第1章 終・前 きみがためを【与祢と紀之介・天正15年8月下旬】




 筆を置いて、伸びをする。

 自然と上げた視線の先で、軒に吊るした風鈴が揺れている。

 鉄製の小さなそれは、高くて透明な音色を控えめに散らしていた。

 耳をすませてみる。涼しい風が耳から体を吹き抜けるような、爽やかな心地がした。

 風鈴といえばガラス製と思っていたけれど、金属製もなかなかに趣きが深いものだ。

 ほたるぶくろの花をイメージしたフォルムも、とっても可愛い。

 ぜつと結ばれた、淡い紫の短冊と翠の糸の組み合わせもお洒落。

 全部が全部、素敵な風鈴。いつまでだって見ていられる。

 私が夏を楽しめるようにって、紀之介様が贈ってくれた物だもの。

 目に入れるだけで、幸せな気分。ふわふわ胸に満ちる気持ちが、ため息に変わってあふれちゃってもしかたないよね。



 御化粧係になることを決めて、もうすぐ一ヶ月。

 帰ってすぐに父様へ報告したら、二日後には都から母様と丿貫おじさんが大坂に飛んできた。

 与四郎おじさんも同時に堺からやってきて、私の保護者が久しぶりに勢揃いを果たした。

 父様以外の全員は、もう私が寧々様のお側に上がることが決まるとは想定をしていなかったようだ。

 私を寧々様に引き合わせた母様すら、お仕えするのはまだ先と決めてかかっていた。


 やっぱり、正式に私を城奥に上げるのは二、三年後と口約束は交わしていたらしい。

 それまでの期間は私に通いで寧々様と会って親しみを持たせつつ、徐々に奥仕えに必要なもろもろを教え込んでいく予定だったそうだ。


 なのに、ここに来ての予定変更。


 それもお断りできるわけがないほど強い、寧々様の要望だ。

 あきらめて私を送り出すしかないって結論に保護者は至ったようだ。

 けれど、そこから先もみんな頭を突き合わせて話し込んでいた。


 城奥で八つの私がやっていけるのか。


 頼れる誰かに心当たりはないか。


 礼儀作法には問題が無いか。


 そもそも子供すぎて舐められはしないか。


 あらゆる心配が私に降り注いだよ。

 のんびりしている丿貫おじさんすら真剣で、時に目を三角にしていた。

 ちょっと大げさすぎやしない?

 お子様だけど中身はそこそこ大人だ。

 いまだって大人に囲まれて暮らしていて、コスメ関係のことなら大人と対等にやり取りしている。

 天正の大人社会の流儀だって、大坂城通いで見聞きしてちょっとは覚えてきている。

 城奥に上がったって、特に困らないと思うんだけどなあ。


 軽い気持ちでそんなふうに言ってみたけど、逆に油断しすぎていると睨まれた。

 城に上がれば、大人扱いになるんだって。

 大人に混じって、重要なお役目に就くのだ。

 十三、四歳でなくても、鬢削ぎをしていなくても、業務中は大人と同等とみなされる。

 多少のお目こぼしはあっても、子供だからと甘えたことは言っていられなくなる。

 山内家の中にいる今のように、のほほんと好きなことをして過ごすお姫様生活はできない。

 この時代トップクラスのキャリアウーマンの仲間入りをして、しかも舐められずに先頭のさらにトップ集団を走るバリキャリ生活が待っている。

 私の一挙一投足を通して、寧々様と山内家を判断されるようになるのだ。

 いくら用心をしてもし足りないぞ、と四者四様のお説教をくらった。

 城奥ってどんな危険地帯なんだよ。

 一流の外資系大企業みたいな、超仕事できる人ばっかりで実力至上主義な職場ってわけじゃないの?

