人に仕えることの意味(5)【天正15年7月下旬】
止めていた息を、そっと吐いて、吸う。
肩に留めていた力が、ゆるやかに抜けていく。
音調を変え始めた蝉しぐれが、さらさらと耳を撫でる。
そうか、と納得した。
私は、難しく考えすぎていたんだ。簡単ではないけれど、単純な話だったんだ。
相手のために何かしてあげたい。そう思えることが、人に仕えたいという気持ちの根っこなんだ。
「……そういうこと、なんですね」
「少なくとも、おれにはな」
姫さんにはどうかわからんが、と福島様が言う。
たしかにそうだが、充分だ。答えにぐっと近づけた。不安がらずに、まずは北政所様にお会いしてみよう。彼女に私が何か思えるか、どうか。見極めてみようって、今は思えている。
福島様に話を聞けてよかった。心の底から感謝が湧いてくる。
私の悩みが私だけのものじゃなくて、悩みの先に辿り着いた人がいる。その事実が、不安や孤独感のようなものを吹き飛ばしてくれる。
私もがんばってみようかなって、気持ちが湧いてくる。それがとても、ありがたかった。
「おい、山内の姫」
感じ入っている私の意識を、無遠慮に石田様が引っ張り戻す。
珍しく静かにしてたと思ったらこれだよ。もうちょっと福島様の良い話の余韻に浸らせてくれてもいいんじゃない?
「市松の話で、お前のうじうじしたつまらんためらいは解決したのだな?」
「解決しそうでは、ありますけれど」
「よし、ならばすぐに寧々様にお会いしてこい」
「いやいやいや急には無理ですって!」
こいつ何言い出すの。むちゃくちゃ言わないでよ。
私の心の準備とか、北政所様への気持ちの確認とか、まだぜんっっぜんできてないんだよ。
いますぐ言っても返事なんてできるわけあるか。
それに石田様は、北政所様が城表にお出まし中って聞いてなかったの?
仕事してる真っ最中に突撃するのは、控えめに言わなくても迷惑だろ。
一応どころかれっきとした重臣クラスのくせして、マナー違反を勧めてくるとかどうかと思うよ。
石田様って空気が読めなくて変だけど、非常識ではないと信じてたのに!
……しかたない、福島様に叩いてでも止めてもらうしかないか。
ため息まじりに救いを求めて視線を送ると、福島様はちょっと考えるように顎へ手を添えた。
「いーかもしんねぇな」
「へ? 福島様?」
「佐吉の言うとおりにすんのも、ありじゃねぇかって思うぜ」
福島様がにっと笑う。
うっっっそぉ!? そこで乗る!?!?
「ちょ、福島様まで何言い出すんですかっ」
「普段の寧々様のご様子を知れば、見えてくるものがあるかも知れんだろ?」
おっしゃることも理解できるが、別に今でなくてもいいのではないだろうか。
お行儀よく北政所様のお帰りを待って、お戻りになってお会いするのでもいいんじゃないかな。うん、絶対そっちの方がいい。
わざわざ城表まで私が出張るのはルール違反だろうし、北政所様のお邪魔になっちゃう可能性だってあるしね。
そう主張する私に、石田様と福島様は顔を見合わせた。
「某と市松が付き添えば問題あるまい、なぁ?」
「そーだな、おれらなら寧々様も大目に見てくれるだろ」
なんでここで息が合う、この人たち。
唖然とする私を放置して、二人は一気に外堀を埋めにかかってきた。
福島様がうろたえる佐助とお夏を言いくるめ、石田様が控えていた侍女に命じて城表に連絡させる。
あっという間に城表行きの段取りができ上がる。すごくスムーズな動きだ。
さすが二人とも、仕事ができる男っぽい。秀吉様に見込まれただけはあるなー。
なんて、一瞬だけ現実逃避していたら、体が急に持ち上げられた。
一気に視界が高くなる。透彫の綺麗な欄間と、福島様のお顔がめちゃくちゃ近い。
急な抱っこにびっくりしすぎて声が出ない。
「よし、行くぞ!」
石田様が控えの間からせかせかした足取りで出ていく。
福島様がその後ろに続いて歩き出す。
体がぐらりと揺れる。想定外の速度に、私は慌てて福島様の肩衣にしがみついた。
走ってないのに早っ! 早足どころの騒ぎじゃない。もうほとんど競歩じゃん。
しかも福島様、子供の扱いに慣れてないのかな?
