旭様の短い髪【天正16年3月中旬】




「……このような髪、世間にバレたら困る」



 旭様が、小さな声で続ける。



「……そう言ったのは、あなたでしょう?」



 向けられた眼差しが、痛い。

 ぐうの音も出なくて、私はへなへなと頭を下げた。


 ごめん、白状する。

 私は旭様に、盛大なやらかしを一つしてしまっている。

 旭様の髪について、色々言ってしまったのだ。


 今の旭様の髪は短い。

 肩口に触れるか触れないか程度。

 貴婦人どころか、庶民であってもありえない長さである。

 だって天正の今の世では、髪は身分証明書の役割を果たすものだ。

 どんな髪型をしているかで、その人がどの階層に属するか一発でわかる。

 例えば一般人──俗人の女性は、髪をロングヘアーにする。

 庶民の女性なら、だいたい肩甲骨を覆うか覆わないかくらいまで。

 私たちのような上流階級は、ウエストのくびれより少し下あたりまで伸ばす。

 もし肩の位置までしか髪の長さがなかったら、その女性は俗人ではなく尼僧とかだ。

 上流階級の髪の短い人の場合は、ほぼ尼さんかな。

 例えば、孝蔵主様。

 孝蔵主様の髪は、長さが首の中ほどまでのボブだ。

 この髪が、彼女が出家した身であるという証になっている。


 それ以外は、あれだ。

 刑罰や辱めを目的として、無理矢理切られた場合。

 重い罪を犯した罰として、もしくは極めて悪質な嫌がらせを受けて切られる例があるらしい。

 なぜ髪を切ることか、刑罰や辱めになるのか。

 さっきも言ったが、髪が身分証明書だからだ。

 髪を切られたら、伸びるまでは社会から切り離される。

 令和の頃と比べると、笑っちゃうくらいなけなしの人権を失うのだ。

 下手をすると、そのまま売り買いされる身の上になりかねない。

 だから、俗人は絶対に髪を短くしないのが常識だ。

 大大名の正室ともなれば、未亡人になって尼さんになるまでロングヘアーを通す。

 旭様の髪も、帰洛した時は平均的な長さだった。

 

