夫婦喧嘩は夕闇とともに開催される【天正16年1月中旬】
寧々様の御殿の庭には、梅の木がある。
空にわっと両手を広げたような立派な枝ぶりで、赤と白の花をどちらも付ける木だ。
こういう咲き方を『源平咲き』と呼ぶそうで、接ぎ木ではなく自然にそうなったものは珍しいらしい。
この梅の木は、どこだかの山で偶然見つけられて、縁起がいいとここに移されてきた。
移植後にちゃんと咲くだろうかって御殿の者は皆心配していたけど、ちゃんとお正月あたりから綺麗な花を綻ばせてくれた。
そんな注目の的の、絶賛満開中の梅の木に。
天下人が、縛り付けられている。
「さて、お前様」
寧々様が余った縄を片手に、にこにこ秀吉様に呼びかける。
唇から零れる声は明るい。とっても、いつも以上に、明るい。
笑顔だって、そうだ。いつにも増して、寧々様の笑顔は輝いている。
だから、怖い。
後ろに控えた私とおこや様と萩乃様は、そっと互いの手を繋ぎ合った。
竜子様と孝蔵主様&東様が平然と見守っているのも、また空恐ろしい。
なんでこんな、馴れきった雰囲気でいられるんだ。
この人たちの神経は何でできてるの?
鋼鉄のワイヤーとか、そういうの?
戦々恐々としている最後方の私たちをよそに、寧々様はすたすたと梅の木に近づく。
縛り上げた秀吉様の側にしゃがんで、帯に差した扇を抜いた。
「お前様」
「な、なんだっ」
キッと秀吉様が寧々様を見上げる。
毅然とした眼差しは、まさに天下人の威厳を備えてらっしゃる。
両方のほっぺに張り付いた大きな紅葉で、威力が半減してるけどな。
腫れた秀吉様の右のほっぺに、金色の扇が添えられる。
「もう一度、訊きましょうね」
とん、とん、と扇が秀吉様の頬を軽く叩く。
ぴっ、という天下人が出したらいけない悲鳴が聴こえた気がした。
目を引き剥く秀吉様を、寧々様がじっと見つめる。
「どうしてあたくしに、相談してくれなかったんです?」
秀吉様は、何も言わない。違う。言えない。
これ、見つめ合うとお喋りできないやつだ。
「ねえ、お前様は覚えてるかしら」
「な、なんのことやら」
「祝言を上げた時に、あたくしたちが交わした約束」
「やくそく」
「家のことは、万事寧々に、伺いを立てる……でしたわね?」
寧々様が、言葉を切る。
沈黙が、重い。重すぎて、胃が潰れそうな沈黙が庭に落ちる。
秀吉様が喉を喘がせる音が、やけに大きく庭に響いた。
「す、すんません」
秀吉様が絞り出した声は、聞かなかったことにしたかった。
これが豊臣秀吉じゃない。
豊臣秀吉であってはいけない。
縛られたまま無理矢理体勢を土下座に近いものに変えるとか。
しかも壊れた某ペットロボットみたいな調子で謝り続けるとか。
これはやばいよ、秀吉様だと思いたくないよ。
こんなん家中の誰にもお見せできないって。
「すんませ、すんません、寧々様、寧々様、許して、許して」
「お前様ぁ、あたくしはね、謝ってほしいんじゃないんですよ?」
「ひぃっ、すんませんっ! 許してくれ? なっ?
怒ると別嬪さんがだいな」
振り下ろされた扇が秀吉様の月代にヒットする。
あ、良い音。扇が真ん中から折れた。
秀吉様の頭が沈む。血は出ていないが、あれは痛そうだ。
「話せと言っておるのよ! ハゲネズミ野郎がぁぁぁ!!!」
同時に寧々様がお上品を吹っ飛ばす。
聞いたこともない、ヒステリックな雄叫びに近い声が上がる。
「なんで! 茶々姫にっ!! 側室にするて!!!