 気を抜いたら頭から食われるって、与四郎おじさんの発言が地味に怖いんですけど。

 戦々恐々としていたら、父様たちは私に何かを諦めたようだ。

 もうとにかくメイクやコスメ開発以外は何もするな、寧々様のお側でにこにこしとけ、と厳しめに言い含められた。


 準備に関しても、私物の荷造りとメイクセットの準備以外ノータッチ。

 他は全部、両親やおじさんたちが手分けして、急ピッチで準備を取り仕切っている。

 寧々様と改めて両親が面会して、私の城奥入りの日取りが九月の終わりに決まったせいだ。

 急がないと大変なことになるって、連日連夜、大人は大忙しである。


 父様の担当は、私の雇用契約関係。

 頻繁に孝蔵主さんとやり取りをして、覚書を取り交わしていた。

 かなり細かくいろいろ取り決めたらしい。

 一昨日なんて満足げな父様に見送られる、妙に気疲れした感じの孝蔵主さんとか見かけた。

 一体何をやった、父様よ。


 母様の担当は、私の身の回りのものの用意。

 持ち込む衣装や家財道具と、連れていく侍女の選定に余念がない。

 側仕えのお夏以外は、全部、全員新調するようだ。特に衣装に気合が入っている。

 都の一流呉服店・雁金屋かりがねやさんの外商を呼び付けて、採寸とデザイン選定に延々とやった記憶も新しい。


 与四郎おじさんはもちろん、コスメとメイク用品の調達をしてくれている。

 そもそも化粧水からファンデまで、私の関わった美容分野のすべてがとと屋の管理下だからね。

 安定供給が可能なように、私および寧々様専用のコスメ製造所や職人さんを手配してくれるそうだ。

 使用する材料も極上の逸品を揃える努力をすると言っていた。


 丿貫おじさんにはすることがないと思ったら、あったよ。

 お医者さんだった頃のつてで、羽柴の御典医さんと引き合わせてくれた。

 かなりご高齢のおじいちゃん先生だったけど、天正の医学界の頂点だそうだ。

 某医局の泥沼闘争ドラマが脳裏をよぎったが、別に怖いことはなかった。

 飴ちゃんくれたし、たぶん良いおじいちゃんだ。

 城に上がったら、おじいちゃん先生とその後継者の若先生をいつでも頼って良いって。

 医療関係の困りごとなら何でもOKって約束してくれた。


 私はというと、両親やおじさんたちに指示されること以外は普段通り。

 三日に一度大坂城に行って、フリーの日は茶の湯のお稽古と手習いをして、大坂に連れてこられた弟コンビと遊ぶだけだ。

 あ、一応はコスメやメイク用品のアイデア出しもしてるか。

 合成ウルトラマリン・ヴァイオレットが実用段階に入ったり、与四郎おじさんがオリーブの苗をゲットしてきたりと、新しい展開があったのだ。

 先日はアイシャドウやアイブロウのカラーバリエーションを考えて、顔料の調合専門職人さんと打ち合わせをした。

 オリーブは与四郎おじさんと相談して、淡路島のほうで栽培を試みる段取りも決めた。

 そんなくらいしかやっていないが、だからといってそれ以外できないので良い子にステイしている。

 最近は佐助とお夏にがっちりと監視されて、好き勝手な外出がかなり制限されているのだ。

 理由はよくわからない。危ないからの一点張りだ。

 どうにも聞き流していいような様子じゃないから、素直に言うことを聞いておくことにしている。


 そのせいで登城以外ではほとんど屋敷の外に出ない毎日になって、絶妙に暇でしかたがない。

 だからもう、空いた時間は全部紀之介様へのお手紙に費やしている。

 福島様にお願いされてから、手紙を送る頻度をアップしているのだ。

 私の手紙が紀之介様の癒しになるって聞いちゃったからね。これはもう書くしかないでしょ。

 書く内容は、寧々様と食べたお菓子のこととか、城奥に持っていく服やコスメの話とか。

 今日のワンコならぬ今日の弟コンビなんかも書く。

 令和のチャットアプリで投げ合うくだらない会話みたいな内容なのは、手紙の回数が増えたせいだ。

 一回一回が、どうしたってなにげなくて薄い内容になってくる。

 つまんないと思われないか心配だけど、今のところは大丈夫。

 紀之介様の送ってくる手紙の内容も、同じような感じになってきたのだ。お互い様だね。

 それに意外と紀之介様は、私のくだらない話にも乗ってきてくれている。

 リップカラーの話を書いた時に、桃の色──ようはピーチピンクが私に似合いそうだねって返ってきたのはちょっと驚いた。

 確かに自分でも、ピーチ系が自分に合うカラーだとは思っていた。母様やお夏にもよく言われる。


 でも、男の人からこう言われたのは初めてだった。


 父様やおじさんたちは、私が何色を身に着けていても似合う可愛い別嬪さんと連呼するだけだ。

 紀之介様のように、女の人の具体的なところへ、適切な距離感で踏み込める男の人は本当に珍しくてすごい。

 何がすごいかって?

