旭様はお帰りになった、けれども【天正16年3月中旬】




 雲ひとつない朝の聚楽第は、とても眩しい。

 御殿の屋根瓦や柱などの金銀箔が朝の光を弾いて、まばゆいばかりに輝くのだ。

 不用意に出歩くと、ちょっと目が眩みそうになる。

 そのせいで城奥では回廊を行く時に、扇子などで顔をガードする女房は多い。

 今朝もそうだ。よく晴れていて、照り返しがきつい。

 ともすれば、暑いと感じるほどだ。

 三月になってこちら、一段と暖かくなってきた。

 そろそろ日焼け対策を考える時期が到来だね。

 外に出る時は、日傘か市女笠必須になってくる。

 今年は綺麗な布張りの日傘でも作ろうかな。

 縁に刺繍を入れたり、模様を染め抜いたりしたから絶対可愛くなると思う。

 カラフルにしたら、市井で流行させられるかも。

 世間のトレンドは、相変わらずゴージャス至上主義だ。

 キラキラと華やかなカラーが持て囃されている。

 それに合わせて日傘を商売の種にできれば、与四郎おじさんも協力してくれるはずだ。

 明日の茶の湯の稽古の時に、プレゼンしてみようっと。

 

 そんなことを考えて、鼻歌まじりにお夏たちを連れて回廊を歩いていく。

 通り過ぎていく庭には、遅咲きの桜と一緒に桃の花が咲いている。

 薄青の空に揺れる、淡い桜色と鮮やかな桃色のコントラストが美しい。

 目から春に染め上げられそうな、とても気持ちの良い風景だ。

 憂鬱なんてすこーんっと飛んでいきそう。

 お花見でもしてまったりしたいところだが、今日もお仕事だ。

 城奥と中奥を繋ぐ扉の前に立って、番をしている侍女に告げる。



「開けてください。北政所様のお使いで、

 西の丸の駿河御前様のもとへ向かいます」





 秀吉様の妹にして、徳川家正室の旭様は、先月の終わりに帰洛した。

 秀吉様が難色を示すんじゃないかと心配していたが、わりとあっさりお認めになった。

 体調が悪いのであれば心配だし、家康が許してくれるならOKだと。

 拍子抜けしたが、秀吉様もなんだかんだで旭様を気にかけていたんだろうな。

 もろもろの手続きはすべて、寧々様に一任された。

 好きにしておくれって感じで、チェックもろくに入らなかったようだ。

 丸投げすぎるが、これも寧々様への信頼の深さの証拠だろう。

 茶々姫の側室入りを許してもらう代わりでは、決してないと思いたい。

 

 段取りは大政所様が当初お願いしていたとおり、石田様が行ってくれた。

 すぐにあちらの実務担当者と協調して、てきぱきと旭様帰洛を実現させた。

 徳川側へ大政所様危篤の一報を入れてから一ヶ月ちょいの早業だ。

 性格はアレだが、本当に有能な人だよ。仕事が早い。

 私もそれに合わせて準備に奔走した。

 療養所の設置などは寧々様がやってくれたけれど、治療方針とお世話計画は私の担当だ。

 御典医の玄朔先生と打ち合わせを重ね、旭様付きの女房と手紙で事前協議に励んだ。

 病状がよくわからないと、どう対応するべきか決まらないからね。

 情報収集に環境整備、物資調達に人員配置。

 旭様到着の前日まで走り回って、受け入れ体制の構築をがんばりましたとも。


 その結果、ベストとは言えなくともベターな状態で、旭様をお迎えできた。

 

 

