徳川夫妻の仲は悪くない(2)【天正16年4月9日】
「甚兵衛さがっ?」
「大政所様」
立ち上がりかけた大政所様の袖を、私の手が掴む。
人差し指を口元に当てて、畑の方へ顔を向ける。
ぐ、と細い大政所様の首の喉元が鳴った。
この話、刺激が強すぎるかもしれない。
そっと井伊殿へ、目配せをする。
井伊殿はわかっていると言うように目を伏せた。
「やめましょうか」
「かまわん」
苦しげに顔を歪めながらも、大政所様は首を横に振った。
「続けてちょお」
「大政所様、ですが」
「ええの、井伊殿。
早う話しやあ」
「は……」
大政所様が井伊殿をうながす。
青い顔色で、食い入るように井伊殿の口元を睨んでいる。
鬼気迫るさまに、さすがの井伊殿も引き下がった。
倒れやしないか心配だが、本人が望むならしかたないか……。
万が一の時は支えられるよう、私はそっと大政所様のお側に寄り添った。
「では、続けます。
そも、なぜ副田殿が自死を選ばれたか」
「藤吉郎が余計なことをしたんか」
「いえ、そうではありませぬ」
「ならばなんで、あの御人は死んだの」
唇を震わせて、大政所様が問う。
井伊殿は、ぐ、と唇を噛んだ。
涼しい切長のまぶたの間、目だけが畑の方へと動いた。
晴れやかな空の下のそこには、徳川様と旭様が寄り添っている。
「殿と御前様が、仲睦まじくなられた。
それを、知ってしまわれたがため」
「……それだけ」
「はい、ただ」
井伊殿の表情から、声から、感情が殺される。
「副田殿に御前様のご様子を伝えた者が、
悪意ある形で伝えたようです」
「悪意?」
「……旭様は、もう副田殿をお忘れになった。
忘れるように仕向けたは、大政所様、と」
大政所様の体が、ふらりと傾ぐ。
支えた肩がさざなみのように震えている。
枯れた両の手が、必死で口を塞いでいる。
まだ長くない腕を回して大政所様を支えながら、私も唇を噛んだ。
旭様の元旦那さん……副田様は、本当は旭様を連れて逃げる気だったと、旭様から聞いている。
だが、逃げたらどんな目に遭うかわからない、と旭様が止めた。
秀吉様という人は、思い通りにならない者にはわりと冷酷だ。
逆らえば副田様が酷い目に遭いかねない、それは嫌だと説得した。
どんなことになってもいいから、とにかく無事に生きていて。
離れても、もう会えなくなっても、死ぬまで心は貴方のものと。
そう約束したのだと、旭様は少し寂しそうに、でも幸せそうに言っていた。
結局、副田様は旭様と離婚する対価を受け取らずに隠棲した。
旭様が、生きてと望んだから屈辱に耐えて生き延びた。
抗う力は無くても、誰にも奪わせられないものが自分たちにはある。
それだけを支えに、なんとか生きていらした。
……だからこそ悪意の毒が副田様に効きすぎた。
「誰が、甚兵衛さに、教えた?」
掠れ果てた声で、大政所様が問う。
「当家が御前様のお側に付けた、
女房の一人にございます」
「……どうして」
「御前様が、疎ましかったと」
怨恨だった、そうだ。
その女房は元々、徳川様の御側室に仕えていたらしい。
彼女は御側室本人に、旭様を助けに行くよう言われて送り出された。
急に駿河に来た旭様がお困りだろうから、ってね。
御側室本人は、とても良い人だそうだ。
目が不自由な人を自費で支援するとか、福祉系に力を入れている人らしい。
そういう人だから、心のからの善意で困っている旭様を助けようとした。
だが、女房の方は御側室とは違った。
敬愛する御側室に哀れまれる身の上の人の面倒を、優しい私が見てあげている。
ちょっと失礼な心構えで、彼女は旭様に仕えていたんだそうだ。
そんな見下している旭様に、大政所様の仲介で徳川様の寵愛が向いた。
御側室より美しくなくて、垢抜けない田舎者で、歳だっておばさんで。
なのに、徳川様に手を取られて大事にされ始めた。
徳川様の足が、旭様のせいで御側室からほんの少し遠のいた。
女房にとって、旭様は変わった。
……憐れむ対象から、最悪の邪魔者に。
しかし、邪魔に思っても旭様を排除することは不可能に近い。
旭様は徳川と羽柴を繋ぐ役割を担っている。
直接危害を加えれば、徳川家にいらぬ被害が及びかねない。
狙うならば、旭様以外。
それに害が及ぶと、旭様が悲しんだり苦しんだりするもの。
できるならば、心身を損ねるほどのショックを与えるものが良い。
それを探るために、女房は旭様を懐柔した。
親身に接して、一番の味方のように振る舞って。
旭様に心を許させるまでに至り、副田様の存在を知ったのだ。
「かの女は、旭様に囁いたそうです。
副田殿に文を書いてみないかと」
「駿河御前様は、それに乗ってしまったんですね」
「左様、気が緩んでおられたようだ。
こっそりと自分が渡す、安心しろと言われてな」
徳川様との仲が落ち着き、新しい生活も軌道に乗り始めていた。
少しくらいなら、という気持ちが旭様の心に芽生えていた。
手紙でもいいから、愛する人に心配ないよって伝えたい。
微笑ましいほどささやかな望みを、女房に利用されてしまったのだ。
その結果が、副田様の死。
妻の前夫の訃報を受けた徳川様は、旭様に知らせないよう指示を出したそうだ。
旭様の心が耐えられないだろうから、と。
今はまだ、知るべきではない事実だというのは誰の目にも明らかだった。
お側仕えの者たちも、警護の任に当たっていた井伊殿も、誰もが副田様の死に口を噤んだ。
そんな最中に女房は、満を持して旭様に囁いた。
『副田様は自害されました』
『御前様が殿と睦まじくなったことを恨んで、
呪って亡くなられたんですよ』
あとは、もう、転がるように。
旭様は心も体も壊して、弱っていったのだそうだ。
「酷すぎ……」
それ以外に表現のしようがない。
恋人を奪われたメンヘラガンギマリ女レベルだ。
嫌った相手に直接ではなくて、相手の大事な人への加害に及ぶってさあ。
狡猾すぎてえぐい。背筋が寒くなってきた。
その女房、捕まったんだよね? 野放しになってないよね?
