらと陽を弾く。
「なんの、したくてしておるゆえ」
徳川様の大きくてくりくりした目の横に、朗らかいう言葉にぴったりな皺が刻まれる。
柔らかに似たような皺を浮かべる旭様の手を、大きな両の手で包むようにして握った。
「ワシとともにあっても、
辛うはござらぬか」
「……はい、ちっとも」
分厚い手の上に、薄くて小さな手が重ねられる。
「ならば、ここらで終いにいたしましょうか」
「……殿の仰せのままに」
頷く旭様の肩を、徳川様が満足そうに撫でた。
徳川様のすくりと立ち上がる。
井伊殿に手を伸ばされた手に、顔の隠れる編み笠を差し出された。
笠を受け取って被りながら、徳川様はにこりと旭様に目を戻す。
「では、ワシは屋敷へ帰ります」
「承知いたしました、お気をつけて」
「旭殿はいかがなされる?」
沈黙は、ほんの数秒。
旭様はゆっくりと首を横に揺らした。
「……ワタクシは、今しばらくこちらに」
うそ、帰らないの?
意外な返事に、私と大政所様は顔を見合わせる。
かんっっっぜんに今、帰る流れだったよね。
タイミング逃してもいいの? 大丈夫?
おそるおそるうかがうと、旭様が袖で口許を隠した。
「……お与祢」
ひたり、とグレージュで彩った目で見据えられる。
静かな声がやけに重い。
常に無い様子に、背筋を正して向き直る。
旭様と、目が合った。
感情の読めない黒い瞳に、力がこもっている。
肩に、そっと手が乗せられた。
木綿の小袖越しに、ひんやりとした体温が伝わる。
「……義姉上にお願いしてくれるかしら」
「何をでございましょう」
旭様の唇が、吊り上がっていく。
片方だけ。ゆっくり、ゆっくりと。
やばい。妙なお願いをされる予感しかしない。
ひきつりかける頬を必死で抑える私に、一重のまぶたがさらに細まった。
「……ワタクシも、義姉上のお手伝いをさせていただけるかしら」
「はあ、何のでしょうか」
「……行幸のよ」
「え?」
つい、間抜けた声が零れる。
私も、大政所様も。井伊殿すらも、目を限界まで見開く中。
嬉しそうな徳川様と頷き合って、旭様が微笑む。
控えめに。けれども、はっきりと。
「……関白の妹にして徳川の妻として、
ワタクシも行幸に供奉いたします」
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