私が選ばれた理由、北政所様の望み【天正15年7月下旬】




「都の城───聚楽第で、あたくしの御化粧係にならない?」



 今きっと、私は間抜けな顔をしているだろう。

 だって言葉が頭に、上手く入ってこないのだから。

 おけしょうがかり。御化粧係、か。

 何度も耳で拾った言葉を頭の中で反芻して、恐る恐る口を開く。



「それは、どういうことでしょうか」



 予想はついている。でも念のための確認だ。

 外れていればいいと思いながらの質問に、北政所様は静かに答えてくれた。



「あたくしの側に仕えないか、ということよ」



 やっぱり、そうか。

 構えていても、地味にじわじわくるものがある。

 北政所様のお側に仕えるということは、常駐しろという命令だ。

 今みたいに、通いで働くのは不可だろうな。

 私が誘われているのは、御化粧係。専属の美容担当者だ。

 おはようからおやすみまで、北政所様のお側にいなければ果たせない。これは断言できる。

 きっと滅多なことが無いかぎり、私は山内家に帰れなくなるだろう。



 それすなわち、家族と切り離されるということ。



「お与祢は、嫌?」


「……いいえ」



 そんなこと聞かれても、嫌なんて言えない。

 北政所様のご意向なら、私の意思なんて問題になろうはずがないのだ。

 一応お誘いの形を取ってはらっしゃるけれど、選択肢なんて無いも同然。

 そのお口からその言葉が出た瞬間に、私の運命は決まってしまっている。



「北政所様、お教えください」



 北政所様を見上げて、おたずねする。



「何かしら」


「どうして私なのでしょうか」



 美容を任せる人間が用意したいなら、別に私じゃなくてもいい。

 現状、令和式の美容技術や知識を持つのは私だけではある。

 だが技術や知識は、私固有の能力じゃない。他人に教えることができる。

 私が北政所様に既にお仕えしている侍女に教え込んで、その侍女を御化粧係にするなんてことも可能だ。

 細やかな判断はまだ私しか難しいけど、それはそれ。

 問題がありそうな時にだけ、私が登城して対処するのでもかまわないだろう。


 でも、北政所様はそう判断しなかった。


 ならばそれには、それに値する理由があるはずだ。



「本当はね、もっと貴女が大きくなってからと思っていたのよ。

 千代とも、そういう約束だった」



 母様との約束ね。つまりは山内家との約束か。

 元から私を北政所様の側に送り込む予定だったわけか。

 理由はいくつか思いつくけれど、先に言っといてほしかったわ。

 そしたらもうちょっと、私だって前向きに覚悟できてたのにさー!



「けれども、そうは言っていられなくなったのよ」


「何か急ぐ理由がおできになられた、ということですね」


「ええ、貴女のお化粧が巧みにすぎたから」



 は? どういうこと?

 私のメイクが気に入ったから早く側に置きたくなったとか、そういうこと??

 怪訝な私の表情から察したのか、北政所様は「少し違うのよね」と否定した。



「半月前にうちの人が九州から帰ってきたのは知ってる?」


「はい」


「帰ってきたらねえ、私の閨に来るようになったのよ」


「んん!?」



 待って? なんで突然夜の生活の暴露が始まるの!?

 唖然とする私をよそに、北政所様は話し続けた。

 つい半月前の晩、北政所様の旦那様、ようは関白秀吉様が九州からご帰宅あそばした。

 まあ当然、北政所様は帰ってきた秀吉様をお出迎えをした。

 すると秀吉様、ちょうどその日の昼間に私から令和式メイクを施されていた北政所様を一目見て、固まったらしい。



 美しくなったって、絶句して。



 そしてお帰りになったその日、十数年ぶりに夜の生活が復活したそうだ。

 しかも今日に至るまで、かなりの頻度で。

 えっと、これ、惚気かな???