 できたんだけど、なあ……。



 羽柴の近親者の住まいが連なる、中奥の西の丸に辿り着く。

 その中でも、城表にほど近いお屋敷が、私の目的地。

 ここが、旭様の療養所だ。

 大政所様の御殿の付属物件だから、主たる大政所様がもっとも出入りしやすい場所である。

 旭様にとって、わりと実家感覚を味わえる立地だから、寧々様と大政所様がここって決めた。

 このお屋敷はあまり広くなく、こじんまりとしている。

 部屋数も必要最低限で、主人の居室は二十畳もない。

 襖や屏風で区切れば、一〇畳以下になる。

 広すぎる空間を苦手とする人にはちょうどいい感じだ。

 けれど、台所とお風呂完備で、日当たりが良い庭があってと、貴婦人の一人暮らし向きだ。


 そんなお屋敷に、応対に出てきた旭様の女房さんに案内されて上がる。

 寧々様の御殿より、うんと短い廊下の最奥が旭様の居室だ。

 女房さんの話によると、今朝は大政所様がいらしているそうだ。

 ついさっき、お二人で朝食を終えたところらしい。

 ちょうど良い感じの時に来れたようだ。



「大政所様、御前様」



 旭様の居室の前で、女房さんが声を掛けてくれる。



「山内の姫君が参られました。

 お通ししてもよろしゅうございますか?」


「ええよ、入れておやり」



 すぐに大政所様のお返事が返ってくる。

 女房さんが振り向いて、ちょっと笑ってくれた。

 今日は入れてもらえるようだ。

 ほっとして、床に指をついて頭を下げる。

 するすると襖が開く音が、頭の上で聞こえる。



「頭をお上げ」



 襖が開いてすぐ、挨拶をする前に許される。

 ゆっくりと、優雅を意識して頭を上げる。

 立てられた屏風の端から、大政所様が顔を出していた。



「朝早うからよぉござったねえ、こっちおいで」


「はい」



 しわしわの顔をさらにしわしわにして、大政所様が手招きをしてくれる。

 お言葉に甘えて私はお部屋に入らせていただいた。

 屏風の側まで近づいて、大政所様の前でもう一度座ってご挨拶をする。



「大政所様、今朝もご機嫌麗しく存じます」


「ん、おはよう。そんなかしこまらんで、

 くつろいでええよ」


「ありがとうございます」



 にこにこと言ってくれる大政所様に、つられて笑み返してしまう。

 顔立ちはあんまり秀吉様と似ていないが、人懐っこい笑顔はそっくりだ。血を感じるね。



「駿河御前様にも、ご挨拶差し上げてよろしゅうございますか?」


「旭にね、ちょっと待ってな」



 屏風の中に大政所様が引っ込んだ。

 小さな話し声が、微かに耳に触れ始める。

 旭様と大政所様が話し込んでいらっしゃるようだ。 でも、会話内容は聞かない。

 耳に入るものをただの環境音として認知するよう、意識を切り替えておく。

 半ばぼんやりとした感じで待っていると、再び大政所様のお顔が屏風の端から出てきた。

 表情は硬くなくて、柔らかい。と、いうことは。



「おいで、お与祢ちゃん」


「はいっ」



 よかったぁぁぁ!

 今日は最終関門突破できた!

