徳川夫妻の仲は悪くない(1)【天正16年4月9日】
今年は四月に近づくにつれ、本業が激務化してきている。
旭様に付きっきりで、のほほんしてるわけじゃないんだよ。
寧々様や竜子様の御化粧係の仕事は、毎日がっつりやっている。
とと屋へのコスメやスキンケアグッズの発注や、工房との新製品の開発に関する意見交換もしている。
自分の侍女にメイク・スキンケア・各種マッサージの技術指導や、知識を共有するための講座もやる。
他にも寧々様のお側に控えたり、お茶出し係をしたり。
中奥や竜子様へのメッセンジャーという、女房本来の業務もガンガン挟まれる。
プラスで手習い、茶の湯、華道、行儀作法諸々のお稽古がほぼ毎日ローテで一つずつ。
合間合間に中奥で佐助と面会して、山内家との定期連絡だってやる。
そこへさらに、行幸の際の城奥女性陣のメイクの総責任者の仕事ですよ。
流石にね、必要物資の準備や人員配置、当日のスケジューリングや事前説明はほぼ終わっているよ?
年明けから準備を進めてきたからね。
でも大イベントの直前はイレギュラー連発が世の常だ。
イベント進行の予定変更、参加者の体調変化。
突然発覚する不備やミスに、現場を知らない上からの横槍のオンパレードだ。
特に予算関係。城表の奉行衆とばちぼこに戦った。
お金使いすぎってケチつけてくんだよ、あいつら。
本当に必要な物や人員なのか。
過剰な請求をしていないか。
なぜそれが必要なのかわからん。
子供が適当を言ってるんじゃないの?
そもそも、化粧品って必要なわけ〜?
出るわ出るわ、一瞬前世で戦った財務部や経理部を彷彿とさせるご意見の数々。
石田様が味方になってくれるかと思ったが、まあそんなことはない。
むしろあいつ、率先して突っ込んできやがった。
個人的に知った仲だから、直で呼び出して質問攻めとかされた。
だから私はやってやったよ。
予算配分やその予算が必要な理由、予算の使用状況やちゃんと無駄なく使っている証明etc、etc。
侍女たちと手分けして、おこや様や萩乃様にも手伝ってもらって、全部書面にまとめてやった。
時にはわざわざ城表まで面倒な手続きをしては出向いて、直接説明もじっくりやった。
ここまでやったら石田様や片桐様───石田様の現ストッパーさんあたりは納得してくれた。
ちょっとだけ寧々様が援護してくれたから、ここらで許してやんよって感じだけどね。
初めてにしては上出来、がんばったねって褒めてくれた片桐様の好感度は上がった。
石田様は一切褒めてくれなかった。
でも軽い書類ミスを黙って直してくれたので、好感度は上げた。
だがね。
それでもまだ、納得してくれない一部の奉行がいるにはいる。
財務特化型の人たちなんだけど、奴らとは今もなお戦闘状態だ。
代表格が増田と長束のおっさん。
私が子供だからって馬鹿にしやがって! 馬鹿にしやがって!!
私の頭を飛び越して孝蔵主様や東様に行くな!
私はお飾りじゃなくて実務担当者なんだって何度言わせんだクソが───ッッッ!!!!
