悩める娘は父を頼る【天正15年7月下旬】

 ゆらゆらと蝋燭の火が揺れている。

 夕食の膳はすでに下げられていて、今はデザートタイム。今日のデザートは旬のスモモだ。

 ふっくらした果肉を噛めば、じゅわっと果汁が溢れる。爽やかな甘酸っぱさが舌に楽しい。

 良い物を出入りの青物商が持ってきた、と料理人が言っていただけはある味だ。



「ひとごこちについたようだな」


「え?」


「頬が緩んでおるぞ」



 向かいに座っている父様がにこにこと私を見つめて言った。

 スモモを飲み込んで頬に触れてみる。食事の前にあったこわばりが、すっかりなくなっていた。気持ちもだいぶ穏やかになっている。

 父様の言うとおりだ。いつの間にか、私の緊張はうまく解けている。



「ははは、先に飯にしてよかったろう?」



 ぎこちなく頷くと、父様が嬉しそうに盃をあおった。

 父様、お酒好きなんだなあ。ちゃんとほろ酔いまでで加減をするけれど、おつまみはなんでもいいタイプみたいだ。スモモでお酒が飲めるのはちょっとすごい。

 そんなことを考える余裕ができていることにも気付けて、ちょっとホッとした。


 帰ってすぐ、私は父様の居室へ突撃した。

 昼間に北政所様との間であったことで頭がいっぱいで、誰かに相談しないと気が変になりそうだった。

 だから一番頼れる相手である父様に会ったのだけれど、父様は私の顔を見た途端に優しく笑みを浮かべた。

 そして言ったのだ。「夕餉にしようか」って。

 食べてる場合じゃないって焦る私を、まあまあと座らせて。

 騒ごうとする口に、飴玉を突っ込んで黙らせて。

 届いた食事の膳を「たまにはな」といつもより近くに寄せて。

 魚の小さい骨を取ったり、私の好きなおかずを分けてくれたり、あれこれ世話を焼いてくれた。

 そうした結果が今だよ。父様から今日あったお話を聞きながら、ご飯をお腹に入れているうちに、私はすっかり落ち着きを取り戻していた。

  帰ったばかりの状態じゃ、きっと夜も眠れなくなっていた。父様の気遣いに感謝しかない。



「さて、ならばぼちぼち話し合おうか」



 盃を膳に戻して、父様が言う。

 私も食べ終えたスモモの皿を横に避ける。

 今ならちゃんと話して、考えられそうだ。



「わかった。今日あったこと、話すね」



 すっと深く息を吸って、長く吐く。

 ゆっくりと、言葉を選びながら、私は父様にお話した。

 北政所様から御化粧係にならないか、と誘われたこと。

 なぜ私を御化粧係に望んでいらっしゃるのかということ。

 私はお誘いに対して、どう思ったのかということ。

 できるかぎりわかりやすく、北政所様の秘密に関する部分を隠して語った。

 父様は一度も話を止めなかった。うんうん、と頷いて、時々ほうじ茶を注ぎながら聞いてくれた。

 聞いてもらえている。それだけでまだ少しあった混乱や不安が治っていく。

 すべて話し終えた時、妙にすっきりとしてしまったほどにだ。

 父様、聞き上手だなあ。驚く話だったろうに、一度も顔から微笑みを無くさなかった。目も逸らさずにいてくれた。

 良い父様に恵まれたな、と思いながら注いでもらったお茶を飲んで喉を潤す。

 父様も同じタイミングで、湯呑みに口を付けている。お酒からお茶に切り替えたらしい。

 ちゃんと話を聞く姿勢を見せてもらえたようで、安心感がまたひとつ高くなった。



「御化粧係、か」



 一息でお茶を飲み干して、父様が呟く。



「……お断り、しない方がいいんだよね」


「そうだな。与祢の言うていたように、名誉なことだからな」



 否定は無しか。あっさりと言われてしまっても、不思議とショックはなかった。

 でしょうね、としか思わなかったし、父様を酷いとも感じなかった。



「では、与祢。次は父様の考えを聞いてもらおうか」


「はい」



 ちゃんと聞いてもらったら、相手の意見を聞くのは当たり前だ。

 背筋を伸ばして、父様を見据える。父様も背筋を伸ばして、真剣な顔で私を見つめ返す。

 真一文字になった父様の口が、厳かに開いた。



「これは山内家当主としての考えだ。

 お断りせず、北政所様のお側に上がりなさい。

 与祢が引き立てられてれば、山内家のためになるのだ。

 誠心誠意、身命を投げ打って北政所様にお仕えせよ。

 それが、山内が姫たるそなたの務めだ」


「承知いたしました、父上様」



 指を付いて、深くこうべを垂れる。姫らしく、当主の言葉に従って。

 言い切ってもらったら、諦めもちゃんと付く。山内の姫という立場を生きるんだ、期待の重さに逃げてはいけないって、覚悟も決められそう。

 そっと顔を上げる。すると父様が側に寄ってきた。

 膝と膝が触れそうなくらい近くに座って、私の頭を分厚い手で撫でてくれる。



「じゃあ、与祢の父様としての考えも話すぞ」


「父様の考え、って?」


「公人ではない、私人としての儂の考えだな」



 建前と本音みたいなものかな?

 どういう意見が父様にあるのか、ちょっと気になる。

 神妙な顔をしてみたら、笑われて手を引かれた。



「かしこまらんで良いよ、気楽にしなさい。

 そうだ、昔みたいに儂の膝に座るか? ん?」

 

「ちょ、遠慮するって、松菊丸でも拾丸でもあるまいしっ」


「まあまあそう言わずに。

 あの子たちもそなたも可愛い儂の子には変わりないのだぞ」


「わーっ!」



 あっという間に膝に乗せられる。

 夏場だからちょっと暑いけれど、父様の膝の上は固いのに安定感があって座りやすくて落ち着いた。



「まだまだ軽いのう。

 背はこのところ、うんと伸びてきたのにな」



 楽しそうに父様が言って、私を抱えてゆらゆら揺らしてくれた。寝かしつけか?

