ヘアセット入ります!(2)【天正16年3月中旬】
さてさて、大政所様の髪にマジェステをセットする。
夜会巻きの上の毛をちょっとほぐす。
崩れないよう気をつけてふわっとさせてから、まとめてある部分の上の方へバレッタを当てる。
そしてしっかりとスティックを挿せば完成。
和装の老貴婦人のいっちょあがりだ。
「結い終わりました、
いかがでございましょうか」
お夏に鏡を持たせて大政所様の後ろに回らせ、正面から私も鏡を向ける。
前後からの合わせ鏡で確認した大政所様が、ゆっくりと頷いた。
「うん、ありがとね。ええ出来栄えや」
大政所様が私の頭へ手を伸ばす。
髪を乱さない程度に撫でて、お顔を嬉しげにくしゃっとさせた。
「さすがは寧々さの秘蔵っ子やなあ」
「恐れ入りましてございます」
にっと笑い返すと、大政所様はますます満足そうに口元を緩めた。
そうして、旭様の方に向いて呼びかけた。
「旭、お待たせ。次はおみゃあの番よ」
「……あ」
胸元で両手を握る旭様の目には、戸惑いがいっぱいだ。
視線をさまよわせて、困った子犬のような表情を浮かべている。
「遠慮せんと、ほら」
「……やっぱりいいです」
「は?」
「……ワタクシの髪なんて、
手入れするほどの価値はもう……」
「ああもう! うじうじしてこの子はっ!」
決心がつかない娘に焦れたらしい。
大政所様が旭様の腕をむんずと掴んだ。
ほっそりしたおばあちゃんとは思えない力で引っ張って、旭様を私の前に移動させる。
自分の座っていた敷物に座らせて、前に回って両手を握って旭様の動きを封じてしまった。
「……お、おかかさまっ」
「しのごの言わん!
さあ旭、どんな髪に結われたいか言いやあ!」
「……で、ですが」
「好きに言えばええんよ?
なんでも旭の好きにしたらええ」
「……っ、でも」
「でもやない!」
眉を跳ね上げた大政所様が、ぴしゃりと言う。
「おみゃあはな、もっとわがままを言いやあ」
息を詰めた旭様の両の肩から腕を、重ねた歳を刻む手が撫でる。
ゆっくりと、ゆっくりと。労わるように。
「藤吉郎のわがままにばっかり付き合ったんだから、
次は旭がわがままを言う番」
「……そんな、わがままなんて」
「言うてええ! なあ?」
「はいっ!」
大政所様に振られて、私も即答して頷く。
そうだとも。旭様はこの際、ちょっとくらいわがままになっていい。
だって今まで、散々秀吉様の都合で振り回されてきたのだもの。
元旦那さんと強制離婚させられて、いきなり政治的に面倒な人と再婚させられてさあ。
知っている人も味方も一人としていない駿河で、一年以上苦痛の結婚生活を送らされたんだよ。
それでメンタルが、ズタボロになっちゃったのだ。
療養中は自分のしたいことを好きなだけやって、飽きるまで楽しんでも許される。
ストレスや鬱な気分の特効薬は、欲望の解放だ。
旭様が望むことを全部やったら、その分早くメンタルは回復する。
そのために秀吉様のお金を使いまくって、思いっきり散財に走ったって罰は当たらないだろ。
むしろ迷惑料がてら、盛大にむしり取っちゃえ。
誰が許さなくても、私と大政所様が許す。
金蔵一つ空っぽにしちゃえ、と大政所様と私がそれぞれに力説する。
旭様はぽかんとして、私たちの語りを聞き入っていた。
その顔から、少しだけ暗さが抜け落ちる。
「だからな、旭。
髪を結うのは、わがままの手始め」
大政所様の両手が、やつれ気味の頬を包む。
しっかりと目を合わせて、大政所様は旭様に語りかけた。
「旭が旭の、好きにおし」
「……ワタクシが、ワタクシの」
「そう、旭が、旭の」
ゆっくりと、はっきりと、大政所様が繰り返す。
旭様の瞬きが、ほんのわずか止まった。
息を詰めて見守っていると、ほう、と気の抜けたような吐息が少し血色の悪い唇からこぼれた。
「……ねえ、あなた」
ひたりと旭様に見据えられる。
居住まいをただす私をじっととらえたまま、旭様が唇を開いた。
