そして、私の世界は鮮やかに【天正15年7月下旬】/そして、影は滴り落ちてゆく【石田佐吉と福島市松・天正15年7月下旬】
寧々様の御前を辞した頃には、空がうっすらと金朱を帯び始めた。
ひぐらしの啼く声が、どこからか柔らかく流れてくる。日中の暑さが引き始めて、頬を撫でる風がほんのりと涼しい。
心地いい、夏の夕暮れだ。石葺きの階段を降る足取りが、知らず知らず軽くなっていく。
ないまぜになった充足感と高揚感に体が満たされていて、とっても良い気分だ。
「今日はありがとうな、姫さん」
私の斜め後ろを歩く福島様が、穏やかな口調で言った。
くるりと振り向くと、福島様に小突かれた石田様も軽く私に頭を下げてきた。
「……お前に頭を下げるのは癪だが、寧々様の頭痛を取り払ってくれて助かった」
「いえいえ、私がやりたくてしたことですから」
「だとしてもだ」
難しい顔の石田様が、口を尖らせる。
拗ねている、いや、照れている感じかな。この人にしては珍しくはっきりしない表情だ。
福島様がにやりとして、もう一回石田様を小突く。
ギッと福島様を睨んでから、石田様は思いっきり咳払いをした。
「礼を言う! ありがとう、だ!」
なんだその怒鳴るみたいなお礼。
可笑しくって、とうとう私は声を出して笑ってしまった。
福島様も笑っていて、駕籠の側に控えた佐助やお夏たち山内の者たちも顔を背けて震えている。
怒ったみたいに石田様がそっぽを向く。それさえもとっても面白くて、和やかな雰囲気が夕暮れを彩った。
「どういたしましてって言ったらいいですか?」
「子供のくせに偉そうなことを言いおって」
「いいじゃねえかよ、この姫さんなんだしよ」
「ふんっ!」
ああ、本当に面白くて良い人たち。ここに勤めたら、時々これを見られるんだな。
今から、とっっっても楽しみだ。
頬をひくつかせている佐助に促されて、駕籠に乗せてもらう。
扉を閉じる前に、石田様たちにぺこりと頭を下げた。
「お見送りをありがとうございます」
「おう、息災でな。近いうちにまた会おうな」
「ちゃんと寧々様の役に立つよう研鑽しておくんだぞ。
役立たずは羽柴に要らんのだからな」
「石田様、一言多いです。
でもわかってますよ、精進いたします」
別れの挨拶を交わしているのに、ちっとも寂しさみたいなものはない。
不思議なものだけど、悪くないや。もう一度目礼をして、佐助に合図を送る。
佐助の手が扉に掛かって、ゆっくりと閉めようとした。
「あっ、ちょっと待て!」
閉まる寸前、石田様の手が扉を掴んで止めた。
怯んだ佐助を押しのけて、スパンと開かれる。
なになになに!? 怖い怖い怖い!!!
「何するんですか!」
「お前にもう一つ言っておくことがあったのだ、聞け」
文句を言っても石田様は聞く耳なんて持ちやしない。
駕籠の入り口から顔を突っ込んで、じーっと私を見てくる。
「お前、紀之介と文を交わしているのだったな」
「はい?」
「文、交わしているのだろう」
首をかしげる私なんて無視で、石田様が問い質してくる。
なんでこの人が、私と紀之介様の文通を知ってるわけ?
そもそも私と紀之介様の間のことに口出しする権利が石田様には無いよね?
