大政所様【天正16年1月中旬】
「「「ヒッ」」」
私とおこや様と萩乃様の悲鳴がハモる。
同時に回廊の奥から、般若が走り出した。
夕陽で赤黒く染まった髪を振り乱し、皺深い顔に怒りを満たして。
老婆と思えない速度で、こちらに突進してくる。
こわいこわいこわいこわい。
めちゃくちゃ怖いんですがっ!?
慌てて三人そろって、沓脱ぎの側から飛び退く。
タッチの差で老婆の般若が沓脱ぎに到達した。
そのまま上段から、庭へと飛び降りる。
胡桃染の打掛が、翼のように宙に広がる。
地に舞い降りる般若の姿が、スローモーションで目に映る。
からげた小袖の裾から伸びる、しわしわの足が力強く着地した。
砂を素足で踏みしめる音に、寧々様たちがやっと振り向く。
みるみる全員の顔が、驚愕に染まる。
特に、秀吉様。顔色が青を通り越して白に変わった。
開いた口を鯉のようにして、シバリングのように震え始める。
「ぁっ、おっ、おかっ、お、っ」
喉から声は出るけれど、形は口から出た途端に崩壊している。
そんな状態の秀吉様を、般若は怒りで沸る双眸で睨み据えた。
「とぉぉぉぉきぃちろぉぉぉおお……」
地獄の釜の蓋を引きずったら、こういう音がするんじゃないか。
皺の深い口元から零れる低い声に呼ばれて、秀吉様はとうとう完全停止した。
般若が歩き出す。素足で冷たい地面を踏みしめる。
憎しみをぶつけるように、力強く。
一歩、一歩と縛られた秀吉様の元へ近づいていく。
道を開けた寧々様の横を通り過ぎて、秀吉様の前へ至る。
「……この」
荒い吐息に掠れる声とともに、萎んだような肌に覆われた手が伸びる。
綺麗に揃えた爪の並ぶ指が、むんずと秀吉様の肉の薄い頬を抓った。
「くそたわけがぁぁあ!!!!」
「ぃぎゃぁっ! お゛っがぁ!? い゛だぁぁぁっっ!!」
「また寧々さを泣かせおってっ! 何度目やぁっ!」
般若、もとい秀吉様のお母様である大政所様は、息子に加減しない。
本気で痛がられても、もっと泣き喚けと言わんばかりに秀吉様の頬を捻る。
お仕置き第二ラウンドの開始だ。
秀吉様の汚い悲鳴が、夕暮れに響き渡る。
「ちあっ、ちあうんあ、ひゃひゃがなふから!」
「なぁにが違う!? 女に泣かれたくらいで勝手するんやないが!!」
「ひぇもほっか」
「うるさいっ! 寧々さに謝れぇっっっ!!」
食い下がる秀吉様の頬を、大政所様がしばく。
寧々様が最初にビンタ入れたとこだ。
年季を積んだ良い音の一発を入れてから、大政所様が地に膝をついて顔を覆った。
「おみゃあが情けにゃーでよ、おらぁよぉ……」
「お義母様……」
「すまんなぁ、おらぁが藤吉郎を、
適当に育ててしもうたばっかりに……っ」
肩を支える寧々様に縋って、大政所様が涙を零す。
竜子様も駆け寄って大政所様の側に跪き、懐紙を差し出した。
「大政所様、どうぞこちらを」
「竜子さもすまんなぁ……」
「いえ、慣れましたゆえ」
「慣れたらあかんよぉ、こんなん」
受け取った懐紙で、大政所様が鼻を噛む。
丸めた懐紙をぐったりする秀吉様に投げつけて、真っ赤になった鼻を鳴らした。
「ぜぇんぶ佐吉に聞いたでな、藤吉郎」
「なっ」
「縁談まとまる寸前の娘さんに手ェ付けてからにっ!
恥を知れっ恥をッ!」
「そんなことまで、あ、あの阿呆っ」
白青い顔色の秀吉様が、ここにいない石田様を罵倒する。
生徒のやらかしを逐一保護者に報告する先生みたいだな。
めちゃくちゃグッジョブだ、石田様。
大政所様が恨み言を言う秀吉様の頭に、また使用済み懐紙を丸めてぶつける。
「アホはおみゃあじゃ! 底抜けの女狂いがっ!」
「それは悪いと思うておるがなぁ! おっかぁ!