 ちゃんとあなた個人をよく見て認識していますよ、って言ってくれているに等しいからだよ。

女としては好きな人からやられると、めちゃくちゃ舞い上がれる。少なくとも私はそうだ。


 紀之介様、絶対モテるんだろうな……。


 今は独身だと福島様が言っていたけれど、やばいかもしれない。

 もし私が知らん女と紀之介様が結婚しちゃったら悪夢だ。

 泣き叫んで、三日くらい寝込む自信がある。

 うううう、考えただけで嫌な気分になってきたぁ……。

 頭を抱えて畳に転がる。最近作らせた抱き枕を抱えて、足をじたばたさせて嫌な気分を発散する。

 紀之介様結婚しちゃ嫌だ……するって話は聞いてないけど……。



「与祢姫様?」



 はっと気づくと、上からお夏が顔を覗き込んできていた。

 涼しい目元が冷めきっている。めちゃくちゃあきれている時の目だ。



「いかがされました、床になんて転がっちゃって」



 お行儀悪いですよ、とおでこを軽く突かれる。

 最近私への態度が佐助みたいになってきたな、お夏。

 さすが親戚ってだけはあって、時々そっくりだ。

 気安くて落ち着くから、これでちょうどいいんだけどさ。

 起き上がるように言われて体を起こす。

 乱れた私の髪を直しながら、お夏は母様が呼んでいるのだと教えてくれた。



「雁金屋に任せていた姫様のお衣装が届いたそうです。

 おたなの番頭が参っているので、試しに着ていただきたいとのことですわ」


「はいはい、まーた着せ替え人形ね」



 三日前にもやったのに、まだやるのか。

 いっぱい着物を試着するのは楽しいけれど、結構疲れるんだよね。

 大げさにため息を吐いて肩をすくめると、お行儀! とお夏がお小言を飛ばしてくる。

 マジで遠慮がなくなってきてるよ、この人ってば。



「じゃあ行きますかー」



 ちょっと伸びをして、お夏を連れて部屋から出る。




 私のいなくなった部屋に、ぬるい残夏の風が吹く。

 風は文机に置いたままの文を、かさりと揺らして抜けていった。







◆◆◆◆◆◆








 読み終えた文を、鼻の先に近づけてみた。

 伐ったばかりひのきによく似た匂いがした。

 ゆったりと胸に収めると、体の内側へすっと馴染む。

 外出もままならない気鬱が、少しばかり晴れていく。

 近頃のあの子は、香選びが上手くなったようだ。

 相手への気配りが行き届き、生来の趣味の良さを漂わせ始めている。

 流麗、とまではまだいかない、あどけなさの残る筆跡を、まだいくらかマシな方の指でなぞる。

 書かれているのは、送り主のあの子の日常だ。

 大坂城の庭に咲いた百日紅や梔子の美しさ。

 いまだ赤子の弟君たちの様子と、その成長への感動。

 あの子が手掛けている、艶やかな化粧道具の数々のこと。

 心の向くままを、そのまま書き出した内容は、いくたび読んでも和やかな気持ちにさせてくれる。

 知らず知らずと、微笑んでしまうほどに。



 俺が、子供をこんなに可愛らしいと思ったのは、初めてのことだ。



 ずっと、子供は苦手だった。

 感情をあらわにしやすく、眼差しは大人より鋭く人を見透かす。

 それが、俺の中の後ろめたさに刺さる時がある。


 だから、本当に苦手だったのに、だ。


 不思議なことに、あの少女──山内の与祢姫だけ、俺は苦手ではない。

 むしろ、とても好もしい存在だと感じている。

 隠す気がちっともない感情を、素直で清しいと捉えられる。