 ほっとするやら嬉しいやらな気持ちで、肩の力が抜ける。

 後ろのお夏から手荷物を受け取って、ゆったりと腰を上げる。

 屏風の向こうへ行くのは、私一人だ。

 旭様は侍女がぞろぞろしている状態が苦手なのだ。

 萎縮させてしまうので、基本的に一人で会う。

 そしてほとんど必ず、大政所様同席でだ。

 旭様が、大政所様同席を望まれる。マンツーマンは落ち着かないから、とね。

 私としてもそっちの方はやりやすいから、望みのままにしてもらっている。

 大政所様がいれば、旭様との間に立ってくれるんだよね。


 そんなありがたい大政所様に手を引かれて、屏風の内側へ入る。

 そこには障子戸を透かした陽光で、ほの明るい空間が広がっていた。

 適度に温かくて、コンパクトなそこに、旭様はいた。

 端っこの方に敷いた敷物の上で、ぼうっとしていらっしゃる。



「駿河御前様」



 声を掛ける。旭様が、のろのろと私の方へ顔を向けた。

 大政所様によく似たお顔には、相変わらず疲労感が漂っている。



「今朝もご機嫌麗しく存じます」


「……ええ、あなたも」



 ぼそりと返される声に微かに混じる、遠い距離感。

 見つけてしまってから、ちょっとしょんぼりする。

 まだダメか。へこむぞ。



「お会いできて、与祢は嬉しゅうございますわ」


「……そう」


「あの、ええと、今日はお菓子を持ってきましたの!」


「……そうなのね」


「寧々様や竜子様も絶賛の南蛮菓子なんです。

 大政所様と駿河御前様に、召し上がっていただきたくて」


「……そう……礼を、言います」



 か、会話が続かない……。

 泣きそうになりながら大政所様を見上げる。

 大政所様の白いものが混じる眉が、申し訳なさそうに下がった。



 困ったことだが、ご覧通り私は旭様に苦手とされている。

 思いつく理由はかなりいっぱいあるが、一番は職業のせいだろう。


 私は寧々様の御化粧係だ。

 寧々様や竜子様の美貌を、健やかに麗しく整えて、望まれるように美しくよそおうのが仕事。

 美容を担当する立場だから、私自身も美しくあらねばならないと思っている。

 だから子供でありながら、子供なりに身繕いには気を遣っている。

 スキンケアはもちろん、ヘアケアにもボディメンテにも注意を払った生活をしている。

 メイクも子供なりにやっているよ。

 ファンデはまだしないけど、眉を整えてリップを塗るくらいはしている。

 ファッションだってそう。

 季節に合わせてカラーやデザインを組み合わせて、全力でお洒落に取り組んでいる。

 幸い手持ちの衣類は、質・デザインともに最高だ。

 寧々様や竜子様から賜ったものや、実家や与四郎おじさんから送られるものばかりだからね。

 お金に糸目がつけられていないので、着るだけで高級感が出る。

 そうして作り上げたきらきらしい特別感が、御化粧係という立場を象徴してくれる。

 同時に城奥で私を守る盾であり矛にもなっているのだが、ね。



 旭様に、矛の面で作用するとは夢にも思わなかったよ。



 旭様は、尾張の片田舎の元庶民だ。

 性格は大人しくて純朴。上の兄の秀吉様のように派手なものは好まない、控えめな人だ。

 この控えめと純朴がすぎている点が、姉のとも様や下の兄の大和大納言秀長様と違う。

 旭様はいつまでも高級武家の生活に気後れするほどの、根っからの庶民だった。

 兄弟の中で唯一と言っていい平凡さは、人間関係にも影響している。

 旭様は基本、華やかな人や都会の人間には気後してしまう。

 大政所様によると、昔に出た社交の場で、性格の悪い都会人の嫌味に晒されて、それがトラウマになっているらしい。

 ゆえに旭様は現在、社交の場には一切出ていらっしゃらない。

 ずっと近しい親族と事情を理解してくれる女房や侍女とだけの、閉じた人間関係の中で生きてこられた。


 

 そこへ突然現れたのが、都会っ子の極みの私。



 子供のくせに洗練された武家言葉で喋っていて、都会的なことを全面に押し出してくる。

 会話の話題選びも、やるころなすことも、旭様の真逆をいく。

 そんなナチュラルボーン都会っ子セレブが、お世話しますねって積極的に近づいてくる。

 弱りきっていた旭様が萎縮するのも、当然の成り行きだった。


 私と旭様を見比べてから、大政所様がため息を吐く。

 そしてぽんぽんと手を叩いて、古馴染みの女房さんを呼んだ。



「食後の茶にしよか、用意しておくれ」


「……お、おかかさま」



 旭様がちらりと私を見て、大政所様の袖を引く。

 いない方がいいですか、やっぱり。

 泣けてくる気持ちを殺して、にっこり笑ってみたが目を逸らされた。

 あかん……ツライ……。

 撤退しようかなぁ、と思って大政所様をうかがう。

 大政所様は、気にしないでいい、と言って旭様の頭を撫でた。



「旭、お与祢ちゃんも一緒でええな。

 案ぜずともこの子はええ子だから、な?」


「……はい」



 大政所様に諭されて、旭様は俯いてしまった。

 気まずいわこれ……私がいじめっ子みたいだ……。


 こんな状態だから、私が寧々様に下された命は上手く果たせていないのも当然だよね。

 大政所様がいないと、あまり近寄らせていただけなくて、会話もほとんどうまくいかない。

 メイクやエステ、美味しいもので気を引く作戦も効果がほとんどなかった。

 共通で盛り上がれる話題が、ほとんどないから懐へ入れない。

 込み入った話なんてできるわけがない。

 家康との事情を聞き出すなんて以前の問題で、私は盛大に転んでいる状況だった。


 もうね、御典医の玄朔先生の診療は素直に受けてくれているのだけが救い。

 大政所様の勧めでメディカルチェックを受けてくれて、身体的な不調が不眠症くらいと判明したことだけだ。

 食欲減退や頭痛といった旭様の症状もそこが原因で、対処薬などの処方はしてもらえた。

 それである程度の不調は改善はしているけれど、今一歩が治らない。

 どうやら、不眠自体が心因性だからのようだ。

 心の病までは治せない、と玄朔先生は両手を上げてしまった。

 そっちは私の領分だよねって、バトンを私に渡してだよ。

 どうも玄朔先生は、竜子様のメンタルを回復させた私を買いかぶっているところがある。

 あれは竜子様が私を受け入れてくれたからできたことだよ。

 全力で距離を取ってくる旭様相手には、無理だ……。



「あ、あの、旭様」



 沈黙から逃れようと、思い切って旭様に話しかけてみる。

 女房さんとともにお茶の準備へ行こうとする大政所様の背を眺める目が、おどおどと私の方へ向いた。



「……何かしら」


「今日はなのですが、お菓子はお庭で食べませんか?」


「……庭で?」


「はい、今日は晴天なんです。

 お庭の桃の花がとっても綺麗でしたから、

 お花見をしませんか?」



 お花見程度なら都会っぽくないよね。どうだ。

 祈る気持ちで見つめると、ふい、と目を逸らされた。



「……ごめんなさい、外は嫌です」



 ぼそりと拒否を口にして、旭様はご自分の髪に手を伸ばす。

 短い爪の指先が、毛先に触れる。



「……こんな髪、だもの」



 旭様が、顔を上げた。



「……万一でも人に見られたら、

 いけないでしょう?」



 責めるように私を見つめる旭様。

 その髪は、肩口を擦るほどしか、なかった。

 






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