第1章 終・後 きみがために【寧々と藤吉郎・天正15年8月末】

 近頃の寧々は、夜の化粧が好きになった。

 湯浴みを終えたら、丁寧に髪を乾かす。

 柔らかい木綿で水気を吸わせ、椿の油と柘植の櫛で梳いて艶を出す。

 実のところ、髪はあまり長くしていない。

 長い髪は頭が重くなるうえに、気軽に洗いにくくなるからだ。

 いくら体面があっても嫌だから、背中に掛かるほどで揃えている。

 孝蔵主が渋い顔をするけれど、知らんぷりだ。

 大仰な場では、かもじを付ければいい。それだけの話なのだから、文句は言わせない。

 髪が乾けば寝間小袖を整えて、寝所に向かう。

 最近になってやっと慣れてきた広い部屋の隅には、鏡台と化粧箱が置いてある。

 掛けた鏡は南蛮製。映りが良くて、夜でもちゃんと用をなす。

 その鏡の前に座って、まずは軽く髪を確かめる。

 乱れていないか、おかしな癖はないか。

 前髪が少し気に入らない。指で調整して、自分に合う流し方にする。

 納得がいったら、次は肌の手入れだ。

 脱脂綿──綿花をほぐして平らにしたものらしい、に桃の葉の露を垂らす。

 桃の葉の露は、この夏から寧々の元に通ってきている、山内家の与祢姫にもらったものだ。

 肌の荒れや乾きを良くしてくれる代物なので、たっぷりと使うといいと言っていた。

 だからひたひたになるほど露を脱脂綿に含ませて、顔と首へまんべんなく当てていく。

 肌を擦らないように、けれどもしっかりと露を吸わせるように。丁寧に優しく肌を潤していく。

 最後に顔へ手を当てて、体温を移すように軽く押す。そうすることで、より肌の潤いが増すそうだ。

 手のひらの濡れがあまりなくなったら、次は柚子の香りがする軟膏を薄く塗る。

 これを塗ると肌の潤いが閉じ込められて、滑らかになるのだという。

 しっかりと首まで塗ったら、その上からべたつきを抑える夜用の白粉を手に取る。

 この白粉は倭鉛の灰と天花粉を調合したもので、螺鈿のような輝きを持つ粉が足してある。

 肌に乗せると適度に肌の色を整えて、綺麗な艶を与えてくれるから不思議だ。

 夜の化粧は薄めに、と聞いたから、よくよく心掛けて毛足のやわらかな化粧筆で肌を刷く。

 丁寧に白粉を乗せたら、一度筆を置いて鏡を確かめる。

 ムラはない。厚塗りにもなっていない。手のひらで触れても、崩れる様子はなかった。

 なかなかの仕上がりではないだろうか。

 鏡の中の自分が、満足げに唇の端を持ち上げている。

 あとは軽く眉を引いて、夜用の玉柱紅を引くだけだ。



「別嬪さんだなぁ」


「!?」



 ぬぅ、と微笑む自分の肩口に、愛嬌たっぷりの男の顔が現れる。

 慌てて振り返ろうとした寧々の頬に、温い手が触れた。



「……お前様、何をするの」



 寧々は自分の頬を両手でもちもちと遊び出した夫──藤吉郎秀吉を、鏡越しにじとりと睨んだ。



「いやぁ、触り心地がええもんで」


「やめてくださいな、白粉が剥げますから」


「えぇーいけずぅー」


「いけずじゃないですよ、もうっ」



 軽く叱りながら、悪戯をする手を引きはがす。

 秀吉は口を尖らせたが、拗ねてはいないようだ。目がしっかりと笑っている。

 まったく困った夫だ。何かにつけて寧々をからかっては楽しむ癖は、昔からずっと変わらない。

 手を取ったまま、体の向きを変える。寝間小袖を着た秀吉が、じーっと寧々を見つめてくる。



「ほんに別嬪さんが増したじゃないか、寧々」


「しみじみ言わないでくださいな」


「恥ずかしがることはないだろぉ、昨日よりうんと綺麗になっとるぞ?」



 離れようとする寧々を秀吉の腕が捕まえた。

小柄な体躯に似合わない強さで、でも優しく引き寄せられる。

胸に飛び込んできた寧々を抱えて、鼻がつくほど近くに顔を寄せてきた。

燈明を反射して輝く大きな目に、寧々だけが映っている。



「ん、きらきらしとるなぁ。珠みたいな肌じゃあないか。

 わしゃ好きだなー、きらきらしとる寧々」



 頬が燃えるように熱くなる。この人は、なんでこうも恥ずかしげもないことを口にできるのか。

 うんと昔、必死に口説かれていたころを思い出して、気恥ずかしさで胸を掻きたくなってくる。

 でも、そんな衝動に駆られる一方で、寧々はひそかに安心した。

 まだちゃんと、夫婦でいられている。秀吉のことを、寧々はまた男として愛おしめている。

 つい先ごろまで感じていた、うすら寒さが嘘のようだ。



「寧々―?」



 秀吉が大きな目を瞬かせている。

