人に仕えることの意味(4)【天正15年7月下旬】
お茶に口を付けてから、福島様が口を開いた。
「おれんちってよ、元は桶屋だったんだよな」
「おけって、台所とかに置いてある桶ですか?」
「そー、その桶。うちは親父が味噌とか酒とか入れる桶を作ってて、それ売って食ってたんだわ」
福島様のご実家は、ごく普通の庶民だったそうだ。
お父様が桶職人さんで、お母様が自宅店舗の店番兼主婦。近くの村に住んでいた者同士、ご縁があって結婚した。
夫婦仲はおおむね良好。肝っ玉系の明るいお母様が、時々お父様のお尻を蹴り上げる。そういう絵に描いたようなかかあ天下というやつだそうだ。
そんな二人の間に生まれた子供は四人。お姉さん二人に福島様、それから末っ子の弟さん一人の、天正基準で多くも少なくもない構成だ。
兄弟仲も悪くない。小さいころは、姉二人に弟二人が振り回されるような感じだったらしい。よく聞く姉弟の力学が働いてたんだね……お疲れさま……。
福島家はそんな、ありきたりで賑やかな庶民さんご一家だった。
だが、一つだけ、特殊すぎるものを持っていた。
それは、親戚。
お母様のお姉さん、つまり福島様の伯母さんが、秀吉様の生母たる大政所様だったのだ。
つまり、福島様は秀吉様の歳の離れた従兄弟ってことになる。かなり近い親戚だから、小さいころから秀吉様と会う機会がそこそこあったそうだ。
「ちっさい頃は殿下のことを藤吉郎のおっちゃんって呼んでてさ、
うちに来る時はいっつも美味い土産とおもしれぇ話を持ってきてくれたんだぜ。
気が良くてひょうげたおっちゃんで、鼻垂れのおれや弟にもあれこれ構ってくれてさ、
遊びに来てくれるのが待ち遠しかったなあ」
福島様の瞳が、どこか遠くを見るように細められる。
本当に良い思い出なんだろうな。声にも、表情にも、懐かしさが滲んでいる。
「おれが物心付いた頃には、おっちゃんはもう先右府様の御家来でな。
ご自分の参加した戦や調略、出会った武将とかの話もいっぱいしてくれたんだ。
だから、おれもすっかり憧れちまってよ」
こうなった、と福島様が両手を広げて、おかしげに笑う。
なるほど。秀吉様の影響で、桶職人ではなくて武士になりたくなったってことね。
そりゃそうか。令和の男の子は特撮ヒーローに憧れる。それと同じように、戦国時代の男の子は武士に憧れるのだ。
幼い福島様もその路線に乗っかって、弟と一緒になって毎日戦ごっこをして遊ぶようになった。
これにお母様は、渋い顔だったらしい。桶屋の子に武士は無理でしょっておっしゃっていたそうだ。
今の世は自由なようで身分の縛りを受けやすい。武家の子は武士、農家の子は農民になるのがスタンダード。
それぞれの職に就くには、小さい頃からしっかり親から職に必要なノウハウを学ばなければならない。今は家庭教育がすべてのモノを言う時代なのだ。
要はね、他の身分から正規の武士になりたかったら、武士になるためのノウハウがあるお家の子じゃないと、ちょっときついってこと。
秀吉様だって、それに倣って出世なさった。
下層農民から成り上がった例外、と令和では言われていたから不思議でしょ?