歩き方に気遣いがない。早い上に揺れまくる。落っこちないかとひやひやだ。
「ふ、福島様っ、はや、はやいです!」
耐えきれなくなって叫ぶ。でも福島様は止まらない。
すたすた進む石田様に合わせてどんどん廊下を進んでいく。
話を聞いてくれ。ビビりながら肩を叩くと、ちらっと視線だけ向けられた。
半泣きの目で訴えかけると、きょとんとされた。
「ゆっくり歩いてくださいっ、怖いですっ」
「え、怖いのか?」
「揺れすぎて落ちちゃいそうだからっ」
舌を噛みそうになりながら訴える。
ようやくちょっとわかってくれたのか、困ったように福島様が先を行く石田様に声を掛けた。
「佐吉ー、姫さんよ、早いってよー」
「
「私は兵じゃないんですけどぉぉぉ!」
私は姫だぞ。屋敷の中でお淑やかにゆったり過ごす人種だぞ。
戦場や政務に駆けずり回る石田様たちと一緒にしないでほしいんですが。
小袖も肩衣も真っ黒な背中を睨みつける。ちらりと振り返った石田様が、面倒くさそうに鼻を鳴らした。
「兵の娘なんだから同じようなものだ」
暴論だ。暴論が過ぎる。
そんなわけあるかい。姫教育に軍事はないんだぞ。最低限は丁寧に扱ってくれ。
無情な背中に訴えかけるけれど、もう石田様は振り向いてくれなかった。完全無視モードだ。
この傍若無人男め!! 今度手紙で紀之介様に言いつけてやるぅぅぅぅ!!!
「ううう、福島様ぁぁぁっ」
「あとちょっとだから我慢な?」
ちょっとってどのくらいですか!?
常識的な人だと信じていたのに、裏切られた気分だ。涙が出てきたわ。
「ほんとにすぐ着くから泣くなよー」
福島様が背中へ手を添えてくれる。
ぽんぽんなだめるように軽く叩かれるけど、ちっとも安心できない。
気遣ってくれるなら、石田様の行動を止めてからにしてくれ。
「佐吉もよぉ、あいつなりに姫さんのためを思ってるんだぜ?」
「まっっったくそう思えないんですがっ……」
「わかりにくい奴だからそうだよなあ、他人の心情を逆撫ですんのも得意だし」
福島様がぼやくように言う。わかっているなら何故止めてくれない。
恨めしい気持ちを込めて見つめると、申し訳なさそうに片頬だけの苦笑いを向けられた。
「あいつは悩む前にやっちまえって言いたいんだよ。
やってみたら存外あっさりできる、わかっちまうなんてこともあるからな」
「……たしかに」
言われてみれば、一理ある。
新しいことへ踏み出す時って、悩みやすいんだよね。
新しいメイクテクやコスメを初めて試す時みたいなものだ。
上手くできるのか、この色は濃すぎないか、ミスったらやり直すのが大変では。
リスクとか色々良くないものが頭をよぎりまくって、なかなかチャレンジできずずるずる、なんて事態は昔よくあった。
でもね、思い切ってやってみたら、案外綺麗に仕上がったりするんだよ。思ったのと違っても上手く軌道修正できちゃったりなんてことも多い。
何とでもなっちゃうんだから、考える前にやってみるってのは有効なのだ。
「姫さんは賢いみたいだからな、あいつも自分とおんなじなんでよくわかるんだろ」
「石田様と一緒にしないでくれます!?」
確かに私は頭で先に考えすぎるタチだけどさ、石田様よりずっとコミュ力は持ってるよ。
てか、石田様みたいに考えたままを口に出す人間にわかられてたまるか。
ちょっと怒ってみせる私に、福島様が可笑しそうに笑い声を上げる。
「ま、いつもと違う寧々様を見る良い機会だ、くらいに思っときゃいいさ」
すぐ是と言えなくてもいいと、福島様は笑う。
本当に良いのかな。不安になってきた。
「寧々様はおおらかな人だから大事ねぇよ。