「……美髪水、でしたか。
いくつか持ってきているのね?」
「はい、左様です」
「……ワタクシ、花が好きなのだけれど」
告げられたのは、初めて旭様から出てきたリクエスト。
旭様が旭様なりにがんばって口にしたそれは、緊張のせいかわずかに語尾が震えていた。
でも、彼女にとって大きな意味を持つ行動には違いない。
「承知しました!」
勇気を出してくれたことが嬉しくて、ついお返事の声が弾んでしまう。
私の勢いに固まった旭様の前に、ヘアミストの箱から一本取り出して置く。
「お花がお好きでしたら、
こちらなどいかがでしょうか?」
花の模様があしらわれた、陶器製のボトルの蓋を開ける。
花が好きなら、これが一番おすすめだ。
ボトルから少しだけ取り皿に移して、旭様に香りを見てもらう。
こわごわと受け取った取り皿に、低めの鼻先が寄せられる。
そしてふわりと、旭様の表情が変わった。
「……良い香り」
「こちらはノイバラの露でございます」
「……ノイバラって、野によく咲いている?」
お、旭様はノイバラをご存知だったようだ。
まあ、わりとありふれた野生のバラだものね。
元庶民の旭様なら、日常生活の中でよく見かけていたのだろう。
「左様です。その花を煮て、
出てきた湯気を集めたものがこちらですよ」
「……湯気を……手間がかかっているのね」
「その分値は張りますが、
効能はとても優れておりますのよ」
「……効能とは、どのような?」
「はい、例えばですね」
ノイバラは西洋のバラと同じく、蒸留すればローズウォーターが採れる。
バラの芳香がぎゅっと詰め込まれたローズウォーターは、シンプルなのに美容効果が高い優れものだ。
保湿効果はもちろんバツグン。
肌を引き締める収れん作用はあるし、アンチエイジングを可能とする抗酸化作用もある。
抗炎症作用まであるから、たいていの肌トラブルに良く効く。
おまけにバラの香りは、自律神経やホルモンバランスを整える助けになってくれる。
太古の昔からあらゆる女性が愛用した、原初にして最強に近い美容液。
それが、ローズウォーターなのだ。
「香りも素敵ですから、
駿河御前様の御所望にぴったりかと存じます」
「……そう」
もう一度、旭様は取り皿を鼻先に寄せる。
うっとりと目を閉じて、ゆっくりと呼吸を繰り返した。
バラの香りに感じ入っている、のかな。
硬かった表情に、ほのかな柔らかさが灯る。
ややあって、睫毛を震わせながら旭様の目が開かれた。
「……では、こちらを使ってちょうだい」
「承知いたしました」
いくらか穏やかなお返事に、ゆったりと頭を下げる。
ローズウォーターのヘアミストを、綿を使って旭様の髪に含ませる。
スプレーボトルがないから手間だけれど、地道に潤いを与えてあげる。
ほんの少し乾燥気味だった髪が、しっとりとしていく。
これくらいで良さげか。手にした綿をブラシに持ち替えた。
「では、髪を梳かせていただきます」
声を掛けて、旭様の髪を一房だけ取る。
白い打掛を羽織った、薄い肩が跳ねた。
一緒に体も硬くなりかけるが、大政所様に手を握られてすぐに力が抜けた。
そっと髪にブラシを当てて、ゆっくりと上から下へ動かす。
するするとブラシの歯が、黒い髪を梳いてゆく。
一梳きごとに、艶が増していく。
もともと絡まりがほとんどない様子だ。
思った以上に梳きやすくて、ちょっと驚きだ。
「駿河御前様の御髪は良い髪ですね」
「……そうかしら」
「癖が無くてまっすぐで真っ黒で、
量も硬さもちょうど良し。
なによりこの見事な艶!
文句無しの美髪ですよ!」
今の時代に一番美しいとされる髪は、サラサラストレートだ。
色は漆黒に近ければ近いほど良くて、艶やかであればなお最高。
旭様の髪は、これらの条件をほとんど満たしている。
きっと多くの人が羨む髪質だ。
「……これしか、取り柄がなくて」
「え、十分すぎません?