でも実は、厳密に言うと違うらしい。
秀吉様の実家である木下家は、数代前ほど遡ると近江だかそのへんの武家だったそうだ。
ちょうどうちの佐助の実家みたいな、没落して帰農した武家ってことね。
なのに秀吉様が農民と言いまくられる事情は、家系が帰農してから代を重ねすぎたところにあるみたいだ。
で、話に戻るが、福島様のお家はというと由緒正しい桶屋である。
苗字なんて持っていないレベルの庶民オブ庶民。武家のノウハウを知るわけがない、庶民ど真ん中だった。
これじゃ、武士になるにはなかなかにきつい。お母様が無理と判断するのも納得の事情である。
けど、当時の福島様はまだ子供。世の中の無情なルールはまだ知らない。
いたいけな一過性の憧れを、ぶち壊すのはちょっとかわいそうだとご両親は思ったようだ。
だから今しばらくはと大目に見られて、福島様はガキ大将として戦ごっこに明け暮れて、のびのびすくすく成長。
そして、福島様が八歳のある日───運命が、変わった。
福島様の戦ごっこを、たまたま遊びに来た秀吉様が見かけたのだ。
遊んで帰ってきたら、秀吉様が福島様のご両親に土下座していたそうだ。
市松を自分にくれ、と懇願しながら。
戦ごっこをする福島様に、見出すものがあった。是非とも自分のもとで、武士に育てたい。大事にするから、後生だから。
そう言って、秀吉様はご両親を必死で口説いていたのだという。
もちろん秀吉様は福島様にも熱烈に誘いかけた。
武士にならんかと。お前を自分の小姓にして、ゆくゆくは腹心にしたい、と。
「八歳って、今の私と同じだ……」
「だな、それで俺も迷っちまったんだ」
にやりと唇を歪める福島様に、私は目を見開く。
迷った? どういうこと?
武士になりたかった福島様には、絶好のお誘いなのに?
「福島様は、武士になりたかったんですよね?」
「それでもさ。姫さんとおんなじように、迷ったんだよ」
膝に置いた腕で頬杖を突いて、おかしげに福島様は私を見る。
「人に仕えるってことが、わからんかったからな」
庶民と言っても自店舗を持つ職人の子だったから、福島様も人に仕えることと縁遠かったそうだ。
それで、わからなかった。ただ働くこととは違うことはわかるが、何かがきっと違うと思った。
だから福島様は立ちすくんだ。武士になれるチャンスを前にしたのに、躊躇ってしまったのだ。
……本当に、私とほぼ同じだ。
福島様が親身になってくれる理由が、すとんと私の中に落ちてくる。私の後ろにかつての自分を見ているんだ。きつい眼差しを、ぎこちなくても優しくしてくれるのか。
「八つにもなればさ、そこそこ世の中ってもんがわかってくるだろ?
親の心情だってよ、薄々でも感じちまう。
そんでよ、やっぱおれもおっちゃんに返事は待ってくれって頼んだんだ」
秀吉様はじっくり考えろと頷いてくれたそうだ。
おのが行く末のことだから、存分に考えてくれって。そう言ってくれた。
「そんで、おれも馬鹿なりにたりねぇ知恵を絞って考えたわけだ。
でもわかんなくてよ、親父にたずねたんだよ。
人に仕えるってなんだ。どういうことが人に仕えるってことだってな」
「お父様は、なんと?」
私の問いに、福島様は当時を見つめるような目をして答えた。
「おっちゃんをどう思うんだって、逆に訊かれた。
おれに付いていきてぇって思わしてくれんのか、あのおっちゃんはってさ」
「それって」
「伊右衛門殿が姫さんに言ったのとまんまおんなじだな」
親父ってのはみんなそう言うもんなのかね、と福島様がくつくつ喉を鳴らす。
「もうさ、このへんからおれは考えんのを止めた。わけわかんねぇって」
「では、その、どうされたのですか」
「聞いて笑わんでくれよ? とりあえずしばらくおっちゃんに付きまとった」
「え?」
なんだそれ。つきまとったって、ええ?
