病は癒えて、そして(3)【京極竜子・天正16年1月中旬】




 面倒な者が来てしまった。



 京極竜子は頭痛を覚えながら、きょとんとした少女を奥座敷に押し込めるよう萩乃に命じた。

 少女は、北政所様ご鍾愛の御化粧係だ。

 これからやってくる者の目には、極力触れさせたくない。

 存在に気づかれたら最後、妙な興味を持たれて少女が難渋するに違いない。

 少なくとも、竜子はそう確信している。



「姫様っ」


「そなたはここにおれ」



 萩乃と少女を追おうとする、少女の侍女の行く手を竜子は阻んだ。

 脇をすり抜けようとした侍女の腕を掴む。

 座敷に放り込まれる少女から見えないよう、軽く侍女の腕を捻って止めた。

 侍女の顔が歪む。痛みではなく、怒りによって。

 キッと睨み上げてくる目には、敵意がこもっていた。

 一介の女房の侍女が、天下人の側室に向けていい目ではない。

 だが、だからといって不快ではない。

 忠臣よな、と褒めてやりたい気持ちすら湧く。

 身を省みないで主を助けようとする者は、そうそういないものだ。



「落ち着け、そなたの主を守るためだ」


「でしたらなぜ姫様を一人でっ」



 訝しげな侍女に顔を寄せて、竜子は囁きかける。



「いいか、これからここに来る女は少々厄介だ。

 お与祢には、できるかぎり関わらせぬ方がよい」


「だから隠したのですか」


「左様。そのついでだ、そなたが北政所様の御化粧係と誤認させようと思う。

 さすれば、あやつの興味は逸れるであろうからな」


「相手が何者でも、騙し続けるのは難しゅうございますぞ」


「百も承知よ。今しばらくで良いのだ」



 睨んでくる侍女に、竜子は言って聞かせる。



「移り気なところがある女ゆえな。

 取るに足らぬと思わせれば、すぐ別のことに興味を持つ。

 そなたも左様に振る舞えよ」


「……承知しました」



 わずかに間を置いて、侍女が頭を垂れる。

 それから懐から赤い襷を取り出して、さっと斜めに掛けた。

 北政所様の侍女用の浅黄のお仕着せに、襷一つで絶妙な存在感が備わった。

 ずいぶん用意の良い侍女だ。

 感心しながら、竜子は縁の上がり口に腰掛け直した。

 華やかな衣擦れが、近づいてきている。

 気をしっかり持たねば、と自分に言い聞かせて茶器を侍女に差し向ける。

 意を得た侍女が、土瓶を手に茶を注ぎ足した。

 淡い薔薇色がかった茶が、とろとろと茶器に落ちていく。



「お姉さま、こちらにいらしたのね?」



 最後の一雫が滴るのとともに、弾んだ声が竜子を呼んだ。

 ちらりと横目を向ける。

 見覚えがありすぎる女の姿に、久方ぶりの弓で高揚していた気持ちが萎えていく。

 吐き出したいため息を腹に収めて、竜子は素っ気なく挨拶した。



「茶々殿、しばらく」



 茶器に唇をつけ、できるかぎり相手を視界に入れない。

 行儀がはなはだなっていない行動だが、そうでもしないと竜子は調子が保てそうになかった。

 調子を狂わせたら、また以前のようになる。

 せっかく取り戻した本調子だ。守らねばならない。

 さいわい、相手が相手だ。浅井の一の姫───茶々は竜子の不快を読み解ける女ではない。

 ぞんざいに扱っても、たいした反応は返されないはずだ。



「はいっ、おひさしゅうございますわ」



 ほら、やはり。

 すとんと竜子のすぐ側に腰を下ろして、茶々はおっとり微笑んだ。

 ほのかに輝く白雪のような肌と、すんなりとした柳のような長身。

 朱華はねず色の打掛に流れる髪は、日ノ本の者にしては珍しい淡い色合い。

 小さめな丸い輪郭の中の目鼻立ちの彫りは深く、目尻が垂れた瞳は大粒の黒水晶の珠のようだ。

 美しい、と謳われる容貌では、けっしてない。

 けれども、見る者の目を引き寄せる華がある。

 そんなこの母方の従姉妹が、竜子はなんとなく苦手だ。



「して、何をしにきた」


「何って、お姉さまに会いにきたのよ?」



 単刀直入に踏み込んだ竜子に、茶々はこてんと首を小さく横に倒した。