これだけでお釣りが来るほどの美点ですよ?」
本音で褒めると、旭様が恥ずかしげに俯く。
いや、恥ずかしがるとこじゃないって。
もっと自分の髪に自信を持っていいよ、旭様。
「……美点だなんて、そんな」
「そんなことありますよね、大政所様」
「もちろんや、旭の髪はなあ、
ちいさい頃から綺麗だったんよお」
鼻高々な大政所様いわく、庶民時代から旭様の髪は綺麗と評判だったそうだ。
最初の結婚も、旭様の髪が決め手に近かったらしい。
なんでも縁談が出た折に、旭様を見かけたお相手がその髪の美しさに目を奪われたそうだ。
それでお相手が乗り気になって、ご縁がまとまったんだって。
「すごいですね」
「お伽噺のようやろ?」
ブラッシングの手を止めずに感嘆の息をこぼす私に、大政所様がにやっと笑う。
髪で結婚が決まったなんて、本当にお伽噺のヒロインみたいだよ。
「……昔の話よ」
消えてしまいそうな細い声で、旭様が呟く。
「今の御髪もお美しいですよ」
「……でも、切ってしまったから」
「大事ありませんわ、
結うのにちょうど良いくらいですもの」
旭様の髪は、肩にかかる程度のミディアムヘア。
アレンジするにはちょうどいい長さで、髪の手入れもロングより楽な方だ。
私だって許されるなら、髪を旭様くらいの長さにしたいと思う。
「私の揃えたかんざしと細い髪紐があれば、
どんなふうにも結えます。
長い髪よりいっぱい、色んな髪を楽しめますわ」
「……長さも、わからなくなる?」
「ええ、もちろん!」
アップヘアはそういうものだもの。
いくらでも長さを悟らせないアレンジにできる。
きっちり結っても、ゆるく結ってもだ。
だからね、そんな悲しげにしなくたって大丈夫だよ。
そんな気持ちを込めて、鏡越しに力強く頷く。
「旭様は、どんな髪にしたいですか?」
「……どうしようかしら」
「ふんわりしたお望みでも構いませんよ」
たいていのヘアアレンジなら、しっかり頭に入っている。
可愛いとか綺麗とか、ざっくりしたご希望にも沿わせていただく所存だ。
鏡の中の旭様が口元に手を添える。
天井を見たり、畳を睨んだり。
視線をさんざん迷わせてから、難しい顔のまま振り向いた。
「……キツくない結い方って、あるかしら」
「ございますよ、
ゆったりと結いましょうか」
旭様が、こくりと頷く。
「……それから、髪飾りはこの銀のもので」
並べてあるマジェステの一つを、骨張った指が指す。
選ばれたのは、バレッタ部分が銀細工のものだ。
細やかな透彫が施されていて、シンプルだけれど上品で美しい。
旭様の黒髪にとっても似合いそうだった。
「承知いたしました。
ご趣味がよろしいですね」
「……派手なのはね、好きではないの」
厚めの唇が、苦笑を形作る。
「でしたら、結い方も派手すぎずにいたします」
「……そうね、それがいいわ」
旭様が同意してくれたので、方向性は決まった。
派手すぎずふんわり、だ。
だったら、ギブソンタックがいいかな。
髪を低い位置でまとめるアレンジで、簡単なのにこなれ感が出て垢抜ける。
夜会巻きほどキツくなく、ゆるくまとまって髪の長さもわからなくなる。
マジェステにも向くアレンジだから、旭様のご希望にほぼ添えるはず。
さっそくセットを開始しよう。
梳き終えた髪の両サイド、こめかみあたりから房を取り、ねじりながら後へ回す。
後頭部の真ん中より下あたりで二つを合わせて結び、それをくるりんぱにする。
くるりんぱとは、くくった髪の尾の部分を結び目の上の髪の間に通して、下から引き出すテクニックだ。
外側から内側へ巻くようにすると、いい具合に髪がふわっとする。
ピンで髪紐を固定したら、次は結んでない後ろの髪を横三つに分ける。
左右に分けた髪を、ねじりながらくるりんぱにした部分にしまってピンで固定する。
ふわっとがいいとのことなので、髪が解けない程度に緩くだ。
残りの毛束もくるりんぱに押し込んで、しっかりと結び目を固定。
後頭部の髪を少し緩ませて、後毛や不安な部分はピンでまとめていく。
最後に結び目を覆うようにマジェステを付ければ、完成だ。
「駿河御前様」
まとめあげた髪から手を離す。
結われた感覚が慣れないのだろう。
手をおそるおそる頭に添えて、旭様が鏡を覗き込んだ。
後頭部の様子がわかるように、後ろから合わせ鏡にしてあげる。
映し出された髪を見て、旭様が息を飲んだ。
「旭、綺麗ねえ」
一緒に鏡に映った大政所様が、目を細くして言う。
信じられないというお顔の旭様の肩に腕を回して、ぎゅっと抱き寄せて。
その腕の中にあってなお、旭様の瞳は鏡から逸れない。
食い入るような状態の旭様に、私も肩越しに笑いかけた。
「よろしければ、なんですけど」
振り向いた旭様に、コスメボックスを差し出す。
「髪に合うお化粧も、いかがです?」
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