どういうつもりだ。わけがわからん。
怪しむように目を眇めると、むっとした石田様がまぶたを半分落としてきた。
どちらも口を結んで相手の出方をうかがうみたいになる。
「実はだな、紀之介が今───」
「佐吉、近づきすぎだ」
何か言いかけた石田様の襟首を、ごつい手が捕まえて、勢いよく駕籠から剥がす。
福島様はそのまま石田様を後ろに引っ張って、適切な距離まで離してくれた。
助かった。ほっと息を吐いていると、しゃがんだ福島様が駕籠の中を覗いてきた。
「最後までわりぃな、姫さん」
「いえ、福島様もお疲れ様です」
「本当にだよ、近々おれはもらった領地に下るっつーのによ。
これを置いてくのが不安でしかたねーわ」
福島様が大げさに肩をすくめる。
嘘でしょ。領地に行っちゃうのか、福島様。
石田様の暴走を止める人が紀之介様しかいなくなるなんて、ちょっとした悪夢じゃないか。
紀之介様の胃、大丈夫かなあ……。
ここにいない人の心配をして、遠い目になってしまう。
九州から戻られた直後くらいにくださった手紙のお返事、今夜あたり書いてみようかな。
「それはそうとよ、姫さん」
もがく石田様を押さえつけながら、福島様が私と視線を合わせてくる。
「さっきも佐吉が言おうとしてたことなんだがな。
紀之介に文、送ってやってくれねぇ?」
いつでもいいから、と福島様が私に向かって手を合わせた。
紀之介様に手紙を? 言われなくても送るつもりだけど……?
福島様の意図が掴めなくて、返事をしあぐねる。
福島様が、あー、と指先で頬を掻く。説明するための言葉を探しているかのような仕草だ。
「紀之介様、どうかされたんですか?」
「別にどうってこたぁないんだがな。
あいつさ、疲れた時に姫さんからの文を読むと安らぐっつっててよ」
「うそうそうそ! ほんとに!?」
投下された特大の事実に、勢いあまって駕籠から身を乗り出してしまう。
姫らしくないけど構ってられない。私の知らない生の紀之介様情報だ。しかも私に関係する発言だよ。聞いておかなきゃだめでしょ!
突然興奮気味になった私に福島様が唖然としているが、気にせず詳しい話をお願いした。
ちょっと引き気味の福島様いわく、九州で紀之介様は私が送りまくった手紙を、いつも読んでくれていたらしい。
字が上手くなったとか、紙や香の選び方が洒落てきたとか。
綺麗なものが好きらしいとか、贈った筆を喜んでくれてよかったとか。
そんな手紙の感想を、紀之介様は福島様たちによく話していたそうだ。
子供の成長は早くて、見守っていると楽しい。心安らぐものだって言ってね。
ふふっ、かんっっっぜんに娘の手紙にはしゃぐパパさんだ。
わかっちゃいたよ? 私もね、中身はそこそこ恋愛経験あった大人の女だからね。
二十代前半の良識ある成人男性が、一〇歳未満の女児に恋愛感情なんて持つわけないのは、嫌ってほどわかってた。
紀之介様、ロリコンじゃないからな……私が好きになった人だもん……。
そりゃそうだよね……ははっ……帰ったらちょっと泣こう。
でも、でもだ。方向性はどうあれ、紀之介様は私との文通を好ましいものとは思ってくれているらしい。
だから福島様たちは、九州征伐の戦後処理に忙殺されている紀之介様を、私の手紙で元気づけてあげようと考えたそうだ。
「わかりました、では帰ったらすぐ書きます!」
「おう、よろしくな」
もちろんですとも、と胸を叩くと、福島様は嬉しそうに頷いてくれた。
にっと二人で笑い合ってから、控えていた佐助に目配せをする。
夕暮れの色が濃くなってきている。もう帰らないと、日が沈んでしまう。
暗くなってから帰ると、父様が気を揉むのだ。無駄に不安にさせるのは避けたい。
「そんじゃな、今日のことでも文に書いてやってくれ。
あ、寧々様の頭痛のことは内緒な。紀之介も心配するだろうから」
「承知しました。福島様と石田様と楽しくお話ししました、とだけ書いておきますね」
では、と福島様と押さえつけられたままの石田様に会釈をして、今度こそ駕籠の扉を閉める。
佐助が駕籠掻きに出す号令が聞こえる。何とも言えない浮遊感の後に、駕籠がゆっくりと動き出した。
小さな窓を、そろりと開ける。怒られない程度に顔を出して、後ろを振り返ってみた。
暮れなずむ門の側に、福島様と石田様がいる。手を振ってみると、福島様が大きく振り返してくれた。
お姿が見えなくなるまでそうして、小さな満足とともに窓を閉め直した。
今日は、なんだかんだで良い日だった。
敷かれた柔らかい布団に体を預けて、一日を振り返る。
帰ったらすぐ父様と話さなきゃならないことが多いけど、疲れはないからたぶん寝落ちず済ませられそう。
明日は都の母様と丿貫おじさんにも報告の手紙を書いて、堺の与四郎おじさんにはアポを取らなきゃ。
城奥へ持ち込むメイクグッズを新調する準備も、令和式コスメの供給システムを整える必要もある。
やることいっぱいで忙しくなりそう! うきうきしてくる!
