人に仕えることの意味(6)【天正15年7月下旬】

 長くて深い吐息が、北政所様、いや、寧々様のほんのり赤い唇から溢れ落ちた。

 延べられた褥にあった白い手が、よろりと持ち上がる。目元を覆う手拭いを取ろうとするから、私はやんわりそれを止めた。



「まだ取っちゃダメです」


「そうなの? だいぶ痛みはマシなのだけれど」


「だいぶ程度で無理したら、すぐにぶり返しますよ」



 頭痛は油断すると余計酷い目に遭わされるものだ。用心に越したことはない。

 捕まえた手を下ろさせる。褥の上に置いて握ると、寧々様は諦めたように脱力した。

 ついでに私は、その手にハンドクリームを塗りつけてマッサージを施した。また動かしちゃわないようにね。

 あーあ。手のひら、かちかちじゃん。筆の持ちすぎだよ。どれだけ政務に励まれていたんだか。

 指の股を開いて、指を揉みほぐして。手のひらを包んだり、押し広げたりする。

 さっきよりも呼吸がリラックスしてくる。ちょっとは落ち着いてきてくれたかな。



「市松と佐吉は、まだそこにいる?」



 反対の手にもマッサージをしていると、思い出したように寧々様が訊ねてきた。

 部屋の端っこに視線を送る。並んで座る福島様と石田様が、私の方を窺ってきた。

 さっき言い合いをしていた二人にきつめの注意をしたから、気にしてくれているらしい。

 小さく頷いて見せると、二人はほっとした顔になる。

 障子が震えるようなレベルの大声を出さないなら、おしゃべりくらい大丈夫だよ。



「ここにおります」


「お加減は、いかがですか」



 おずおずと口を開く福島様たちに、寧々様はくすくすと控えめに笑う。



「よくなってきていると思うわ、さきほどはふたりともありがとうね」



 助かった、と囁くように寧々様はお礼を口にした。

 無理をしている気配は無い。本当によくなってきている様子だ。

 わずかに残っていた室内の緊張が、ようやく緩んで溶けていく。

 よかった。ただの頭痛だったみたいで。

 嬉しそうに寧々様に話しかける大人二人を眺めながら、私も肩の力を抜いた。




 今から一刻約二時間ほど前のことだ。

 石田様の提案で城表に行ったら、青い顔をした寧々様を見つけた。

 脇息にもたれて、辛そうに目を閉じている姿に、私も石田様や福島様もゾッとした。

 あきらかに普通じゃなかったんだ。声を出すのだって辛そうで、息がとても浅かった。

 しかも体を起こそうとして、崩れ落ちかけまでした。

 慌てて駆け寄ってきた福島様が抱えおこしてくれたけど、寧々様はぐったり。

 どうしたのかと石田様や私が訊ねても、力無く「大事ないわ」とか言うもんだからさ。

 もうね、後は嵐のような大騒ぎだよ。

 石田様は「大事ないわけない!」って叫んで、転びながら部屋を飛び出すし。

 福島様はおろおろ涙を流して、「かかさま死んじゃ嫌だ」とか縁起でもないことを言い出すし。

 ほんっっっとうに大変だった。

 立派な大人のパニックを前に、一周回って私の方が冷静になっちゃったよ。


 泣き出す福島様を宥めながら、寧々様に何が起きたか質問を重ねた。

 しばらくして、頭が痛むと苦しげに告げられた。

 頭が内側から押されるというか、締め付けられてるみたいに痛むんだって。

 心臓が痛いくらい脈打ったね。脳腫瘍とかだったら、冗談抜きでヤバイ。

 なんにせよ動かさない方がいいからと、福島様に訴えて寧々様を横にしてもらった。

 そうしているうちに石田様が孝蔵主さんを連れてきて、孝蔵主さんまで悲鳴を上げた。

 だめだめだよ、この城の大人ぁ!