勝手に約束したんか話しやぁぁぁっっっ!!!!」
草履の足が、秀吉様の真横の幹を蹴る。
衝撃で、梅が散った。
ばらばらと落ちてくる花びらの下で、寧々様が夫の襟首を掴み上げる。
がくんがくんと揺さぶって、尾張訛り全開の罵倒を連ねる。
初めて見る狂乱の寧々様の後姿から、そっと目を逸らす。
空を見上げてみた。
わぁ、美味しそうなオレンジ色。
おそら、きれいだなあ。
……この修羅場が始まったのは、今から
萩乃様によって急に座敷に放り込まれ、出してもらえたと思ったら竜子様がすんごい顔だった。
来客だったようだが、一体何があった。
それを聞く前に、竜子様が寧々様のもとへ行くと言い出した。
急ぎ知らせねばならないことができた、と。
先触れに萩乃様を走らせて、それをすぐさま竜子様が追いかける。
歩調を合わせてられないからと、手ずから私を抱えてだ。
そして寧々様の御殿に入るなり、出迎えた寧々様に竜子様が叫ぶように言ったのだ。
『茶々殿が、側室になると聞きました。ご存知ですか』
次の瞬間、寧々様が御殿を飛び出した。
私を抱えたままの竜子様まで、一緒になってだ。
反応が遅れた孝蔵主様たちを置き去りに、二人は蹴破る勢いで城奥と中奥を繋ぐ扉を突破。
ぎょっとする侍女を無視し、止めようとする家臣を振り切り、ガンガン進む。
城表の近くまで、脇目も振らず、足音高く。
辿り着いた座敷に飛び込んで、石田様たち奉行衆と話し合い中の秀吉様を発見するなり、二人は微笑んだ。
それはもう、女神のように美しいお顔で、である。
瞬時に察した秀吉様は、逃げようとして失敗した。
座敷を飛び出す寸前で、寧々様に睨まれた石田様にスライディングで後ろから押し倒されたのだ。
そのまま棒読みで謝る石田様に抑え込まれ、秀吉様は起き上がる間もなく寧々様に襟首を掴まれた。
あとはもう、お察しの結果です。
言い訳したり石田様に恨み言をぶつけたりする秀吉様は、抵抗むなしく寧々様に城奥へ引っ立てられた。
御殿にやってきて、寧々様のビンタを喰らって。
ついでに竜子様からも太ももを抓られて。
それでもまだ秀吉様は、往生際悪く誤魔化そうとした。
必死の形相で舌をフル回転させて、おべっか、おべっか、時々逆ギレ。
その逆ギレにキレ返した寧々様によって、秀吉様はとうとう梅の木に縛り上げられ、今に至るのである。
あらためて振り返るととんでもねえ夫婦喧嘩だな、羽柴夫妻with竜子様。
「すまんて! すまん! 寧々様ぁぁぁ!!」
秀吉様の涙声が、夕暮れの庭に響く。
情けなさ過ぎてちょっとこっちも涙出てくるわ。
「そんならきりきり話しやぁっ! なんで勝手したの!!」
襟首を掴んだまま、寧々様が吠える。
ぶるぶる震える秀吉様は、その剣幕に涙ぐみながら口を開いた。
「だ、だって、茶々が泣いたんや」
「あ? なんで?」
「もぉ他所に行きたぁないて、ひ、一人で他所にゆくんは嫌やて。
そ、それで、かわいそぉなって」
怯えきった秀吉様が、恐る恐ると言うふうに白状する。
「ほら、茶々はその、髪の色とか変わっとるやろ?
背ぇも高いし、公家好きする容色やないしな?
お堅い公家に嫁いだら、いじめられてしまわんだろか……って、
恐ろしいって、助けてって……言うし……」
「……それが理由なの? それだけ?」
寧々様が、引きつれた声で秀吉様に訊いた。
秀吉様の目が泳ぐ。あちらへ、こちらへ。
たっぷり、一分はそうしていただろうか。
とても髭の薄い顎が、こくり、と縦に振れた。
「はい……ならここにずーっとおればええって、言いました……」
「どあほぉぉぉおっっ!!!
あたくしの苦労はどうなるんんんぁぁぁあ!!!」
地に額を擦り付けて謝る秀吉様の前で、寧々様が崩れ落ちる。
竜子様も、棒立ちで絶句している。
孝蔵主様や東様でさえ、ぽかんとして思考停止状態だ。
絵に描いたような非常事態に、私ももうわけがわからない。
ええと、つまり、どういうこと?
秀吉様は茶々姫様とやらに同情して、側室にするって約束してあげたってことでいいの?