 大げさすぎる表情が滑稽で、真面目な気持ちがどこかへ飛んで行った。

 馬鹿らしくなって笑ってしまう。夫婦だけの時間なのだ。何を不安に思う必要があろうか。

 昔みたいに、楽しく過ごせばいいだけだ。

ぎゅっと秀吉に抱きついて、なんでもないと頬に口づけてやった。



「肌がきらきらしているのは、この白粉のおかげよ」


「おしろい?」


「これこれ、先ごろ山内家から献上されたんです」



 螺鈿細工の香合を開けて、中身を見せる。

 ふわりと薄い香色めいた白粉を、秀吉の節くれだった指が掬った。

 指先に付いた白粉を擦ったり、嗅いでみたりしてから、秀吉は猿のようにひょうげた仕草で首をひねった。



「まことにおしろいなんか、これ?」


「左様です。山内伊右衛門殿の姫が考案してね、

 宗易殿のとと屋が任されて作ったのだとか」


「ほぉ、伊右衛門の娘!

 もしかして先に言っておった、お前の女房に召し上げるって姫か?」


「ええ、そうよ。珍しきことをよく知っている子なの。

 このきらきらはねえ、太刀魚の鱗から採れる箔と、

 雲母の粉が元なんですって」


「ふんふん、ところでよ、寧々」



 寧々の言葉を秀吉が遮ってくる。

 きょとんと見上げると、満面に期待と好奇心を浮かべた秀吉がいた。

 あっ、これは。そう思ってももう遅い。秀吉の目が別の意味できらりと光る。

 


「伊右衛門の娘はどんな姫だ? 千代の子だろ?

 さぞかし美し、」


「お前様」



 肉の薄い秀吉の手の甲を、寧々は力いっぱい抓る。

 情けない悲鳴は無視だ、無視。この見境のなさだけは許してやらない。

 渾身の力を込めて、痣になりやがれとばかりに抓りながら睨む。



「お与祢はまだ八つ、ほんの女童ですよ」


「はー、八つかぁ」


「……昔みたいに庭に吊るされたい?」


「んんっ、八つは可愛い盛りの子供だなぁ!

 うん! 子供だ、ちっさい子供!」



 声を落とす寧々に、秀吉は一瞬で態度を変えた。

 まったく油断も隙もない。

 一応、与祢姫のことを話題にしたら、秀吉がこうなるだろうという予感は薄々していた。

 が、本当にそっちの意味で興味を持ちかけるとは。

 八つの子にまでとは、我が夫ながら見下げ果てる思いだ。

 この調子では与祢姫が城奥に上がったら、一層警戒しなくてはならなそうだ。

 伊右衛門と千代が掌中の珠と言い切る姫だ。贔屓目に見ても愛らしい。

 父親と母親の良いところを合わせた見目だから、長じれば人並み以上の容色を持つだろう。

 ちゃんと見張っておかないと、秀吉が食指を動かしかねない。

 万が一があったら、寧々の無理を承諾してくれた伊右衛門たちに、申し訳が立たないことになる。

 気を引き締めねば、と寧々は心に決めた。



「お前様、けっっっっっっしてお与祢に手をお出しにならないでね?」


「……ちょっとだけなら」


「伊右衛門殿の槍で串刺しにされたい?」


「いやいや、伊右衛門はそんな馬鹿なことせんだろ」


「わかりませんよ、恐ろしいほどに溺愛なさってる姫のことだもの。

 命と家と引き換えにしてくるやも」



 秀吉が黙り込む。

 斜め上を見て、顔を引き攣らせ始めている。

 おおかた伊右衛門の本性あたりを思い出しているのだろう。

 山内の夫婦めおとはああ見えて、なかなかに怖いモノを腹の底で飼っているのだ。

 下手を打たない方が、わりと良い。



「あたくしも可愛がってる姫なんです。

 お前様も普通に可愛がってやってちょうだい」


「ずいぶん入れ込んどるなあ」


「そりゃあもう」



 この腕の中にいる幸せを、また思い出すきっかけをくれた子なのだ。

 恩に着ているし、純粋に可愛らしくも思っている。



 それに、なにより。




さちがね、思い出されて」


「幸、て」



 ぎくりと、秀吉が凍りつく。

 軋むように寧々の方へ、顔を戻す。

 浮かぶ表情は、複雑だ。恐れるような、戸惑うような。それでいて、何かに縋るような。

 天下人らしくない表情だが、したかない。

 幸の───寧々が産んで、すぐ息絶えた娘の話は、ここ十数年に渡って夫婦の禁忌だったのだから。

 こわばる頬に手を添えて、寧々は頷いた。



「あの子が大きくなれていたら、

 お与祢のようだったんじゃないかしらって思ってしまうの」


「そんな、姫なんか」


「変よね、赤子のまま死んだ幸とお与祢が似ているかなんて、」



 わからないのに、という言葉が喉の奥で消える。

 