「拙者が斬ったぞ」
「井伊殿が?」
「殿が御前様より事実を聞き出されてな。
御殿より引きずり出して斬った」
井伊殿、それは平然と言ってのけることか。
いや、その女房は罰せられてしかるべきなんだけどさ。
サクッと斬刑ってあたりに、戦国時代を感じる。
「ようやってくれたね、井伊殿」
「いえ、こちらこそ御前様に害が及ぶまで気付けず」
「ええんよ、旭も甚兵衛さも少しは救われたでしょお」
「ならばようございますが……」
「欲を言えば
火炙りにでもしてくれたらよかったんやけどな」
「ああ、左様ございましたな。
短慮で申し訳ございませぬ」
ちょ、大政所様。そこ、褒めるところなんだ。
しかも斬刑より過激な刑罰を希望するんだ。
秀吉様に連なる血を感じる発言だな、おい。
井伊殿も井伊殿で同意しちゃうのかい。
会話の物騒がすぎて、私そろそろ震えちゃいそうだよ。
怖い、拷問や酷刑談義に行かないで。早く話を進めて。
二人の意識を逸らすため、私はひきつり気味な声を上げた。
「そ、それで、駿河御前様が心身を病まれたんですね」
「ああ、副田殿のこともだが、
女房のことも気に病まれてな」
「女房のことまでって、どうしてです?
加害者ですよね?」
「女の心情に気づかなんだことや、
殿に事実を漏らしたことで、死に至らしめたことを気にされたようだ」
元の旭様ならありえそうなことだ。
人の気持ちをはかり過ぎるって性格が良くないスパイスとして効いちゃったか。
それに根が凡人だもんね。自分の影響力に恐くなったんだろうな。
自分が人の人生を狂わせたんだ、って歪んだ認知をしてしまったってところか。
つくづく、旭様って大名の正室には向いてない。
「徳川様も、困られたでしょうね」
「どうやっても御前様の気鬱が晴れなんだからな」
徳川様はちゃんと旭様の気持ちに気づいたらしい。
非はすべて女房にあって、旭様に非は一切無いことを説かれたそうだ。
副田殿は不幸だったが、ちゃんと菩提を弔うようにしようと提案もした。
最終的には、旭様とうっすら仲良くなっていた御側室数名も加わって慰めにかかった。
旭様は羽柴から受け入れた正室だから、立て直してもらわなきゃやばい。
そういう政治判断もあったけど、ちゃんと情もあって、全力で旭様をケアなさった。
けれど、ダメだった。
慰めるほどに、どんどん旭様は病んでいく。
にっちもさっちもいかなくて、密かに引いてあったホットラインで大政所様にSOSを出して今に至る、なのだって。
「駿河御前様が、そんなギリギリだったとは……」
そりゃ衝動的に髪を切ってしまいたくもなるわ。
私は今の今まで、旭様のことを勘違いしていたよ。
ただ新しい旦那との関係や、慣れない土地での生活が上手くいかなくて、抑うつ症状が出た。
いわゆる適応障害みたいなもの、とばかり思っていた。
お洒落して気分転換したら、ちょっとはすっきりするくらいの悩みでしょーって。
深刻に考えていなさすぎて、逆に申し訳なくなってくる。
「仕方なかろう、
御前様も申されにくい話だったろうから」
「そぉよぉ、お与祢ちゃんに言って解決するでもなし」
ねえ、と井伊殿と大政所様が顔を見合わせる。
仲良しかよ……。ちょっと肩の力が抜けた。
「しかし、ようござった」
私をほったらかして、井伊殿が畑へ視線を移す。
「御前様はずいぶんと落ち着かれたようですな」
「そやな」
大政所様も、深く頷く。
「なんとか乗り越えてくれたようで、
ようござったわ」
それはどうだろうか。
胸を撫で下ろしている二人を見て、少し疑問に思う。
起きたことが起きたことだ。
実家に帰って少し休んで、簡単に蹴りをつけられる問題だとは思えない。
表面的には元気でも、徳川様と元通りに見えていても。
旭様の心の中は、どうなっていることか。
こればかりは、本人が口にしてくれない限りわからないよ。
大政所様も、井伊殿も、私も、旭様ではないのだから。
安心するにはまだ早いんじゃないかな。
「お茶の用意をしてまいります」
「あら、侍女に頼んだらええやないの」
「いえ、少し痺れた足を動かしたくて」
へらっと大政所様に笑いかけて、私は腰を上げた。
まだまだ私は顔に表情が出やすい方だ。
旭様や徳川様に勘付かせて、薄氷を踏み抜く真似はしたくない。
いったん、奥に引っ込んで切り替えてこなくちゃ。
何か言われる前に、さっさと台所の方へ歩き出す。
目の端に、畑から戻ってくる徳川様と旭様が映った。
二人の間には、穏やかな空気がある。
ちゃんと上手く行っている夫婦に見える。
……その温かさに裏がなければ、良いんだけれどな。
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