 なんとか孝蔵主さんもなだめて、今日の寧々様に異変がなかったか聞き出す作業も私がやった。

 福島様よりは早く立ち直った孝蔵主様によると、寧々様はここ三日ほどよく寝てないそうだった。

 お仕事が多かったらしい。秀吉様が朝廷の仕事で都に行かれているので、城代としてのお勤めがある。

 そこに同時並行で、中国地方や九州の大名が送ってきた妻子ひとじちの世話があって忙しかった。

 今日は特に多忙を極めていたそうだ。

 秀吉様の代理で各所へ指示を出すための手紙を書いたり。

 登城した大名の妻子ひとじちと面談したり。

 早朝からご飯もろくに食べられないほどだったらしい。

 完璧な寝不足とオーバーワークだね。ということは、疲労からくる頭痛かなあ。

 石田様の引っ張ってきたお医者さんにもその旨を伝えると、やっぱり寝不足由来の頭痛という診断が下った。

 お医者さんの指示で、私たちはすぐに涼しくて静かな部屋に寧々様を移した。

 敷いた褥に寝かせて、薬湯を飲んでもらったけれど、具合はあんまり良くならなかった。

 

 天正の世には即効性の頭痛薬なんてないもんな。

 これはちょっと辛そうだから、どうにか楽にしてあげられないか考えた。

 寝不足と疲れが原因の頭痛は、だいたい緊張性頭痛なんだっけ。

 首や肩、頭周りの筋肉の緊張から、血行が悪くなってしまって起きるやつだ。

 ずきんずきんと痛むのではなく、頭が締まる感じの痛み方だと寧々様は言っていた。

 肩の凝りも酷いそうだから、偏頭痛という線は薄い。

 緊張性頭痛だったら、温めてマッサージするといいはずだったな。

 思いついてすぐ、孝蔵主さんに濡らした手拭いを蒸してもらえるようお願いをした。

 寧々様の痛みを少しお楽にできるかもって伝えると、孝蔵主さんは目を潤ませて飛んで行った。


 蒸し手拭いを待つ間、私は頭痛封じのツボ押しをさせていただいた。

 寧々様にうつ伏せになってもらって、まずは頭から。頭頂の、両耳と鼻の延長線が交わるポイントを、体の中心に向かって垂直に押す。

 次にうなじの生え際に沿ってあるツボをゆっくりと揉みほぐして、首と肩先の中間地点もじっくりほぐす。

 そうすると頭皮や肩の凝りがほぐれて、血流が良くなるのだ。

 合間に喧嘩を始めた石田様と福島様に、「黙らなければここから追い出す」と注意もした。

 寧々様の頭痛の責任の在り処を探したって、寧々様の痛みは取れないんだってば。黙れよ、男子。


 二人が静かになったところで、仰向けになっていただいた。

 控えの間に遣いをやって持ってこさせた椿油で、クレンジングついでに眼精疲労マッサージを施す。

 これはいつもやっているフェイスマッサージに近いので、私も手慣れたものだ。

 しんどい時はメイクを落とすと、気分的にスッとするんだよね。

 ちょうどいいからやってみたんだけど、寧々様にも有効だったようだ。

 だいぶ寧々様の呼吸が、少しずつ深く変わっていく。

 そのタイミングで、孝蔵主さんが蒸した手拭いをたくさん持ってきてくれた。

 クレンジングの椿油を落として保湿した後に、温かな手拭いを目元と首元にあてて差し上げる。

 眼精疲労と緊張性頭痛には、これがよく効くのだ。

 某アイマスク型のアレと、首に貼るタイプのカイロには、令和で世話になったものです。

 保温性を考えたら、小豆とかそういう穀類を使った湯たんぽ的な物がいいんだけどなあ。

 今後必要とあれば、作ってみてもいいかもしれない。

 なんてことを考えつつ、おまけで持ってきていた和ハッカとプチグレインの精油をブレンドした。

 どちらも頭痛に効く精油だ。香りでリラックスしてもらえればと願って、水盆に張ったお湯に垂らして枕元に置いたのだった。


 そうして、寧々様をお側で見守ることしばらく。

 やっと今、私のしたあれこれが、頭痛もろもろに効いてきたらしい。