ああ、そうそう。
寝る前に少しだけ、紀之介様の手紙に書くことの整理もしておかないとだ。
なにせ、今回は書かなきゃならない話題がたくさんある。
きちんと話を整理しておかないと、文章がきっととっちらかっちゃうよ。
せっかくの嬉しい御指名なのだ。ちゃんと読みごたえのある、楽しい手紙を書きたい。気合いを入れなきゃね。
紀之介様、お忙しいなら疲れてもいるだろうな。リラックス効果のあるハーブティーも一緒に贈ろう。
紙は緑がかった料紙にして、墨は少し薄めにしてみよう。目に優しい方が、読みやすいに違いないもんね。
香りは最近蒸留所で採れたヒバの精油にしようかな。爽やかなウッド系アロマは、ちょっとした森林浴気分を味わえて癒される。
夜とかに読んで、リラックスしてもらえる手紙ってコンセプトでいってみよっかな!
紀之介様のためを思うだけで、考えるすべてがとっても楽しい。
恋って素敵だ。片想いでも、こんなにも心が華やぐ。
ふわふわと弾む胸を押さえて、ほんのり火照った吐息を零す。
早く帰って、手紙を書きたい。
────私の大好きな、あの人のために。
◆◆◆◆◆◆◆◆
小さな姫君を乗せた女駕籠が、遠ざかっていく。
並んで見送っていた男二人──佐吉と市松は、どちらともなく道を引き返し始めた。
「何故、某を止めた」
会話もなく歩くこと、しばらく。ふいに佐吉が、唸るように呟いた。
視線は一つも市松にくれない。まっすぐ前だけを見て、細い眉をひそめている。
「紀之介のためだよ」
肩を並べる市松も、佐吉に目をくれず返す。
「あいつは、あの山内の姫さんをずいぶん可愛がってるんだぞ?」
「だが」
佐吉が言い募ろうとして、止めた。
横から落とされた市松の視線の鋭さに、止めさせられた。
「佐吉よぉ、お前は紀之介を傷つけたいのかよ」
「そんなわけあるかっ」
ほとんど反射的に、佐吉は頭二つ分以上高い市松に掴みかかる。
吊り上がったまなじりが、市松に向けられる。佐吉にしては珍しく、感情を隠しもしていない。
まだ、この男はそういう顔をできるらしい。少し安堵しつつ、市松は佐吉の襟を掴み返した。
「だったら黙ってろ、姫さんに余計なことを知らせるな」
「あの娘は、美しきものや芳しきものを好むのだぞ!?
城奥に上がって今の紀之介を知れば、一体どのような態度を取るかわからぬっ。
早々に教えて、静かに離れさせるべきだろうが!」
「だからだよ! いずれ離れていく! 紀之介を恐れてな!
だったら、あとわずかでもいいっ。素敵な紀之介様と思わせておけ!
今のままでいさせてやれよ!!」
二人は怒鳴り合って、息を切らす。
昔から、口喧嘩は何度も繰り返している。
能力も、性格も正反対くせに歳は近い二人だ。
どちらも紀之介ほど人当たりが良い性質ではないし、虎之助のようにさばけてもいない。
すぐぶつかって、言い争うことには馴れていた。そうしながら互いを把握し合ってきた。
でも今日は、違う。平行線を辿ってしまう。酷く、互いに疲れ果ていく。
「……痛みを先送りにするのは、酷ではないか」
どさりと石段に腰を下ろして、佐吉が言う。
「……痛みへの覚悟を決めるまでくらい、待ったっていいだろ」
隣に座り込んだ市松が、言い返す。
睨み合えるほどの気力は、とっくにどちらも失っている。
「なんで、こんなんなっちまったんだろーな」
「知るか、馬鹿松」
宵闇に溶けるように交わす声は、暗い。
二人の弟分であり、友である男ににとって、何が正解なのか。
どれだけ考えても、佐吉たちは答えを見つけられそうになかった。
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