病は癒えて、そして(2)【天正16年1月中旬】
「妾はな、殿下と北政所様のお二人に惚れておるのよ」
「はい?」
秀吉様だけじゃなくて、寧々様にも惚れてる?
えっ、竜子様ってバイなの?? 夫婦揃って好みで両手に花的な???
「言うておくが、単なる色恋ではないぞ」
他人の思考を読むって上流階級の女性の必須スキルか何かなのか。
うっかり顔を引きつらせてしまったら、くつくつと笑われた。
「妾にとって、お二人は恩人であるのだよ」
「恩人と申しますと」
「妾の最初の夫が何故死んだか知っておるか?」
ええと、確か本能寺の変の折に明智光秀に味方しちゃったんだったな。
旧領回復を狙ってのことだったけど、全力で賭けた明智光秀は速攻で秀吉様に沈められた。
焦った竜子様の元旦那は秀吉様に頭を下げようとしたが、許されるわけがなくて討たれた。
そして残された竜子様は子供ごと捕縛され、秀吉様の前に引きずり出されたそうだ。
「何故こんな目に、と亡夫を恨んだものさ」
「でしょうねえ」
「子らの命を危うくしおってからに、
地獄まで追いかけて殺し直してやろうと思ったな」
茶器を持つ竜子様の手の甲に、青筋が立つ。
不動産投資で全財産を溶かした上に、巨額の借金まで作りやがったみたいなやらかしだ。
ブチギレて当然だよ。やらかした奴に制裁を加えた上で縁を切っていいレベルだと思う。
制裁を加えたい元旦那にさっさと死なれて、竜子様はさぞ怒りのやり場を失ったことだろう。
実際、捕縛直前までキレ散らかしていたらしい。
それでも現実は止まってくれないわけで、捕まったあたりで竜子様は腹をくくった。
母親の自覚で冷静を取り戻したに近いかもしれないそうだ。
子供の命を救うことに専念しなきゃ、と奮起して竜子様は秀吉様に談判した。
できたら子供たちを助命してほしい。
もし無理なら母子一緒に殺してくれ。
不甲斐ない夫を殴りに地獄へ行きます、と。
そんな主張が、秀吉様にウケた。
思い切りが良すぎる言動と、覚悟のガンギマリっぷり。
実に寧々様っぽいと気に入られて、食事に誘われた。
そこで酒を出されて、うっかり竜子様は溜め込んだ愚痴を吐かされた。
実家の兄が頼りなくて心配だとか、死んだ夫がプライドばっか高くて参っていたとか。
名家だからと色眼鏡で見られたり、体面を保ったりで疲れてるとか。
子供や周りの者のために我慢していたが、実は全部面倒くせぇ! つまらねぇぇぇ!! と思っていたとか。
秀吉様の話術で誘い出されるようにして、竜子様は全部ぶちまけてしまった。
それらを秀吉様はうんうん聞いてくれたらしい。
時に一緒に怒り、時に慰めてくれ、ただの女の竜子様に寄り添ってくれた。
こんな男性は、竜子様にとって初めてだった。
成り上がりと蔑まれる秀吉様だが、身分ばかり高い男よりずっと話ができる。
会話はウィットに富んでいて、軽い話も重い話もできる。
しかも、女だからと適当に対応してこない。
女だからと竜子様をぞんざいに扱うところがあった夫より、ずっと素晴らしいと思った。
秀吉様が下手にイケメンじゃないのもよかった。
愛嬌たっぷりな風貌で親しみやすく、気負わず一緒にいられた。
だから、コロッと竜子様は秀吉様に落ちた。
まだまだ髪を下ろす歳じゃないでしょ?
俺と一緒にもうちょっと人生楽しまない?