 だが、帰洛して数日後、切った。


 ご自分の手で懐剣を使って、バッサリと切ってしまった。

 朝のばたばたとしている時間帯に、女房さんたちが目を離した僅かな隙だったそうだ。

 たぶん、衝動的にやっちゃったんだろう。

 朝食を運んできた女房さんが発見した時、黒髪の散る畳の上で、懐剣片手に呆然と座り込んでいたそうだから。 

 泡を食った女房さんに呼ばれて、すぐ大政所様と寧々様と私が駆けつけた。

 髪を切った旭様を見た時は大騒ぎだったよ。

 手順を踏まないいきなりの断髪は、社会的な自害に近い。

 それを徳川の正室が里帰り中にやったなんて外に漏れたら、大スキャンダル確実だ。

 下手をしなくとも、政治問題や責任問題に発展する。

 大政所様はおいおい泣いて、寧々様はおろおろとした。

 肝の据わった二人ですらそれだ。私なんて大混乱だった。

 とにかく、絶対に秀吉様や徳川家に知られてはいけない。

 髪をなんとかしなきゃと慌てて、お夏たちへ指示出しをした。

 切られた髪は、とりあえずかもじエクステに。

 ざんばらな旭様の髪は、毛先を揃える準備を。

 混乱したから、逆にてきぱきできたんだと思う。

 そして混乱していたからこそ、私は口を滑らせた。



 髪なんてすぐ伸びますから安心してくださいって。


 それまでは他人にバレるとまずいから、お屋敷でまったりしましょうねって。



 一応言い訳しておくとね、旭様を慰めたつもりだったんだよ。

 髪くらい大丈夫、のんびりしてるうちに適当にどうにかなりますよーって。

 その軽い気持ちの慰めが、旭様にとってはアウトだったのだ。

 思いっきり泣かれて、散々に怒鳴られたよ。

 誰にバレたっていい。

 もう駿府には帰れないのだ。

 髪なんか伸びなくていい。

 泣き喚いて、物を投げられて追い出された。

 最初はわけがわからなかったよ。

 どこに地雷が!? って焦ったし、意味わからんと腹も立っていた。

 けれど時間を置いて冷静になって、ふと気づいてしまった。


 旭様は解放されたくて、髪を切ったんじゃないだろうかって。 


 秀吉様の妹で、徳川家の御正室。

 その重い立場から、逃げたかった。

 だから髪を切るという行動に走った。

 自分の心を守るための、回避行動を取ったのだ。

 私の発言は、そんな旭様に逃げようとしても無駄だよって言ったに等しかった。

 困ったことになるから家から出るんじゃないぞって、おまけの嫌味付きでだ。

 そりゃ泣かれるって。めちゃくちゃ後悔して、すごく反省した。

 比喩じゃなくて泣きながら引き返して、旭様に謝りに行ったけど遅かった。


 面会拒否をくらいましたとも。

 大政所様の説得と落ち着いた旭様の良心によって面会が許され、謝罪を受けてもらえるまで一週間もかかった。

 それからはもう、気に気を使って面会に行く日々だ。

 いや、ね? 旭様の心情を考えたら行かない方が良いと思うよ?

 私が旭様なら、私の顔も見たくなくなる。

 だが、寧々様がお世話係の任を解いてくれないのだ。

 仕事だから、毎朝機嫌うかがいに行かなきゃならない

 面会拒否をされても、声くらいは聞かないといけない。

 私にも旭様にも地獄に近いだろ、これ。

 大政所様が気に掛けて、極力同席してくれるようになったから、ぎりぎり続いているけどさぁ。



 ツライよ、父様、母様。

 私も里帰りしたい……月末にする予定だけど……。



「あーさーひぃー!