 秀吉と寧々の間に子ができたのは、たった一度だけ。

 夫婦になって一〇年をゆうに数えた頃に産まれた、幸だけだ。

 秀吉も寧々も大喜びをして、産まれる日を心待ちにした。

 女遊びが激しい癖をして、秀吉には子ができにくいとわかってきた頃だった。

 希なる幸運を掴めたと、あの時ほど神仏に感謝したことはない。

 早くから産まれる子の名を、男なら『幸丸』、女なら『幸』と決めたりもした。

 必ず親子三人で幸せになれると確信して、夫婦揃って舞い上がりすぎたせいだろう。



 幸が産まれて一日で死んだ不幸に、寧々たちは耐えきれなかった。

 

 

 秀吉は、寧々から夜離よがれしてしまった。

 寧々が難産で散々苦しんで、死にかけたせいだ。


 また子ができて、愛しい寧々が死にかけたら。


 またできた子が、幸のように逝ってしまったら。


 心底恐れてしまったから、秀吉は寧々に触れられなくなったのだ。

 寧々も寧々で、離れる秀吉を止められなかった。


 自分が不甲斐ないばかりに、愛し子をちゃんと産んでやれなかった。


 あれだけ秀吉を楽しみにさせておいて、ちゃんと子を抱かせてやれなかった。


 罪悪感が気を遅れさせて、でも我慢ならなくて。

 周りが怯えるほどの大喧嘩をしたり、今は亡き信長に直接愚痴ったりと、色々やった。

 それでも離縁しなかったのは、子がなくともお互いが大切だったからだ。

 子がない。それだけの理由で切れるような、生半可な情愛を結んだ仲ではない。

 お互いを想い合うからこそ、寧々と秀吉は前にも後ろにも進めなくなった。


 ゆえに、寧々たちはだんだんと幸のことから目を背けた。


 夫婦ではなく戦友のように振る舞って、我が子の代わりに引き取った子供たちを育てた。

 前田家から引き取った豪姫、秀吉の甥たち。小姓として連れてこられた市松や佐吉たちもいた。

 賑やかに忙しくすることで、寧々は寂しくはなくなった。

 秀吉も出世と時々女遊びに励んで、寂しさを忘れたようだった。

 子が無くたって、そこそこ幸せ。夫婦揃ってそう思いかけていた。



 与祢姫の化粧と手入れのおかげで、秀吉がまた寧々に触れるきっかけを得てしまうまでは。




「お与祢がね、あたくしたちを夫婦に戻したのよ」


「……寧々よぉ」


「あの子はあたくしに幸せを運んできてくれたの。

 幸がこの腹に宿ったと知った日のように」



 あの姫が、寧々に幸せを思い出させた。

 だから、寧々の中で眠っていた欲が目を覚ました。



 秀吉に、子を抱かせてやりたい。



 もう自分では無理だから、自分以外の女に産ませた子でもいい。

 子さえできれば、欠けたままの秀吉の幸せを埋めてやれる。

 そのためには、与祢姫の力が必要だ。

 あの姫の手で城奥の女たちを変えさせる。

 まずは子を成しやすい体にさせよう。

 第二子ができぬと悩んでいた千代が、与祢姫の影響で嫡男を得たのだ。

 与祢姫の指南があれば、城奥でも同じくできるに違いない。

 近頃の秀吉は女は好きでも閨事への興味が少し薄れているようだが、問題はあるまい。

 現に、秀吉は姥桜うばざくらの寧々と、喜んで閨を共にするようになった。

 与祢姫ならば、女たちに秀吉を強く惹きつける魅力を持たせることもできるはずだ。



 なんの心配も、ない。




「安心してくださいな」


 

 何か言いたげな秀吉を強く抱きしめる。



「お前様も、幸せにしてみせます」


「……そうか」


「ええ、そうよ」



 きっと、上手くいく。

 寧々が上手くいかせてみせる。






「あたくしが必ず、藤吉郎殿に子を抱かせてさしあげる」






 秀吉のために、寧々が全力を注ぐのだ。

 ならぬものも、必ずなる。

 ぎこちなく抱き返してくれる腕に縋って、寧々は強く目を瞑った。

 秀吉が今、どんな顔をしているか。

 それに、気づかないように。






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