あいつなんで勝手におっかぁに会っとるのや!?」
城奥に入れとんのか!? と秀吉様が言い返す。
矛先を石田様に逸らして誤魔化す作戦かな。なかなか姑息だ。
大政所様だけでなく、寧々様や竜子様の目までさらに冷たくなってくる。
けしからんだのなんだの言っている秀吉様の頬を、もう一度大政所様が抓った。
「イ゛っ!?」
「中奥で会うたんや。佐吉に相談があってな」
「は? なんでわしに先にせんのや」
「おみゃあに話したら止めるやろ思うてな」
「はぁぁぁ!?」
秀吉様がいらっとした顔になる。
片眉を上げて、頬の端をぴくぴくさせて大政所様を睨んだ。
しかし大政所様はこれしきの息子の剣幕で怯む人ではない。
うるさいと重ねられる文句を切り捨てて、赤いまなこを吊り上げた。
「自分の娘のことや! 好きにさせぇ!」
「娘? 姉さんになんかあったか?」
「旭の方や!」
落ちていた折れた扇を、秀吉様に投げつけて大政所様が吠える。
肩でぜぇはぁと息をして、血圧上がりまくりって感じだ。
やばい。落ち着かないと血管切れるぞ。
私たちがはらはら見守る中、大政所様が寧々様と竜子様にすがって立ち上がった。
「ええか、藤吉郎」
ぎろりとぼろぼろの秀吉様を見下ろして、大きく息を吐く。
「おらぁは今日から、しばらく病になるでな」
◇◇◇◇◇◇
「お義母様、それでどうなさったのです?」
私が用意させた生姜と柚子の蜂蜜漬けのホットドリンクを飲んで、寧々様が切り出す。
私たちは、さきほど場所を御殿の中に移した。
夕暮れの寒さが大政所様には堪えるからって、ことでね。
あのままだと話が錯綜して、わけがわからないことになりそうだったのだ。
寧々様が呼び出した石田様に秀吉様を引き取らせ、茶々姫の問題は後日に回すと宣言した。
どさくさで見逃す気はさらさらないらしい。
興奮しきった大政所様を抱えて温かい室内に入り、人払いを念入りに行った。
今座敷にいるのは、寧々様と大政所様。
部屋の隅には孝蔵主様と東様、お茶出し係の私が控えている。
おこや様は控えの間で待機していて、竜子様と萩乃様は帰っていった。どっちもちゃっかり生姜と柚子蜂蜜ドリンクを確保して。
そうして、今に至るのであるが。
「病になられるなんて、急にどうされたのですか」
「ああ、ええとね、
それは旭に出す手紙の方便でねえ」
「旭殿に? どうしてそのようなお手紙を?」
「それが……ねぇ……」
大政所様が、言い淀む。
湯呑みを両手で包んで、視線をうろうろと彷徨わせてだ。
迷っていると態度ではっきり物語る大政所様を、寧々様はじっと待つ。
「もしあたくしでよろしければ、
お力になりますよ?」
「ううん、ええのよ、実はもうね、
佐吉と助作に段取りを頼んでしもうて」
「まあ、お義母様が?」
寧々様の目が丸くなる。
お仕事用の澄まし顔をしている私も、内心驚いた。
大政所様は賢いおばあさんだ。
基本的に、オフィシャルなことに関しては絶対に出しゃばらない。
これは大政所様が、きちんと自分の政治能力などを把握しているからだ。
政治が爪の先ほどくらいでも関わることなら、全部息子夫婦に完全に従う方針を取っている。
例外は福祉系や仏事系のことくらいかな。
貧困層や病気の人たちへの施しや、お寺の建立の要望を秀吉様に出す程度だ。
そういう大政所様が、独自で奉行衆に面会して、何事かの段取りを指示した。
しかも、政略結婚で他家に嫁いだ娘に関することでだ。
滅多にない、というかほとんど初めての政治が絡む行動ある。
誰もが驚かないわけがない。
「すまんねえ、勝手してもうて」
唖然とする寧々様のお顔をうかがいながら、大政所様は肩をすぼめて謝った。
後ろめたい気持ちを抱えているせいか、いつものはつらつとした背中が小さく見える。
「いいえ、お気になさらず。
お義母様が珍しく佐吉たちに頼み事されたなら、
きっとよっぽどのことでしたのでしょうし」
我に返った寧々様が、大政所様の細い肩を抱く。
慰めるようにさすりながら、ゆっくりとした口調で質問を重ねた。
「でもいったいどうして、そのようなことを思い立たれましたの?」
「……あんねぇ」
大政所様が湯呑みを茶托に置いて、懐に手を入れた。
ごそごそと探って、白い紙を引っ張り出す。
手紙だろうか。ずいぶんとしわくちゃな紙の裏から、何か文字が透けて見えている。
ためらいがちに、大政所様が手紙を寧々様に差し出した。
受け取った寧々様が断って、手紙の皺を伸ばしながら開く。
さっと文面に視線を走らせる。
鳶色の色の目が、みるみると点のようになっていく。
手紙の内容は一体どんなものだったのだろう。
あまり長そうな手紙ではないのに、寧々様は書面を凝視したまま動かない。
「寧々様、如何なさいました」
沈黙を、孝蔵主様が破った。
ゆっくりと寧々様が私たちの方へ振り向く。
押し黙ったまま、手紙を孝蔵主様へ渡した。
孝蔵主様が「失礼をば」と断って、手紙を広げる。
左右の東様と私も、首を伸ばして覗き込む。
短い手紙だった。
力強い男性の筆跡なのに、使われている文字はすべてひらがな。
文章も、かなり簡単なレベルで綴られている。
大政所様の識字能力に合わせた気遣いが滲む、優しい手紙だ。
そんな柔らかさとは裏腹に、内容は切迫感に溢れていた。
季節の挨拶もそこそこに、本題に入っている。
駿府にいる秀吉様の妹の旭様が体調を崩していること。
里帰り療養を勧められても、ずっと断っていること。
どうしようもなくなったから、大政所様の助力を願いたいこと。
追伸でどうかどうかお願いします、と念押しまでしている。
そんな手紙の、差出人の名。
短く添えられた文字に、私たちの目が吸い寄せられる。
…………いえやすって、書いてあった。
思考が、停止した。
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