秀吉様のお側に付いて回ったってことだよね。なんでそんなことをしたんだろう。
「ずっとおっちゃんを見てたらなんかわかってくんじゃねぇか、って思ったんだよ」
馬鹿だろ? とでも言うように福島様が苦笑いを浮かべた。
ああ、なるほど。観察してみようって思ったのか。馬鹿どころか的確な判断だよ。
わからないものは直接見て調べるに限るもの。それを子供のころに誰にも教えられず自分で考えて実行できたんだから、福島様の勘はそうとう冴えている。
そうして八歳の福島様は、秀吉様の観察を始めた。
ご両親を説得して、岐阜に戻る秀吉様について行ったそうだ。道中でも岐阜でも、起きている間、一緒に行ける範囲では、できるかぎり秀吉様を目で追ったらしい。
見られすぎて穴が開く、と秀吉様に笑われるくらいに、ずっと。
「半月くらいおっちゃんを眺めたかな。
そんな時によ、おっちゃんが同輩に突っかかられてるとこに居合わせたんだ」
その日、秀吉様は担当している道路工事の現場に福島様を連れ出していた。
工事の監督も武士の仕事なんだぞ、と教えるための見学ツアーだったようだ。他にも色々行ったらしいが、福島様には楽しい経験だったそうだ。
この時もそうだった。秀吉様が作業員さんたちに指示を出したり、雑談して笑いあったりするのを、福島様はじっと見ていた。
自然と人が周りに集まる秀吉様を、すごいなと思って眺めていたら、工事現場の側を数人の武士が通った。
登城する道中だったのかもしれない。彼らは糊の利いた綺麗な着物を着て、高そうな刀を腰に佩いていた。
これも武士か、と福島様が見ていたら、彼らが歩みを止めた。そして、作業員さんたちと話し込む秀吉様を見て言った。
泥まみれのネズミがおるわ、精が出るな、と。
聞いた瞬間、福島様はカッとなった。彼らの発言はとんでもない正面切った侮辱だ。それも刃傷沙汰に発展してもいいレベルのことを、気の良いおじさんである秀吉様に言われた。
気の短い福島様は我慢ならず、武士たちに問い質そうと口を開いた。
「なのにさ、おれはおっちゃんに止められちまった」
「殿下はお怒りでなかったのですか?」
「わかんねーな。何も言わんかったし。
そんでおっちゃんはよ、そいつらににこにこ笑いかけたんだ」
暴れる福島様を捕まえながら、秀吉様は自分を侮辱した武士たちに愛想良くした。
はい、この禿げネズミは張り切っておりますよ~、と。
殿直々の御指図の仕事だから、精もたっぷり出ようというものです、と。
事を荒立てない、でもちくっと嫌味付きの絶妙な返事だ。
泥にまみれて働く秀吉様を嘲笑ったつもりが、信長様に直々の御指図なんて賜ったことのない自分を逆に笑われたのだから。
楽しそうに信長様の話をする秀吉様を睨んで、相手は苦し紛れの侮辱を重ねた。
戦働きもろくにできん、調子のいいだけの百姓上がりめ。ずっと土でも弄ってろ。
失礼以外の何ものでもない発言だ。即斬られても文句は言えないそれに、福島様は怒りの声を上げようとしたそうだ。
でも、できなかった。秀吉様の手が、しっかりと口を塞いでいたから。秀吉様の腕が、強く福島様を捕らえていたから。
福島様を全力で抑えて、秀吉様は武士たちにへらりと笑った。
戦働きより土いじりが自分の得手ですので。これで誠心誠意殿にお仕えする所存ですよって。
笑みを崩さない秀吉様に、武士たちは鼻白んだ。
それ以上言えることがなかったのか、薄気味悪いと言い捨てて去っていった。
後に残されたのは、秀吉様と福島様。気不味そうな作業員さんたち。
最後まで流し切った秀吉様に、福島様は腹が立った。福島様には、秀吉様が逃げたように見えたそうだ。
だから力が緩んだ秀吉様の腕から抜け出して、食ってかかろうとしたのだけれど。
そこで、福島様は気付いた。
福島様を捉えていなかった方の、秀吉様の手が握られていた。
その手に握り込んだ爪が、手のひらに食い込んでいた。
「血の滲んだ手でおれを撫でてよ、おっちゃんが言うんだよ。
みっともなくて悪かったなって、今の奴らと揉めちまうとお前を守れねぇからよってよ」
秀吉様は小柄だ。戦場に出て槍働きはできる技量はあっても、あくまで平均値だったそうだ。
その時に突っかかった武士たちは母衣衆というエリート戦闘員で、子連れの秀吉様じゃ逆立ちしたって勝ち目が無い。
それをわかっていて、秀吉様は理性と口先で矛先を逸らし切ったのだった。
「もうちょっと腕っぷしがありゃなぁ、っておっちゃんが肩を竦めてるのを見ちまったらよぉ」
ふぅ、と福島様が、大きく、長く、息を吐く。
「この人を支えてやりたいって、思っちまった」
低い声が、穏やかに言葉を紡ぐ。
「おれには腕っぷしがあるんだ。
おっちゃんの代わりに、それを力を振るうことができる。
だったら、やってやりてーって心底思った」
そうして、福島様は言う。
「そしたらよ、おっちゃんは心から笑ってられるだろ?」
私の胸の奥に、ことり、と理解が落とされた。
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