「そんな感じで苦労してるんですよ」
「そういう頭硬いクソ、なぜ存在するんだろうな」
誰を思い出したのか、井伊殿が露骨に嫌な顔をした。
いるのか、徳川家にも増田や長束の同類が。
「ほんとあいつら、禿げればいいのに」
「戦さ場で流れ矢に当たればいいのに」
のどかな春の朝に、二人分の呪詛が溢れる。
ここは大政所様の家庭菜園の側。
小さい屋敷の縁側で、我々は待機中だ。
世話をすべき徳川様と旭様が、畑で仲良くふたりで野良仕事である。
本来なら手伝うべきなんだけど、手出しせず待っとけと言われている。
こうなると、私も井伊殿も待つしかできない。
帰って他の仕事をしたいところだが、そっちの許可も出されてない。
じっと座って無駄に時間を潰させられる者同士、世間話くらいはするようになってしまった。
だって、徳川様が畑仕事をしにくるようになった当初からずっとこうなんだもの。
お互い仮想敵の家に仕える者同士だって、ある程度親しくはなる。
まあ話すのは、御家の機密に差し障りない程度のネタばっかりだけどね。
さっきみたいな愚痴は最たる例だ。
話してみて知ったが、どうも井伊殿は徳川家では新参者らしい。
私と比べるのもなんだが、家中で下に見られがちだそうだ。
戦働きを人一倍がんばって、命に従って旭様や大政所様の護衛や世話を真面目にやって。
徳川様に認められて深い信頼を受けてもなお、古参家臣には軽く扱われやすい。
ゆえに同じく羽柴の城奥の新参者の私と、人間関係のむかつくポイントが重なっていた。
ストレス源になるク、いや、対立する相手のタイプも似通っていた。
だから斬る斬られるの物騒な出会いを経験しても、愚痴仲間くらいにはなったのだ。
主筋があんなにほのぼのやっているのに、従者の我々はやさぐれていて笑える。
「しかし、いつまで殿はこれを続けるんだろうな」
「知りませんよ」
餅菓子を摘む井伊殿に、そっけなく返す。
徳川夫妻のお忍び畑デートの終わりなんて、こっちが知りたい。
お二人がこそこそ畑で会うようになって、もう一〇日か。
宣言通り、徳川様は毎朝大政所様の畑に通っている。
門番さんに化けて、井伊殿一人を護衛にしてだ。
城外の徳川屋敷から聚楽第へ、毎日どういう方法で侵入しているんだろうか。
と、思ったら、忍び込みはしてなかった。
旭様の屋敷の門番さんたちが寝泊まりする長屋に、こっそり住み着いていた。
忍び込むよりヤバイ行為に及んでいたとは……。
さすがに旭様の知るところになってからは、屋敷の方へ移動なさったが、ヤバイことには変わりない。
だって帝の行幸まで、あと四日か五日だよ?
人の出入りもガンガン増えてきている。
万が一、外部の人に徳川様の不法滞在が知られたら事だ。
正直、早く帰ってほしい。
井伊殿も帰りたがっている。
でも、いまだに徳川様は帰る気配がない。
旭様も帰るように促す素振りを見せない。
夫婦で仲良く崖っぷちで踊るんじゃない。
「……駆け落ちでもする気かな」
「は? 縁起でもないことを申すな」
「だって、お二人とも野良仕事に熱心すぎません?」
農家として生きる予行練習かもしれないじゃないか。
そう言ってみたら、井伊殿が顔を赤くして睨んできた。
照れとかじゃなく、苛立ちですぐ真っ赤になれるとは。
無駄に色白かつ血の巡りが良い人だな。
「殿は無責任な方ではない。
家を捨てるなど絶対なさらぬ」
「真面目な人のおいらくの恋って、
めちゃくちゃ厄介なんですって」
「こっ……ふしだらだぞ。
女童のくせにどこでそんなことを覚えた」
「秀吉様に聞きました」
「関白殿下、とんだ助平爺だな?」
そこは同意する。
子供の前で余計な恋愛知識を披露する秀吉様は、教育に悪い助平爺だ。
へっと鼻で笑う私に、井伊殿が頭痛が痛いみたいな表情になった。
「うちの殿は殿下と違う。
色恋には惑われぬ」
「どうですかねえ」
「惑われぬと言ったら惑われぬ!
御前様と野良仕事をするのも珍しくはない!」
「へえ、駿河でもなさっていたんですか」
「左様だ、御前様の御殿でなさっていた」
おっと意外な事実発覚。
旭様が一人で手慰みに畑をしていたわけじゃなかったのか。
二人揃って畑なんて、どうして始めたんだろう。
「おらぁが誘ったんよ」
「大政所様!」
ひょこっと屋敷の奥から大政所様が顔を出した。
お昼ご飯におにぎりを握ってきてくれたらしい。
菜葉ご飯のおにぎりがいっぱい乗ったお盆を抱えて、にこにこ私たちの側にやってきた。
「井伊殿、覚えとる?」
「な、なんでございましょう」
「ほら、おらぁが駿河で暇した時よぉ。
旭の御殿の庭を一つ潰して畑にしたでしょお」
「ああ……」
思い出したのか、井伊殿が遠い目になる。
てか、大政所様なにやってんの。
よそんちの御殿の庭を潰して畑にするって大胆すぎる。
「あの畑のこと、井伊殿が婿殿に、
許しを取ってくれたでしょお」
「井伊殿が徳川様にですか?」
大政所様の駿河滞在中って、徳川様は大坂に行っていたんじゃなかったっけ?