 黒めがちな瞳にかかる、けぶるような睫毛を瞬かせて。

 子猫のような仕草が、可愛らしい。



「妾に、会いに?」


「ええ、お具合が良くなったって聞いていたから。

 お祝いしたいなって思って来たの」


「左様か、それはかたじけないことだ」



 竜子は茶々の方へ体を向けた。

 大仰に両の腕を広げてみせる。



「これこのとおり、もう妾は本調子さ」


「ふふ、よかった。とってもお健やかそうね」



 袖で口許を覆って、茶々がころころ笑う。

 もう二十歳になるというのに、あどけない少女のようだ。

 つい、つられて微笑みそうになるが踏みとどまる。



「弓を引いてらしたの?」



 茶々が、竜子の右手の弓懸に目を止める。

 気づかれたか。億劫な気持ちになるが、気取らせないように表情を変えない。

 弓懸を撫でながら、視線は弓場へと向ける。



「少しな。体が鈍っておったゆえ」


「まあ、さすがお姉さま」



 茶々が瞳をきらめかせる。

 胸の前で両手を合わせて、頬を桜色にする。



「凛々しくって巴坂額みたい」



 きた。構えていても、じんわりとくる。

 淡い墨を垂らしたようにどんよりした気分が、胸の底に滲んだ。



「……左様か」


「以前のようにたくましくって素敵よ。

 お名前のように猛々しい竜みたいだわ」



 じろりと隣の女に目を戻す。

 少し棘を含ませた視線に晒されても、茶々はにこにことしている。

 竜子を眩しげに見つめて、茶々も見習いたい、とまでうそぶく。

 やはり、発言に他意は無いらしい。

 不愉快に思う方が間違いのような気にさせられて、覚えた感情の行き場が無くなる。

 本当に、いつもながら始末に負えない女だ。

 崩れそうな平静を立て直すため、高坏のパオンを手に取る。

 割ったパオンに柚子皮の甘煮をたっぷりと塗って、少々乱雑にほおばった。

 甘酸っぱさと、香ばしさが舌を包んでくれる。

 好みの味に少しだけ気持ちがほぐれた。



「お姉さま、お馬さんみたいでお行儀が悪いですよ?」



 まだ剃っていない眉の端を下げて、茶々が嗜めてくる。

 竜子は無視して、茶も雑に煽った。

 茶々の後ろに控える女房までもが目を丸くする。

 だが、それがなんだというのだ。そういう気持ちで、竜子は茶を喉へと滑らせた。



「いったいどうされたの、お姉さまったら」


「見逃せ、ここ妾の御殿よ」


「でも、大飯の局殿に見られたら」


「あれはもうおらん」



 また不快な名前を。

 不機嫌に鼻を鳴らして、竜子はパオンを噛み締めた。



「まあ、里に帰したの?」


「寺に押し込んだ」


「寺に!? 一体どうして、寺になんて」


「北政所様の御前で無礼を働いたゆえ」



 淡々とした竜子の返事に、茶々が悲しげな顔になる。



「そんな……大飯の局殿が、そんなことなさるなんて……」


「そのうちやると妾は思うておったがな」


「酷いわ、お姉さま。庇ってあげなかったの?」



 黒目がちな瞳が、ゆらゆら潤む。

 すぐこれだ。軽い頭痛すら覚えて、竜子は肩をすくめた。



「庇いきれぬ痴れ者もこの世にはおるのだぞ」


「でも、でも、身寄りのあまり無い方だったじゃないの」


「だったら大飯は自分の身の程を弁えるべきだったな」



 少なくとも、京極の家にいる間に。

 大飯の局は、元々息子と娘につけて実家に預けていた女房の一人だった。

 しかし昨年の初めに嫁いだ兄嫁と問題を起こし、兄に泣き付かれて竜子が引き取った。

 そこからだ。竜子が調子を狂わされたのは。

 一応知ってはいたが、本当に手を焼く老婆だった。

 とにかく若狭武田の血筋をかざして、驕慢な振る舞いをしたのだ。

 側室仲間には呼吸をするように、時には北政所様相手にまで慇懃無礼な態度で出た。

 嗜めても、叱りつけても止まらなかったのだ。

 この結末は、当然だった。



「間違えてしまったけれど、

 大飯の局殿はお姉さまのことを想ってらしたじゃない」