同じく唖然としているおこや様たちの袖を引いてみる。
「な、なに?」
「おこや様、茶々姫ってどなたですか」
耳打ちすると、おこや様と萩乃様が目を丸くする。
「は? お与祢ちゃん知らないの? 茶々姫を??」
「え、ええ」
「嘘、ほんとに知らないんですか、山内の姫君?」
「そうですけど……」
名前はなんか、聞いたことある気もするんだよ。
前世だか今世だか判然としないけど。
おこや様と萩乃様が顔を見合わせてから、私に残念な生き物を見る目を向けてきた。
「だめだよ、城奥の有名人くらい覚えとかなきゃ」
「そうですよぉ、面倒な人でもありますし?」
「なんですかそれ、危険人物なんですか」
「うーん、ある意味では?」
「竜子様にとっては天敵ですしねぇ」
まっっったく話が見えない。
理解が追いつかないと降参すると、二人は仕方ねぇなという感じで教えてくれた。
羽柴の城奥には、織田家ゆかりのお姫様が住んでいる、と。
その姫の名前は、茶々姫。
かなり昔に滅んだ北近江の浅井家のお姫様だ。
父は浅井長政、継父は柴田勝家。
母は、お市の方。
そう、お市の方。
先の天下人・織田信長の妹の。
あの、戦国一の美女と名高い。
お市の方の長女が────茶々姫。
あっっっ。
「思い出せた?」
おこや様に訊かれて、深く頷く。
知ってるよ。めちゃくちゃ知ってたよ。
あれだな? 茶々姫って、淀殿だよな?
織田信長の妹の娘で、秀吉様の子を唯一産んだあの淀殿だろ。
嫌な意味での運命の女、淀殿だな!?
「そのお顔を見ますと、何がまずいかご存知ですね」
「はい、それはもう、ええ」
萩乃様に言われなくても存じているわ。
令和の頃に目にした時代劇や小説なんかでは、存在するだけでやばい女として描写されまくっていた。
悲劇のヒロイン設定でも、傾国の悪女設定でも、だいたい同じ。
淀殿が秀吉様の子供を産んで、豊臣滅亡カウントダウンスイッチをオンにするのだ。
今現在の人たちはその史実をまだ知らないが、淀殿……現・茶々姫は持て余す女性として認識されていた。
茶々姫は、織田家にゆかりが深すぎるお姫様だ。
織田は天下人の御家だったが、肝心の信長が本能寺で死んで空中分解した。
現当主が一度秀吉様に喧嘩を売って、完膚なきまでに負かされて首根っこ掴まれているという状況である。
端的に言って、かわいそうなレベルの落ちぶれっぷりだ。
でもこの織田家、まだネームバリューはめちゃくちゃある。
秀吉様が信長の衣鉢を継ぐ、という形で天下を取ったからだ。
ゆえに織田家という名家は、非常に政治的にややこしくて扱いづらい。
茶々姫も、その煽りをもろに喰らっていらっしゃる一人だ。
適齢期過ぎなのに、いまだ嫁ぎ先が見つかっていない。
過去に二度縁談が持ち上がったのに、その度に縁談がぽしゃってしまったほど難儀している。
「もうね、どう扱っていいかみんなわかんなくてね」
「本人は平然としてらっしゃるけど、ねえ?」
「なるほどぉ……」
腫れ物ってわけだったのね。納得。
そんな悲惨な茶々姫のことは、寧々様が気にかけていた。
去年からは、三度目の正直と奮起して縁談を探しまわってあげていたほどに。
そこにきての、これ。
茶々姫、秀吉様の側室に電撃加入。
寧々様が怒るのも無理ないな。
各方面との約束や色々な予定を、全部ひっくり返したのだ。
秀吉様の一存で、一切の相談も無しにだ。
しかも、政治的な緊急措置でもなんでもない。
一個人としての同情という、非常に理由にならない理由によった決定だ。
どこからどう見てもあかんやつだよ、秀吉様。
笑って済ませるやらかしじゃない。
こんな理由で御家の自爆スイッチに手を出したなんて、想像もしてなかったわ。
女好きが高じて美人な淀殿に手を出しちゃったとか、お市の方の面影を追いかけちゃったとか言われてたけどさぁ。
ただの同情で側室に迎えただなんて、予想をはるかに超えてるって。
救いようが無さすぎて、笑うを通り越して無だよ。
寧々様の物理的なお仕置きですら、まだまだ生温いと思えるレベルだ。
切り落とすしかもう、無いのでは……?
「これ、まずいですよね」
「まずいわねえ」
「まずいですねえ」
再確認する私に、おこや様と萩乃様が同意する。
私たちばかりが妙に冷静であることに、三人とも半笑いになってしまう。
さて、どうしたらいいんだろうね。
収拾の付けようが思いつかなくて、途方に暮れる。
そんな私たちの後ろの回廊の彼方から、ざわめきが聴こえてきた。
なんだろう。
振り返った私につられて、おこや様と萩乃様も首を巡らせる。
そして、見てしまった。
夕闇の漂い出した回廊の奥にいる、髪を振り乱した年老いた般若の姿を。
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