「あの、おめでとうございます?」


「ありがとう、お与祢のおかげよ」


「いえいえそんな……」


「あの人が言ったのよね、昔に戻ったみたいって。

 今までも愛しい寧々だったけど、今はあの頃に恋した寧々様だって」


「ものすごい殺し文句ですね!?」


「それもおべっかじゃなくて本気で言ってるのよ」



 驚いたわ、と寧々様が嬉しげに言う。

 私も驚きだわ。家族と離れるの悲しいって気持ちが、どっかに飛びつつあるよ。センチメンタルが行方不明だ。

 というか、愛が恋に立ち返るほど盛り上がっちゃったのか、秀吉様。何気にすごい。

 レスが解消してよかったけど、それと私を御化粧係に勧誘することの因果関係がわからないよ。

 別に私は今くらいの頻度の通いでもかまわなくない?

 口に出して言わんけど。



「だからこそね、申し訳なくて」


「申し訳ないって、御正室である北政所様が殿下のご寵愛を独占してもよいのでは……?」


「だめなのよ、あたくしだけじゃ、だめなの」



 何がだめなのだろう。よくわからない。

 好きな旦那との夜が戻ってきたら普通嬉しいもんじゃないの?

 ちょっと痩せようかな? そしたらあの人喜ぶかしら? 程度の幸せな悩みくらいはありえると思うよ。

 でも、愛されることに後ろ向きな申し訳なさを感じることってない気がする。

 詳しく聞いてみたいけれど、口にしにくい。

 だって、今の北政所様の様子は、いつもと違う。

 落ち着き、余裕。そういった、北政所様らしさが薄い。

 まるで、爪先ひとつ分だけ届かない何かを、掻いているかのような。

 そんな、酷い焦燥感が滲んでいる。



「あの、言いにくいのでしたら、ご無理をなさらずとも」



 いたたまれなくなって、水を向ける。

 わざわざ言いたくないことを言おうとするなんて、ストレスが溜まるだけだ。体と心に良くない。

 でも北政所様は、首を縦に振ってくれなかった。

 磨きかけの爪が、グレーがかったピンクの小袖の膝に食い込む。手の甲を真っ白にするほど握りしめている。

 息を詰めて見守る私に、北政所様は微笑んだ。



「あたくし、もう、四十だしね。

 それに……ずっと前に、子が、望めない体になっているから」



 私の中から、言葉が消えた。

 不妊、なのか。北政所様は。言い方からして、元々そうじゃなかった。

 だとしたら、とんでもない告白だ。

 今は天正の世だ。多様な生き方や存在が受け入れられ始めていた、令和ではない。

 子を産めない女性の生きづらさ、産めなくなった女性の立場の無さは想像を絶する。

 そんな価値観の世界の、天下人の正妻。北政所様ともなれば、どんな心地がすることか。



「だからね、あの人にはあたくし以外の女にも触れてもらわなくてはならないのよ」


「あの、ですが、すでにもう、近江中納言様がいらっしゃいますのに」



 無理して夫に側室をあてがう必要は、もうないと思うんだけれどなあ。

 羽柴のお世継ぎ候補はもういるんだよね。うちの父様が家老を務めている、近江中納言秀次様。

 秀吉様の甥っ子で、そこそこ優秀な人だと聞く。そういやドラマでもわりと有能な雰囲気はあったな、秀次様。

 そんなちゃんとしてて、成人もしてる甥がいるんだよ。

 今更わざわざ、秀吉様の実子を得る機会を狙う必要はないはずだ。

 史実みたいに実子が生まれたらやばいよ。あのえぐい悲劇が起きちゃうよ。

 秀吉様が側室達を差し置いて北政所様に一点集中している現状が、羽柴政権に取ったらベストなんじゃない?