どういうこと、と視線で訊ねると、井伊殿が遠い目のまま口を開いた。
「……早馬を飛ばさせたのだ」
「え? 畑のために?」
「畑のためにだ」
「懐かしいねえ、ええ茄子が採れたね」
きゃっきゃと大政所様が笑う。
「でも本多殿やったかね?
なんかえろう怒っとったけど」
「え、怒られたのですか」
「そぉよぉ、屋敷の周りに薪積んでな、
燃やすとか物騒なこという御仁で困ったわぁ」
本多ナントカさん過激だな!?
困ったどころのレベルじゃないわ。
人質に城の中で好き勝手されて怒るまではわかるよ?
でも、即焼き討ちコマンドを選択しようとするって蛮族がすぎる。
井伊殿も慌てて早馬を飛ばして、徳川様に連絡するわけだ。
徳川家家臣団、ヤバイやつ飼ってるな……怖すぎる……。
隣でますます目が遠くなる井伊殿が、ちょっと哀れに思えてきた。
「そ、その畑を旭様もなさっていたんですね」
「うん、そうや。
御殿にこもって泣き暮らしとったから。
野良仕事で気を紛らわせえって連れ出してたよ」
「はあ……」
「そんで一緒に畑しとる間に、
婿殿も戻ってござってな」
大坂から帰ってきた徳川様を、畑に誘ったわけか。
そして徳川様もそれに乗った、と。
このおばあちゃん、とんでもなく神経が太いな。
遠慮が良い意味でないし、押しが強い。
乗った徳川様も徳川様で、おおらかすぎるのだが。
唖然とする私をよそに、大政所様が懐かしい目で続ける。
「楽しかったねえ、旭も婿殿も仲良うなったし」
「あのように?」
家庭菜園のお二人を見る。
そろって背中を丸めて、雑草を抜いていた。
何かぼそぼそと話しながらのようだ。
時々、麦わら帽子の下に笑みすら浮かべている。
おだやかなその様子に、大政所様は深く頷く。
井伊殿もだ。眉間のシワを伸ばしていて、顔色も赤くしていない。
なるほど、あれが通常のおふたりだったわけね。
無理矢理な政略結婚の結果としては、かなり良い夫婦関係になってたんだな。
「やから安心して、
大坂に帰ったんやけどなあ」
大政所様のシワ深い目元が、ふと暗くなる。
「井伊殿、何があったん」
「……それは」
歯切れの悪い井伊殿に、大政所様が膝を向ける。
「藤吉郎には言わんよ」
「……まことですか」
「ああ、あのたわけは何を知っても、
いらんことしかせんやろしな」
相変わらず、秀吉様の信用は紙切れ以下だなあ。
信用のなさにちょっと驚くが、まあそれもそうか。
はっきり言って、秀吉様は異常なほど抜け目がない。
こと政治に関しては、利用できるものはなんでも利用する。
石ころ一つから朝廷の帝まで、余すことなく価値があれば使い切る。
徳川様と旭様の夫婦仲に問題が起きたなら、必ず利用して徳川家に嘴を差し込むだろう。
井伊殿の警戒は当然だよ。下手したら弱みを握られかねないんだもの。
「お与祢ちゃん、
寧々さに話したらあかんよ」
迷う井伊殿が言う前に、大政所様が先手を打ってきた。
言わないよ。後の将軍家の恨みは、絶対に買いたくないから。
黙って頷いて、私は敷物の上で座り直した。
気配を殺して、いるけどいないモードに入る。
「これでどうやろか」
「……承知いたしました」
井伊殿の、低められた声が返事をする。
衣擦れの音がした。隣の井伊殿の気配が動く。
大政所様の側へ寄ったのだろう。
「拙者の知るかぎりではございますが、
よろしゅうございますね」
大政所様の返事は聞こえない。
ややあって、井伊殿がさらに低めた声で話し始めた。
「事の始まりは、昨年秋。御前様の前夫、
副田甚兵衛殿に関する知らせがありました」
「甚兵衛さの?」
「はい、副田殿が……その……」
一瞬、井伊殿が言い淀んだ。
「……隠棲先で、自害なされたそうです」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます