狸と鬼の来訪【天正16年3月末】




 閉め切られた座敷の下座で、私は震え上がっていた。

 上座にいるのは、一人のおじさん。

 歳はたぶん、父様と同い年くらい。

 固太りっていうのかな。ちょっとふくよかな体型も、よく似ている。

 お顔もそんなに怖い感じじゃないから、親近感が湧く。

 困った感じに眉を下げて苦笑しているし、右隣に控える大政所様や旭様も苦笑している。

 あ、これ怒ってなさそうって三人の顔だけ見れば思えるんだけどね?




 左隣に、刀に手をかけた赤鬼が控えていて、ぜんぜん安心できねえよ。




 わぁ、顔真っ赤ぁ……。

 お兄さん、せっかくのイケメンが台無しですよ?

 引きぎみの愛想笑いを向けてみた。

 鯉口を切る音が返ってきた。

 ははっ、くっっっっそ怒ってらっしゃる。

 待って、お願いだから。物騒なことはやめよう。

 大政所様たちの前で刃傷沙汰はやめとこ? ね?

 謝るから! 早急に! 可及的速やかに!!

 


「まことにっ」



 赤鬼いさんが爆発する前に、畳へおでこを擦り付ける。

 土だったらめり込んでいるくらい、ぐいぐいと。

 そして、息を吸い込む。



「申し訳ございませんでしたぁぁぁぁぁ!!!!」



 だから許してくれえええええ!!!!

 切り捨て御免だけはやめてえええええ!!!!!






 やらかしました。

 不審者だと思って鏡で攻撃した相手が、徳川家康様でした。

 なんで覗きなんかやってたんだ、大大名。

 正室を覗き見とか、のちの征夷大将軍がやることか。

 想定できない事態ですよ、これは。

 まあ、だからだろうね。

 私の攻撃を食らって墜落した徳川様ご自身は、怒ってはらっしゃらなかった。

 イレギュラーかつバレるとやばいことをしていた自覚があったんだろう。

 発見した時にその場で速攻で謝ったら、バツの悪そうによいよいと言ってくれた。

 痛かったし驚いたけれど、旭様を守ろうとしたのなら構わないって。

 でも、側にいた赤鬼イケメン……井伊殿の方は、問屋を下ろしてくれなかった。


 刀を抜いて、斬りかかってこられましたわよ。

 殿に無礼を働いた不届き者めって。


 徳川様や護衛の皆さんが必死で止めてくれたけど、とんでもねえ殺気で私はちびった。

 腰も思いっきり抜けて、ついでに泣いたわ。

 気持ちはわかるが怖すぎたわ、マジで。死ぬかと思った。


 そんなこんなで、状況の収集がつかなくなったのは言うまでもないよね。

 慌てた大政所様が人が集まらないうちにって、全員を畑の側の座敷に突っ込んでくれなきゃどうなったことか。

 ちびった私は旭様や侍女によって、すぐお風呂に突っ込まれて洗われました。

 よしよしされて、着替えさせられて、飲み物を与えて落ち着かせられた。

 至れり尽くせりだけど、子供扱いされまくりだ。

 いや、今の私、九歳だったわ。

 子供扱いは当たり前か。


 その後、やっと落ち着いてから改めて座敷に連れて行かれて今に至るわけである。

 


「落ち着け、万千代。

 女童のやったことだろう」


「ですが! この娘は殿に!!」


「だから落ち着け。

 この娘も悪気があったわけではなかろう?」



 な? と徳川様に振られて、がくがく頷く。

 完全に相手を不審者としか思ってなかったよ。

 徳川様だとわかっていたらあんなことしてないわ。

 絶対恨みなんか買いたくない相手だもん。

 山内家のためにも、私自身のためにも、最後の天下人に嫌われるとか悪夢だ。



「本当にごめんなさい……」



 涙で鼻を鳴らして、もう一回謝る声が震える。

 井伊殿は収まりがつかないのか、ぎろりと私を睨んだ。

 視線に攻撃力があったら、私何回死んでるかな。

 そのくらいの殺気が隠しもせず込められている。

 座敷から出た途端、すぱっと斬られても不思議じゃないな……。

 まだ死にたくないんですけどぉ……。

 震え上がる私に、旭様が大きなため息を吐いた。



「……井伊殿、ワタクシからも謝ります」



 興奮気味の井伊殿の方へ膝を向け、すっと指を畳に突く。

 そして旭様は、ひょいっと井伊殿に頭を下げた。



「……ワタクシがこの娘の、

 手綱を握り損ねたせいです」


「え、ご、御前様!?」


「……許してやってちょうだい」



 さすがに興奮していても、殿様の正室に頭を下げられたら焦るか。

 井伊殿の顔色が平常モードに近づく。



「御前様! 頭を上げてください!」


「……悪い子ではないのよ。

 少し、迂闊な子だけど」

 


 迂闊は余計だと言いたいが、迂闊に攻撃に走ったから否定できないのが悲しい。

 胸を掻きむしって走り出したい気持ちを堪えて、もう一度徳川様に謝る。

 軽いとはいえ怪我をさせちゃったし、謝罪してもし足りないからね。

 それに許すって言質をしっかり取っておかなきゃ、今後安心できない。

 関ヶ原の時とかに蒸し返されたら最悪だもの。



「井伊殿、許してやってちょーよ。

 おらぁからも頼むよ」



 見兼ねたのか、ついに大政所様も加勢してくれた。



「大政所様まで、そのようなっ」


「第一なあ、おみゃあさんらも悪いのよ?」


「……殿の何が悪いと」


「おいでと言ったのはおらぁやけどね、

 そんなかっこで来るのはどぉなの?」



 言い募ろうとする井伊殿に、大政所様がぴしりと指を突き付ける。



「殿様らしゅうないかっこで、

 庭の木の陰からこそこそ覗くんやもの、ねえ?」


「……来るなら来るで、

 ちゃんとしてらっしゃると思っておりましたわ」



 旭様も、井伊殿と徳川様をまじまじと見る。

 二人の格好は、無地の薄茶の小袖に藍染の袴。

 旭様の滞在している屋敷に控える、門番さんたちのお仕着せだ。

 この格好で手拭いなんかで顔を隠してしまえば、一見して大大名とその近習とは思われないはずだ。

 きっと本人たちも、それを目的として門番の装いをしているんだと思う。

 旭様に見つめられた徳川様が、恥ずかしそうに頭を掻いているのが証拠だ。



「いやあ、おかか様のご指摘の通りです」


「やろう? お与祢ちゃんが勘違いするのも、

 しかたにゃあよなあ」


「ははは、まことに左様で」



 徳川様が井伊殿の肩を叩く。



「我らにも非があったのだから、

 そこまでにしておけ」


「ですが……」


「お前の忠心はようわかった。

 だから、なあ?」


「……」



 パチン、と井伊殿の刀が収められる。

 ほっとした顔で、徳川様がそんな井伊殿の背中を叩く。

 それが恥ずかしかったのかもしれない。

 井伊殿は拗ねたような表情で、わざとらしくどかっと敷物の上に座り直した。

 やる気ありすぎる大型犬と飼い主みたいだな、この人ら。

 殺気もあらかた消え失せて、場の空気が緩んだ。

 たぶん、もう斬られる心配はないかな?

 緊張が解けて、私も敷物にぺたんと座り直した。



「しかし、果敢な娘だなあ」



 そんな私をしげしげと見ながら、徳川様が面白そうにおっしゃる。



「曲者を見つけても怯えず、一矢喰らわせるとは。

 なかなか幼い娘にできることではない」


「……殿、ただの無謀ですよ」



 感心する徳川様に、呆れたように旭様が訂正を入れる。



「……考える前にすぐ動いただけです、この子は」


「しかしだなあ」


「……先走って失敗してからの巻き返しが、

 妙に上手いだけなのですよ」



 困った子、と旭様がからかうような目配せをしてくる。

 当たらずともとおからじですけど、酷くない?