 ころころ変わる表情のあどけなさを、微笑ましいものと受け止められる。

 拙い文面に小さな成長を見つけて、時の流れを楽しめる。

 ずいぶんと懐かれていても、ちっともわずらわしくない。

 自分の変化に驚いてしまうが、悪くはない、と思う。

 ずいぶんと柔らかくなったと、市松殿に言われた。

 うわべだけの笑みが減った、良いことだと。

 思えば、余裕ができたのかもしれない。

 与祢姫の文を読むと、微笑ましさで心が和む。

 書かれている内容は、子供の書くものだから難しくない。

 けれども目新しい話ばかりで、好奇心をそそられて面白い。

 溜め込む気質の俺にとっては、良い気晴らしになっているのだろう。

 文の手習いに付き合ってほしいという幼い希望に応えたのは、良い気まぐれだったと心底思う。

 

 このような状況に置かれても、姫の文ひとつでまだ気を落ち着けるひとときを持てるのだから。

 

 息を吐く。まだ、僅かに熱に浸された息だ。

 煩わしい熱を冷ますために、湯呑を手繰り寄せる。

 口を付けると、控えめな甘さが喉を滑り落ちていく。

 与祢姫に贈られた茶だ。乾かした黒文字くろもじを煮出すと意外にも美味いなんて、ついこの前まで知らなかった。

 相変わらず、あの子は珍しきことを知っている。



「っ……」



 笑った拍子に、口の端が痛んだ。傷がまた、開いたらしい。

 痛みが呼び水となって、口の中の痛みまで意識させてくる。

 ずっとこれだ。笑うどころか、話すことすら億劫になるから嫌気が差す。

 せっかく、鎮まっていたというのにもうこの有様か。


 文箱を開いて、畳んだ文をしまう。

 重なり合う文が、そろそろ文箱の蓋に届こうかというほどだ。

 ずいぶん、送ってくれたものだ。新しい文箱を用意しなくてはな、と考えながら蓋を閉じる。

 丁寧に文机へ戻してから、寝床へ戻る。

 今日はもう、何の予定もない。

 俺にできるような仕事は佐吉殿が運んでくれるが、かなり絞られているのですぐ終わる。

 家中の諸事への指示は、すでに済ませてあるので問題ない。

 与祢姫への文は……痛みが落ち着いたら、書こう。

 指の痛みで字が崩れたら、あの子に勘づかせてしまいかねない。

 聡くて、優しい心の持ち主だ。俺を案じて、探りを入れてくるだろう。

 やけに耳と手が伸びた山内家のことだ。姫の願いを汲んで、俺の現状を突き止めてしまう危険がある。

 今の俺を、与祢姫に知らせるわけにはいかない。



 怖がらせて、しまうから。



 あの子は美しいものを好む。芳しきものを愛でる。

 一年と少し。幾多の言葉を交わしたから、俺は知っている。

 ……病や怪我を、酷く恐れていることも。

 決して俺の病を知らせてはいけない。きっと恐れさせてしまう。怯えさせてしまう。

 それは、俺の本意ではない。

 あの子の心に、醜いものを触れさせたくはない。

 鮮やかな、美しいものにだけ触れて育ってほしい。

 だから、俺は隠す。

 一日でも長く。できれば、最期まで。



 病み崩れつつある俺を、あの子に晒さない。




「……これで、いい」




 痛みを堪えて、呟く。

 胸の奥のひりつく痛みは、知らぬふりをする。




 あの子のためを思うなら、我慢してみせろと、自分に言い聞かせて。

 



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