そんなふうに口説かれて、そうですね! と乗っかっちゃったらしい。
竜子様の人生において未だかつてない大胆な行動だったが、それで得た結果は最高だった。
竜子様の子供たちは、あっさり助命された。
適切な家に預けてちゃんと育てるという確約付きでだ。
やっぱり見込んだとおりの男だったと、竜子様は秀吉様を選んだ自分に喝采を送るほど喜んだ。
そんな竜子様のるんるん気分は、寧々様の元へ連れてこられて一回砕けた。
紹介された席で、寧々様がぽかんとして呟いたのだ。
「聞いてない……」と。
竜子様は、一気に青ざめた。
側室に上がる件が、正室の寧々様に話が通っていない。
これは竜子様にとって、かなりやばい状況だった。
意外だけれど、天正の世では正室の許可が無しに側室を作れない。
事後承認を求めるなんて、横紙破りもいいところだ。
正室が側室候補を拒否って、奥に通さないならまだ良い方。
最悪、流血沙汰すら発生しえる。正室が側室候補をぶちのめす、という方向でだ。
「心底焦ったものさ、自分の命一つで済むかとな」
「お子様のこともありますもんね」
「ああ、だが妾が何かする前に、寧々様が動かれた」
え、寧々様は何したんだろう。
不安げな私に、竜子様がくつくつ笑う。
思い出し笑いだろうか。懐かしげに遠くを見つめて、竜子様は話を続けた。
「殿下の顔面にな、拳を一発入れられたのだよ」
寧々様にとって、秀吉様の女絡みの暴走は当たり前だ。
お仕置きはしても、そこまで怒らない。
だが竜子様の時は、段違いにキレた。
捕まえた立場の弱い未亡人に、子供の助命と引き換えで手を出した。
親や本人の意思で売り込んできた娘をもらったとか、色っぽい街の女を口説いて連れ帰ったとかじゃない。
選択肢が無い女性をうまうまゲットした行為だと認定して、寧々様はブチギレた。
鬼だとか畜生だとか罵って、柱に秀吉様を縛りつけたそうだ。
そして恐れおののく竜子様に、手をついて謝った。
女の敵の鬼畜生を野放しにしていたばかりに、酷い目に遭わせてしまって申し訳ない、と。
竜子様は困惑した。こういう事態は想定していなかった。
すぐに家に帰すと言われても、実家は絶賛秀吉様に反抗中だった。
帰る家がないから、いさせてくれと竜子様がお願いした。
事情を聞いた寧々様はならば、と快く羽柴に竜子様を置いてくれた。
そればかりか、何くれとなく気に掛けてくれた。
新しい家だから伝統なんてない、と好きなことを好きにさせてもくれた。
弓を射れば凛々しいと褒めてくれ、たくさん食べてと美味しいものをくれる。
竜子様をまるまる受け入れてくれる寧々様には、すぐ親しめるようになった。
秀吉様は以降も変わらず、竜子様に良くしてくれる。
夫や主人というより頼れる伯父のようで、一緒にいて楽しくて安心できる。
その妻の寧々様は、竜子様を可愛がってくれる。
おおらかな歳の離れた姉のように、何くれとなく気にかけてもらえてくすぐったい。
その二人の作った家は、明るくて賑やかで、とても温かい。
いつしか羽柴家は、竜子様にとって呼吸がしやすい場所になっていた。
「あのお二人が、妾に居場所を作ってくださった」
喉をハーブティーで潤して、竜子様が唇をたわめる。
「ゆえに妾は、お二人ごとお慕いしておるのよ」
本気でそう思っているお顔だな、これ。
そりゃ揉めないわ。竜子様は秀吉様と寧々様という夫婦を慕っているのだもの。
色恋ではなくて、たぶん家族愛に近い。
夫妻+愛人という属性が付いているだけで、この人たちは家族なのだ。
「子もな、絶対に産みたい」
私の顔を覗き込んで、竜子様は宣言する。
「この腹からお二人の子を産む。これ以上ない恩返しになる」
そうだろう? と問われても困る。
私はそういう特殊な状況を経験したことがないのだ。無茶言うなや。
でも悪いことだとは思わない。
竜子様たち三人が納得しているならば、一つの幸せの形だ。
幸せに定型はないのだからね。
「でも、そうなら」