 お与祢ちゃんにまたいじわる言うて、もう!」



 平伏したままちょっと泣いていたら、大政所様が帰ってきた。

 旭様にお小言を言いながら、大政所様は私の側に腰を下ろす。

 そっと私を抱き起して、痛ましげに顔を歪めた。



「あぁ、あぁ、泣いたらあかんよ。

 別嬪さんが台無しや」


「大政所様……」


「ごめんなぁ、うちの旭が。

 悪いけど、許したってなぁ」



 謝りながら大政所様が、指で目元を拭ってくれる。

 枯れ枝みたいだけれど、温かい。大政所様が優しくて泣ける。

 旭様が気まずそうに目を逸らした。

 私への態度が意地悪であることは、自覚なさっている。そんなご様子だ。



「……言いすぎました」



 謝っているか微妙なことを、そっぽを向いて言われる。

 なんだその言い方って言いたくなるが、言わない。

 旭様が私に意地悪してしまう気持ちを、なんとなく理解できるからだ。

 旭様はメンタルを病んで、限界ギリギリなのだ。

 感情を理性で上手にコントロールしにくくなっている。

 だから、少しでも落ち度があった私に攻撃的になる。

 私としては結構腹が立つけれど、旭様だって同じくらい自己嫌悪しているんだと思う。

 大政所様から、聞いたのだ。

 元々の旭様は、人に悪口や嫌な態度をぶつけられない性格だったって。

 自分がされたら嫌なことを人にできなくて、人の気持ちを考えすぎて動けなくなるところがある。

 そういう、人よりずっと優しすぎる人。

 攻撃的な今の自分に心を痛めて、自分を責めているのは確実だ。

 だから私も、怒るに怒れないんだよ。



「駿河御前様、私こそ、申し訳ありませんでした」



 涙と鼻水を拭って、もう一度謝る。

 旭様が涙を堪えるように唇を引きむすんだ。

 謝ってほしいわけじゃない。そういうお顔だ。



「お詫びではないですけれど、

 お気持ちを晴らせそうなものをお持ちしたんです」



 大丈夫だよ。謝る以外もするから、今日は。

 そろそろ謝る以外の何かをしてほしいだろうな、と思ったから準備してきたんだ。



「京阪で髪を結うことが流行っているのを、

 御前様はご存知ですか?」



 旭様が首を横に振る。

 でしょうね、本当にここ半年くらいに始まった流行だからね。

 例の如く、私と与四郎おじさんが仕組んだ。

 駿河にずっといた旭様が知るはずない。



「元は歌舞を生業とする女たちの流行りだったそうですが、

 近頃は裕福な町人の女にも流行っておりますの」


「……そう、それで?」


「駿河御前様も髪を結ってみませんか」


「え?」



 振り向いた旭様の、秀吉様と同じ漆黒の瞳が大きくなる。

 微笑みかけて、手荷物の箱を開ける。

 蓋を開いた箱の中身を、旭様に見えるように置いた。

 そろりと覗き込んだ旭様が、ぽかんとする。



「こちらは簪一式です」


「……かんざし?」


「髪を結い上げるための道具と、

 髪を飾る装飾品ですよ」



 箱の中から、ヘアアクセサリーを一つずつ出していく。

 まずは、ボビー系のアメピン。

 アメリカピンと呼ばれる、平たく幅の狭い針金を二つに畳んだものだ。

 滑り止めに畳んだ針金の片方の中ほどを、波打つような形にしてある。

 令和のヘアセットに欠かせなかった必需品だ。


 次にU字ピンとコーム。

 U字ピンは文字通り、アルファベットのUの字の型をした金属製のピンだ。

 括った髪や髪飾りを、しっかりと頭に留めるためのピンである。

 コームもU字ピンと似たような役割があるものだ。

 夜会巻きみたいな、きっちりしたまとめ髪を作る時に活躍してくれる。

 形としては歯が緩いカーブを描いた櫛を想像するとわかりやすいかも?

 歯の数は六本や一〇本とか色々あるが、今回は三本歯のものを持ってきている。

 U字ピンもコームも、髪のホールド力が高い、歯が太くて大きめのもので用意してある。


 そして最後に、マジェステ。

 簡単に言うと、簪とバレッタの組み合わさったようなヘアアクセサリーだ。

 穴が空いたり透彫みたいになったバレッタに、シンプルな棒状の簪を挿して髪に止められる。

 ハーフアップやアップヘアに使うと、手軽にお洒落で綺麗に仕上がる私が好きなアクセだ。

 螺鈿細工のバレッタ系のものと、透彫の銀細工のものを持ってきている。


 本当はヘアフックとかもあるけど、今の旭様にはたぶん向かないからこの三つだけ。

 これらは私の専属工房の鍛冶さんや細工職人さんたちが、試行錯誤の成果だ。

 すべて使用している材料は最高に近い品質で揃えた。

 与四郎おじさんが市場に流している一般品とは一線を画す、セレブ向け超高級ヘアアクセサリーである。



「いかがですか?

 よろしければ、試してみません?」


「……」



 説明を終えて、旭様に声を掛ける。

 返事は、返ってこない。

 でも旭様の視線は、並んだアクセサリーに縫い留められている。

 その瞳に、ちらりとよぎるものがある。


 とらえた。


 確信を胸に、大政所様を見上げる。

 娘と同じく、大政所様もヘアアクセサリーに釘付けだ。

 こちらはわかりやすく、目をキラキラさせている。



「大政所様、先に髪を結ってみられませんか」


「おらぁもええの?」



 大政所様がはしゃいだ声をあげる。

 大政所様は意外と、お洒落と新しいものが好きだ。

 寧々様の紹介で私が一度メイクやエステをしたら、すごく贔屓にしてくれるようになったほどである。

 髪を結うことにも、実は元々興味を示されていた。

 ちょうどいい。あと一押しになっていただこう。



「よろしければ、ぜひに。

 こちらの螺鈿細工はお似合いになるかなと思って、

 持ってきたんですよ」


「そうか、そうか! そんならやって!

 すぐやろ、なっ?」


「はーい! 承りました!」



 え、え、と私と大政所様を旭様が見比べる。



「駿河御前様、よかったらご覧になってください」


「……な、何を?」


「大政所様がお洒落をするところをです!」



 おしゃれ、と呟いて、旭様がきょとんとする。

 そんな旭様をよそに、私たちはうきうき準備を進め始めたのだった。




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