「そなた、本気で言っているのか?」



 涙ぐむ茶々に、竜子は目を見張った。

 この女の目はどこに付いているのだ。

 大飯の局が想っていたのは高貴なる血筋だ。

 ゆえに竜子がやることなすことに口を出しまくっていた。

 弓を引くなんて高貴な女性にょしょうのやることではないだの。

 食事を楽しんで好きに食べるのははしたないだのなんだの。

 とにかく、大飯の局が考える高貴なる女性という形に竜子を嵌め込もうと躍起だった。

 それを竜子が最初は嫌がっていたことを、茶々もよく知っているはずなのに。

 唖然とする竜子をよそに、茶々は俯いてはらはら涙を零す。

 その濡れた目元を、茶々の側に控えた彼女の乳母が拭って肩を抱いた。



「ああ姫様、お泣きにならないで」


「あんなに一生懸命に仕えてらしたのに……大飯の局殿がかわいそう……」


「致し方ありませぬよ、北政所様のご機嫌を損ねたのですもの」


「忠心ゆえに誤られたなんて哀れだわ……っ」



 茶々たちのやりとりに、堪えきれないため息が竜子の口から飛び出した。

 目の前の愁嘆場は演技ではない。茶々も乳母も本気でやっている。

 それがわかるから、余計に面倒くさい。



「そんなに哀れに思うなら、最初からそなたの元に引き取ればよかったろう」


「え?」


「妾の兄からあれを引き取らんかと水を向けられたのは、

 茶々殿の方が先だったではないか」



 竜子の兄は、先に兄嫁の姉である茶々に大飯の局を引き取ってくれないかと打診していた。

 しかし話はまとまらなかった。

 茶々が断ったのではなく、大飯の局が望んだ結果だったと聞く。



「大飯の局殿は、茶々よりお姉さまが良いって言ったのよ?

 無理矢理引き取るなんて酷いこと、茶々にはできないわ」


「ずいぶんお互いを気に入っておったくせにか」


「茶々、気に入られていたの……?」



 不思議そうに茶々が首を傾げる。

 とぼけているふうでもないのに、苛立ちが竜子の背中を撫でた。

 大飯の局は茶々を大いに気に入っていた。

 竜子の元に来てからもずっと、血筋はいまいちでもあてなる姫君と褒めそやしていた。

 勝手に竜子の御殿へ茶々を招き入れては、したくもない茶の席を用意するなんてしょっちゅうだった。


 だからあんなことが起きたのだ。


 ほとほと心が疲れ切っていた竜子が、茶々の無邪気さと大飯の局の驕慢に惑わされる。

 そんな、今にして思えば悪夢のような日々が。


 思い出した恨みを込めて、茶々を睨む。



「お姉さま、目が怖いわ」



 おどおどと茶々が竜子を見つめ返してくる。



「ごめんなさい。茶々、何かしたかしら?」



 意味がわかっていないのだろう。

 竜子の激しさに心底戸惑って、不安げに表情をかげらせている。

 また、これか。

 矢が的にいつまでも当たらない時のような、焦れと腹立たしさが冷静さを揺らがせる。



「京極の方様」



 平坦な声に呼ばれる。

 御化粧係の侍女が、澄まし顔で土瓶を手にしていた。



「もう一杯、茶はいかがでしょうか」



 見上げてくる侍女の視線に、我を取り戻す。

 茶々に引きずられるところだった。空恐ろしさが肌を粟立てる。

 しかしそれに気付かぬふりをして、竜子は空の茶器を侍女に渡した。



「そちらの御方は、如何しましょうや」



 竜子の茶器を満たしてから、侍女が伺ってくる。

 ちらりと茶々を見ると、きょとんと侍女を見つめていた。

 どうやら、興味が逸れたらしい。

 侍女に視線を戻す。竜子にしか見えない位置で、にぃ、と侍女が若い娘らしくない笑みを浮かべた。

 あの御化粧係の実家は、つくづくできる侍女を娘に付けているものだ。



「くれておやり」


「承知いたしました」



 軽く頭を下げて、侍女が予備の茶器を用意し始めた。

 その手元を物珍しげに茶々は見つめてから、竜子の方へ向き直った。

 茶々のかんばせには、もう先ほどのかげりはなかった。

 代わりにいとけない子供のような興味に満ちている。

 