 元気になってきた寧々様と石田様たちの会話を聞き流しながら、ほっと胸を撫で下ろす。

 どうなることかと思ったけれど、楽にして差し上げられてよかった。



「お与祢」



 寧々様が私の手を握って、名前を呼ぶ。

 目元を手拭いで覆ったままだけれど、口元がやんわり笑みを作っていた。



「貴女もありがとう、色々としてくれたおかげでずいぶん楽になったわ」


「……本当にですか?」


「ええ、とっても頭がすっきりしてる」



 そういう声は少しまだ、弱々しい。

 当たり前か。簡単に寝不足やオーバーワークの疲れが取れるはずもない。



「こういう頭痛、よくあるんですか?」



 冷めた蒸し手拭いを取り替えながら、お聞きする。

 寧々様は苦笑いして、首を縦に振った。



「最近はね。忙しいと眠れないし、食事も億劫になるから困ったものよね」


「だめですよ、それ。無理のしすぎで体がおかしくなってきてますよ」


「そうなのかしら」


「そうです。お仕事の量を調整してくださいませ」



 無理をし続けたら、頭痛じゃすまないことにもなりかねないよ。

 天下人の御正室が過労死とか、笑えないって。

 握られた手を握り返す。労わるように撫でながら、寧々様に言い聞かせるように話す。



「ちゃんと寝て、食べて、休んでください。

 せっかく寧々様は近ごろとっても綺麗におなりなのに、

 お健やかじゃないともったいないですよ」



 ねえ、と石田様たちに同意を求める。

 目が合った。石田様も福島様も、真剣な顔で肯定するように頷いた。



「不本意ですが、山内の姫の言うとおりです。

 寧々様がお倒れになったら、殿下も我らも困ります……あと、悲しい、です」


「お健やかな寧々様がいいですっ。ずっと健やかでいてください!」


「貴方たちったら、まあ」



 寧々様の声が、わずかに揺れる。戸惑い半分、嬉しさ半分って感じかな。

 小さな頃から半ば息子のように育てた二人の言葉は、結構効いているようだ。

 私も便乗しておこうと思って、寧々様の耳元に口を寄せる。



「お二人だってこう仰ってます。無理はぜーったいだめですからねっ」


「……」


「お返事をお願いしまーす」



 催促すると、寧々様の唇の端っこがむにゅむにゅと震えた。

 やがて綺麗な三日月から、軽やかな笑い声が溢れてくる。

 目元の手拭いを押さえながら、初めて会った時のように思いっきり寧々様は笑った。



「ふっ、ふふふっ、わかったわ。お与祢の言うとおりにするわね」


「よろしゅうございます。早くお健やかになってくださいね」



 つられて私も、笑い声を重ねる。

 すっかり、いつもの寧々様だ。それがとても嬉しい。

 寧々様は、こうでなくっちゃ。明るいお顔が良く似合う。

 さっきみたいな苦しげなお顔や、この前みたいなつらそうなお顔は、あんまり見たくない。

 一緒に笑ってくれて、生き生きと楽しく過ごしていてくださるのが一番だ。


 そんな想いの宿った胸に、私は手を置く。

 微かな鼓動が穏やかに手のひらに伝わる。暖かい。すがすがしい心持ちだ。


 うん、そっか。やっと、ちゃんと理解できた。




 この人を支えたい、笑顔でいてほしい。

 それが、私の中の、幸せのひとつ。




 この気持ちが、誰かにお仕えしたいって気持ちなんだ。



「お与祢、どうしたの?」



 手拭いを外した寧々様が、小首を傾げている。

 覗き込んでくる瞳がきらきらとして綺麗だ。



「決めました」


「何を?」


「私、やります」



 寧々様の瞳に映る私と、向かい合う。

 そして私は、寧々様にとびっきりの微笑みを差し上げた。






「寧々様の御化粧係の御役目───つつしんでお受けいたします!」

 





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