にっこり笑って、いらっしゃいって言ってくれるさ」
「だと、良いのですが」
「おれが請け負ってやるから安心しな」
「お前らごちゃごちゃうるさいぞ!」
石田様が立ち止まって、こちらに大声で文句を言ってくる。
その姿は私たちより結構離れた場所、中庭を挟んで向かいの廊下にあった。
周りを見回してみる。いつの間にか、雰囲気が変わっていた。
並ぶ部屋に嵌められた襖は、鈍い金色と黒を組み合わせた豪奢なもの。
ちらほら廊下や部屋に見える人々には女性が少なくて、ほぼ男性ばかり。
庭も枯山水みたいな、落ち着いた造りに変わっている。
ここが城表。私が知っている大坂城とは、違う大坂城なんだと一目でわかった。
「こちらに寧々様がいらっしゃる」
追いついた福島様の腕から降ろされた私に、石田様が言う。
心臓が跳ねる。緊張で口はからからなのに、喉が鳴る。
石田様が近づいてきて、身繕いをする私と目を合わせてきた。
「言っておきたいことがある」
「な、なんですか」
「……城奥に暮らす寧々様のお側に、某たちはいつもおれん」
石田様の細い眉が、少しだけ下がる。
口惜しそうな、申し訳なさそうな風情が、お顔に漂う。
「あの方のお心を安んじられる者が、城奥には少ない」
肩をとんと軽く叩かれる。何か頼もうとしているような気がした。
意図を探ろうと石田様と福島様の顔を見比べる。
複雑な色を混ぜ合わせたかのような表情が、二つ。私に向けられていた。
わずかな沈黙が漂う。息苦しくなってきて、戸惑いながらも私が口を開きかける。
「さ! 寧々様にお会いするか!」
遮るように、石田様が声を張った。
ぴたりと閉じられた障子戸の前に誘導されて、座るように指示される。
何か言いたいけれど、言える雰囲気じゃない。しかたなく、並んで膝を突いた石田様と福島様の後ろに正座をする。
それをちらりと首を巡らせて確かめると、石田様が室内へ声をかけた。
「寧々様、佐吉と市松でございます」
返事はない。石田様が、もう一度声をかける。
「寧々様、山内の姫をお連れしました。
入ってもよろしいでしょうか?」
それでも、返事はない。
お留守なのだろうか。あまりに静かすぎる。
もしかして、すれ違いで奥に戻っちゃったりしてない?
不安から意識を逸らすため、石田様たちの背中を穴が開くほど見つめる。
ややあって、福島様の手が、障子戸の取手に伸びた。
「入りますよ、寧々様」
言うと同時に、福島様が戸を引く。
するりと滑りよく開いた戸の向こうに、あまり広くない座敷が見えた。
北政所様は、その奥にいらっしゃった。
脇息に肘を突いて、腕を立てて手のひらに額を預けている。
座った膝周りに、書状を何通も散らばらせているのは、読んでいる最中だったからだろうか。
でも、膝の上の書状に触れる反対の手は少しも動いていない。
「北政所様?」
呼んでみても、返事はない。眠っていらっしゃるのかな。
石田様たちを窺う。険しい顔の福島様に、背中を押された。
行けってこと? 男性は不用意に女性に近づいちゃダメだからかな。
意を決して、私はそろそろと北政所様に近づいた。
書状を破らないように避けて、すぐお側に座る。
そうしてもう一度、声をかけた。
「お与祢……?」
掠れた声が、私を呼び返した。
脇息に突いた腕が、少し動く。手が額から、そっと外される。
苦しげに顰められた眉の下。苦しげに結ばれたまぶたが震えながら、開く。
「北のま……寧々様っ!?」
現れたぼんやりとした瞳に映る私は、北政所様と同じくらい色を失っていた。
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