「お姉さま、これはなぁに?」


「北政所様のお手元の者だ。

 今日は北政所様の選ばれた茶と菓子を持ってきておる」


「まあっ、素敵なものをいただいたのね!」


「そうだな。菓子はやらんが茶は飲んでいけ」


「ありがとう、お姉さまっ。大好きっ」



 きゃあきゃあはしゃぐ茶々の前に、侍女が茶器の乗った茶托を出す。

 楚々とした所作は、堂に入ったものだ。幼い御化粧係よりも洗練されている。

 それなのに、侍女の存在に対する印象は不思議と浅い。

 ただあるもの、という程度にしか周りの者に認識させてこない。

 あまりのさりげなさに、茶々の興味は茶器の中身にしか向いていないほどだ。

 御化粧係という存在自体に興味を持たせないよう、この侍女は事を運んでいる。

 こいつ、と竜子が舌を巻く側で、茶々が薄い茶器の縁に口を寄せる。

 子猫のようにこくりと一口含んで、不思議そうに目を瞬かせた。



「……変わった味……」


「クロモジと生姜の茶だそうだ。

 体が温まって、体を健やかに保つ滋養に富んでおる、らしい」


「へええ、でも美味しくないわね?」



 侍女の正体が気になったが、それよりも茶々だ。

 興味を茶に集中させようと、竜子は御化粧係がしてくれた説明を思い返して話した。



「薬湯みたいなものよ」


「お薬がまだ必要なの、お姉さま」


「そうとも、まだ少し本調子ではない。

 しっかりと滋養を付けぬといかんでな」



 竜子は頑健であらねばならない。

 先月やっと、月のものは戻ってきた。

 もう二度と、懐妊以外で絶えることのないよう、体を整えていかねばならない。

 関白殿下と北政所様の望みを叶えるためにも、もっともっと。

 茶の好き嫌いをしている場合ではないのだ。



「すごいお覚悟ね……」


「殿下と北政所様に賜った大恩をお返しするためだ。

 これしきどうということでもないさ」



 感心しきった茶々に、顎を上げて答える。

 いつまでも無垢な少女のままの茶々には、わからないだろうがと思いながら。



「では珍しいお化粧も、そのため?」



 茶々が竜子の顔をまじまじ見つめてくる。

 さぞ目新しくて、興味を惹かれるのだろう。

 さもあらん、と良い気分になる。

 今日の化粧は日延べにしてきた、北政所様お気に入りの化粧なのだから。



「左様。北政所様に勧められたのだ」


「寧々様に?」


「そうとも、殿下がこういう化粧をお好みだとな」



 関白殿下は、この薄い化粧がお好きだ。

 肌の色に近い練白粉を塗って、雲母で煌めく粉をはたいて。

 眉を元の位置に細く引き、まぶたには淡く洗朱の眼彩アイシャドウを乗せて。

 目の輪郭に沿ってなぞった樺色の眼彩で眼差しに色香を足した。

 そして口元には玉柱紅。

 白珠のような箔の入った珊瑚色を刷いた唇は、艶やかで竜子自身の心もときめく仕上がりだ。

 今日の中食の席でも、関白殿下にずいぶんと褒めていただいたものである。

 近く閨に行くと言われたほどだから、北政所様のおっしゃるとおりに事が運んで嬉しくなった。

 御化粧係に存分に腕を振るってもらった甲斐が、たっぷりあった。



「いいなあ。茶々もそのお化粧、したいな」


「ふふん、よかろう」


「どの女房にやらせたの?

 茶々にも、その者を貸して?」



 茶々の眼差しに、わかりやすいほどの羨望が浮かぶ。

 子供っぽいそれは微笑ましいが、だからといって叶えてやれはしない。

 御化粧係はすぐそこにいるが、紹介してやりたくない。

 なにより北政所様の許しがないから、強請られても頷けない。



「教えてやらぬ、秘密だ」


「お姉さまったら、いけず!」


「いけずではない」


「いいもん、茶々も寧々様にお願いするもん」


「さて、お許しいただけるかな」



 無理だろうが、と思って笑みを口元に浮かべてみせる。

 北政所様は、茶々をいずこかの公家に嫁がせようと考えている。

 一昨年に茶々と竜子の兄との縁談がダメになってからは、特に急いで。

 そんな中で、関白殿下の興味を惹かせる化粧を許すはずがない。



「そんなことないもんっ」


 

 白い頬を膨らませて、茶々が唇を尖らせる。



「だって茶々、殿下の側室になるんだもん」


「……は?」



 茶々の言葉に、竜子は目を剥いた。

 意味が、理解できない。いや、頭が理解を拒んでいる。

 体が凍てついたように、硬くなる。

 周りの者も皆、同じだった。

 茶々と、茶々の乳母や女房たち以外は。



「どういうことだ、茶々殿よ」



 何をやった、と言外に潜ませて竜子が問う。

 その問いに、茶々は微笑んだ。

 陽だまりでほころぶ桜の花のように、ふんわりと。



「ふふ、あのね、殿下が約束してくれたの」



 淡く染まった頬に手を添えて、夢を見るように双眸を細めて。








「来月には私も、殿下の側室にしてくれるって!」







 やられた。



 竜子の心に悔しさと恐怖が走る。

 その感情が、手にした茶器に、びしりと罅を入れた。



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