 まじで子供扱い……いや、まあ、私は正真正銘の数え八つなんで子供なんだけど……。

 ちょっと安心するけど、やっぱり恥ずかしいわ。こんなところ、佐助やお夏に見られたら羞恥で死んじゃえそう。

 お父さんの抱っこが微妙になってくるお年頃なんだもんなー。



「父様はなあ、あんまり早くそなたを外に出したくないな。

 与祢は姫だ。せんでも良い苦労を、わざわざさせたくもない」



 私の背中をとんとんと叩きながら、父様がぽつぽつと話しはじめた。



「儂も、千代もな、はように父を亡くしてな。

 家があってないような暮らしをした。背中がうっすら寒い、いつも心細い思いをして育った。

 だからな、与祢にも、松菊丸と拾丸にも、子供のうちはちゃんと子供でいさせてやりたいのだよ」



 そういえば、そうだった。

 父様も、母様も、子供の頃に落城を経験しているんだった。

 その時に祖父たちはどちらも自刃していて、父様は家老の祖父江さんに、母様は今は亡き母方の祖母に手を引かれて逃げた。

 少年の父様は、秀吉の元に辿り着くまでずっと、山内家の再興という重荷を背負って放浪した。

 少女の母様は、美濃に住んでいた親戚のもとに身を寄せて、父無し子として肩身を狭くしていた。

 ふたりとも、子供の時期にただの子供でいられなかった。

 だから私や弟たちを、とても大切に守ってくれるんだ。自分たちと同じ悲しい思いを、絶対にさせないようにって。

 ぎゅっと父様にしがみつく。抱えてくれる腕に、少しだけ力がこもった。



「でもなあ、守るだけじゃいかん、とも思う。

 健やかに、のびのびと、与祢が与祢の思うように生きてほしくもある。

 家も大事だが、与祢も大事だからな。叶う範囲であっても、好きに生かしてやりたいよ。

 だから与祢が望むなら、儂は背中を押すよ。生きたい場所で生きればよい」



 ま、ちと早すぎるとは思うがな、と父様はおどけた感じで言った。



「与祢はどうしたい?」


「私は……」


「家のことはとりあえず置いておきなさい。

 思うままに言ってよいから、な?」



 簡単な、難しい質問だ。

 シンプルな糸と糸が絡み合っていて、容易くどれかを切れない紐になっているような。

 なんとか解きほぐそうと、頭の中でがんばってみるけど、全然上手くいかない。



「父様、私、わからないや」


「そうか」


「北政所様の期待が怖い。父様や母様、弟たちと離れることにも不安がある。

 でも、御化粧係は魅力的。私のやりたいこと、やるためにはきっと一番良い仕事だと思う」


「なるほどな、与祢は迷うておるのだな」


「うん、そう。迷ってる、どうしたらいいかわかんない」



 父様の腕のゆりかごは、ゆらゆら揺れる。静かに、優しく私を包んでくれている。

 ここから飛び出すのが正解か、不正解かわからない。

 大人の心を持っているはずなのに、私はやっぱり子供なんだと自覚させられる。

 そういえば、心理学か何かの本に書いてたっけ。

 人の精神の成長は、時代とともに子供の期間が伸びているって。

 子供が子供としていられる時間が確保されるようになるほど、人の心の成長は緩やかになるそうだ。

 子供が子供でいられない環境がありふれた戦国時代の人にしてみたら、四百年後のアラサーなんて子供も子供なのかもな。



「ならば、ひとつ判じる手立てを示そうか」



 ぽつりと、父様が口を開いた。

 腕の中から見上げると、穏やかな父様の顔がある。



「寧々様という御人を、与祢はどう思う」


「北政所様を? えっと、そうだね……」


「北政所様ではなくて、寧々様だよ」



 父様が、訂正を入れてくる。

 立場じゃなくて、個人としてどう思うかってこと、かな。

 眉を寄せる私に、父様は柔らかな笑みを浮かべたまま質問を続けた。



「もしお仕えするとしたら、どのような気持ちでお仕えする?」


「……わからない」


「そうか。わからんだろうなあ、姫だものな」


「姫であるからわからないって、どういうこと?」


「与祢は生まれた時から人に仕えられることは知っておっても、人に仕えるということを知らぬだろう」



 父様の言葉が、すとんと落ちてきた。

 確かに、私は、与祢は人に仕えることを知らない。

 与祢が生まれた時には山内家はそこそこの武家で、乳母や侍女に奉仕されて与祢は育った。

令和を生きた私は、成長して社会に出て、会社勤めをしてはいても、誰かに仕えはしていなかった。

 誰か個人に、賃金など関係なく、ただ奉仕する立場に立ったことがないのだ。



「では与祢、しばらく考えてごらん。

 寧々様は、お前がお仕えしたいと思える何かをお持ちであるか。

 お仕えする意味を教えてくださる御人であるか」


「お仕えしたい、何か、か……」



 北政所様のことを、思い出してみる。

 父様の言うような何かの輪郭は、見えてこない。

 あいまいな靄のような何かはあるのだけれど。形作るのが、とても、難しい。



「もし、そうであるならば、早いも遅いもない。

 与祢の心のままに、儂らの元から巣立ちなさい」



 夜のしじまにとけるような小さな声で、父様は悩む私に言い聞かせる。





「───北政所様のもとが、お前が次に止まるべき枝ということなのだからな」





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