だからこそ、疑問が湧いてくる。
「なんだ」
「どうして竜子様は、体を損ねるほど食事を細くなさったのですか?」
心身を削って、生理を狂わせてしまうほどに。
子を望む以前に、秀吉様や寧々様が悲しむことをしてしまうなんておかしい。
ありのままの竜子様を、二人は受けれていた。
痩せてほしいなんて、思いもしてなかっただろう。
それがわからなかったなんて、ありえない。
「そのことか……」
竜子様が深く息を吐く。
私はじっとお返事を待つ。萩乃様たちもじっと聞く姿勢に入っている。
このことは、みんな気になっていたことだ。
よっぽどのことなのだとは思うが、わからないからこそすごく心配したんだ。
そろそろ話してくれても良いんじゃないだろうか。
茶器に唇を当てながら、竜子様が目を彷徨わせる。
睫毛の陰がかかった目元に、何か重たいものが漂う。
「そろそろ、話しておかねばなるまいか」
たっぷりと時間を置いてから、竜子様が呟く。
ひたりと私に視線が戻される。
弓と向き合う時のような目だった。
しゃんと背筋を伸ばして、居住まいをただす。
竜子様の口元が、ゆっくりと開いた。
「竜子様! 竜子様っ!」
息を切らした侍女が、庭に駆け込んできたのは同時だった。
全力の早足で来たのだろう。
冬にもかかわらず汗をかいて、顔を真っ赤にした侍女は、滑り込むように竜子様の側に平伏した。
息切れて今にも倒れそうな彼女に、竜子様のまなじりが上がる。
「いかがした、何があった」
息も絶え絶えな背に手を当てて、竜子様が侍女を起こす。
侍女は口を戦慄かせるが、うまく喋れそうにない。
落ち着かせないとまずいな。水分必要そうか?
急いで予備の茶器に注いだハーブティーを渡してあげると、侍女はそれを一気飲みした。
侍女がふはっと大きな息を吐き出す。
「落ち着いたか?」
竜子様に問われて、こくこくと侍女が頷く。
先ほどよりも息がましになっている様子だ。
「焦らんでよい。ゆっくり申せ、何があった」
「は、はい」
竜子様に背中を摩られながら、侍女がふたたび口を開く。
「あ、あ、浅井の、一の姫様が、参られました」
侍女の言葉が、庭の空気を一変させた。
全員の表情が硬くなる。誰もが動きすら止めた。
えっ、ちょっと何これ。急にどうした?
戸惑う私をよそに、竜子様が舌を打った。
「……あの娘か」
「取次の者が対応しておりましたが、その振り切られまして」
「ここへ来るのだな」
今朝私が整えた眉の頭を寄せて、ぐっと唇を噛む。
どう見ても良い感情があると思えない態度だ。
一の姫という人が、相当嫌いか何かなのかな。
あからさますぎるほど歪んだお顔を呆然と見上げていると、竜子様が立ち上がった。
「萩乃」
「はいっ」
「お与祢を隠せ」
えっ? なんで?
きょとんとしていると、萩乃様が私の手を引いた。
「姫君、こちらへ」
「え、ええ?」
「はやくっ」
ぐいぐい引っ張られて、庭に面した座敷の中へ引きずり込まれる。
お夏が追いかけてこようとしたが、竜子様が何か言って止めた。
その間に、萩乃様が更にその奥の襖をすぱんと開く。
襖の向こうに女房の控えの間によく似た、少し狭い部屋があった。
そこへ萩乃様は私を放り込んだ。
「声をお出しになられませんよう」
「あの、お夏たちは!?」
「姫君の侍女のことは、萩乃にお任せを」
いつになく硬い声で、部屋から出ていく萩乃様が言う。
真剣みというか、凄みみたいな萩乃様に似合わない強さだ。
押し負けて、ぎこちなく頷く。
萩乃様は少しだけ安心したように頬を緩めて、襖に手を掛けた。
「良いと竜子様が申されるまで、じっとしていてくださいね」
では、という言葉とともに襖が閉ざされる。
静まり返った部屋に、ぽつんと私だけが取り残された。
な、何が起きてんの……?
座り込んだ私の耳に、微かな衣擦れが届いたのはしばらくしてからだった。
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