 上げて落としているんだか、落として落としているんだか。

 抗議を含めて目を眇めると、鼻で笑われた。

 またそういうことするー!



「旭殿」



 私たちのやりとりを見ていた徳川様が、旭様に呼びかける。

 穏やかな面持ちが、振り向いた旭様を迎えた。



「少し、変わられたな」


「……そう、見えますか」


「ああ、ずいぶん溌剌となさっている」



 だるだるな旭様のどこが溌剌だって?

 この人、目が曇ってるんだろうか。

 怪訝そうな顔になる私をよそに、徳川夫妻は二人の世界から出てこない。



「その髪、どうなされた」


「……そこのお与祢に、結わせました。

 おかしいですか」


「ワシは好もしいと思いますぞ」


「……ありがとう、存じます」



 照れた! 旭様が照れてる!

 素直にお礼言った!! すごい!!!

 今旦那の徳川様のことも、嫌いではないってことなのかな。

 気心が少しは知れているって雰囲気がある。

 にやにや見守っていると、旭様に横目で睨まれた。

 おおこわ。でも悪くない表情になってますよ、旭様。



「旭殿」



 そんな妻に気づいていてか、気づいていなくてか。

 徳川様が旭様の名を、また呼ぶ。



「……なんでしょうか」


「駿河へ、お戻りになれそうか」


「……それは」



 切り込まれた旭様が、言葉に詰まる。

 駿河へ戻れるか否か、か。

 徳川様としては、早く戻ってきてほしいのだろうか。

 一応聞いている、というふうには聞こえなかった。

 徳川様の言い方には、かなりの気遣いが見え隠れしている。

 旭様も旭様で、悩んでいる様子だ。

 戻りたいけれど、踏ん切りがつかない。

 そんな気持ちが滲んでいるようなお顔だ。



「……殿」


「はい、なんでござろう」


「……今しばらく、お待ちいただけますか」



 徳川様は、にこりと笑う。



「もちろん」


「……ありがとうござ」


「しかし」



 深い緑の袴の膝を握る旭様の手に、ごつごつとした手が重なる。

 怯えたような旭様の顔を覗き込んで、徳川様は続けた。



「しばらく、一緒に畑をしてもよろしいか」


「……え?」


「何やらおかか様と面白い薬草を植えられたようで。

 ワシも混ぜてくださらんか」


「……ですが殿、

 行幸での供奉ぐぶの支度でお忙しいのでは」


「ご安心召されよ、

 暇は作ってきておる」



 噛んで含めるような徳川様の言葉に、私は唖然とした。

 は? もう行幸直前だけど準備とかいいの?

 私が聞いている予定だと、徳川様は秀吉様の側近くで帝の随行をするはずだ。

 その後の式典とか、催しとかも色々メンバーに入っていたよね。

 リハーサルとか打ち合わせとかないの? 大丈夫か? トチると秀吉様がキレるぞ?

 心配になって、井伊殿に視線を送る。

 渋い顔で、軽く頷かれた。

 マジでちゃんとまとまった時間を作ってきたのか。

 何やっているんだ、徳川様。

 帝の行幸より旭様との畑仕事に時間を割くって、どういう判断なの。



「よろしいかな」


「……わかりました」



 徳川様のお願いというか説得に、とうとう旭様が折れた。



「……ですが、お勤めに障らぬようにお願いします」


「ええ、そのようにいたそうとも」



 にこにこの徳川様に、旭様は困ったよう肩を落とした。

 ため息を吐いて、こめかみに指を当てて。

 でもその表情は、どことなく嬉しそうだった。


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