 そういう感じのことを、前世の知識を隠しながらお伝えしてみる。

 でも、だめだった。北政所様はだめだと言った。



「あたくしは、あの人のね、子供が欲しい。

 あの人に、血の繋がった子供を抱かせてあげたいの。

 ずっとずっと、あの人は子供を欲しがっていたから」


「ですが、北政所様はさきほど、その」


「ええ、あたくしはもう産めない。

 だったら、あたくしの子でなくていい」



 北政所様が、きっぱりと言い切る。

 そのお顔に、迷いは一切無い。だからこそ、これが心の底からの願いだと、思い知らされた。

 私の中の価値観の外の、さらに遥かな遠くの価値観に基づく願望だ。

 返せる言葉が、それを考える思考が、尽きた。



「孫七郎には申し訳ないことだわ。でも、あたくし、諦めたくない。

 あの人だってもう若くないの。今を逃せば、永遠に叶わなくなる」



 だから、と手を握られる。

 強く、縋るように。



「お与祢の力が、必要なの」



 強い眼差しが、私を射る。



「貴女のお化粧で、あたくしは久方ぶりの幸せを味わえた」



 お願い、という掠れた懇願が、突きつけられる。





「あの人も、幸せにしてあげて───」








◇◇◇





 大坂城から、私を乗せた駕籠が出ていく。

 外はすっかり黄昏時だ。駕籠の中は外よりも一足早く、夜の気配が入り込んでいる。

 その薄い闇の中で、私は北政所様の言葉を思い返していた。



 北政所様の御化粧係。



 客観的に考えれば、身に余る光栄だ。山内家の誉れになるのだから、断る理由は存在しない。

 美容分野の研究も、もっとフリーハンドで自由にできるだろう。

 天下人の妻がパトロンになるのだ。間違いなく物や人を集めやすくなる。お金の心配も、一切無くなる。

 私個人としても、家族と一緒に居づらくなる以外のデメリットがない。

 もうちょい大人になってから誘われたら、即答でOKしたと思う。

 前世で第一志望に就職が決まった時並みにテンションが上がりまくってた、絶対。

 そのくらい素晴らしく、完全無欠の魅力的な就職先だ。


 でも。だとしても。



「あぁぁぁ……重すぎるよぉ……」



 膝を抱えて、ため息まじりに呻いてしまう。

 私の美容関連スキルで側室方の美しさを底上げして、秀吉様の興味を引いて、その実子誕生を達成しろ。

 ありえない。設定目標がやばいほどハイレベルだ。運要素も強すぎないか?

 いや、私は相変わらずさ、美容は人の幸せに繋がるものと信じているよ?

 けど、あくまで個人の幸せだよ。家の幸せに繋がるかと問われたら、わかりませんとしか言えない。

 なのに期待をされすぎていて、めちゃくちゃ恐ろしい。



 一応、まだ返事はしなくていいと言われた。

 待っているから、ゆっくり考えなさいって。



 できたら一生返事がしたくないなあ。放置したら忘れてくれないかな。

 そんなふうに現実から目を逸らしたくなるけど、天下人の妻の誘いを無視とか絶対アウトだ。

 下手をしたら山内家全員の首が飛ぶわ。選べるはずがない。


 ……しかたない。とにかく、父様に相談してみよう。

 一人で悩んでいたって、さっきから袋小路状態でお手上げだし。

 何度目かわからないため息を吐いて結論付けたところで、乗っている駕籠が止まった。

 聞き馴染んできた、大坂屋敷の人々の声が聞こえてくる。やーっと帰宅できたか。

 待っていると、佐助が駕籠の戸を開けてくれた。その手を借りて外に出る。

 ちょっとふらついたら、佐助がさりげなく支えてくれた。

 相変わらず出来た男だよ、お前は。



「ごめん、助かった」


「姫様、なんかやたらと疲れてません?」


「うん、そうね。すっごく疲れてると思うわ」



 でもね、あいにく今は休んでいられるほど暇じゃない。



「父様はお帰りかしら?」


「殿ならもうお戻りになられているみたいですよ」



 よかった。待ち時間無しで会えそうだ。

 私はなんとか姫らしく体裁を整えた声を出して、佐助に命じた。


「なら、佐助。ちょっとお伝えしてきて。

 私がお話ししたいって言ってるってさ」


「……明日にしときません?」


「明日じゃ遅いの! 早く!」



 時間を置いたら余計気が重くなって話しづらくなるから!

 疲れで頭が麻痺しているうちに済まさせて!!

 頼むからさー! もー!!


 仕方ない姫だなあ、という目で見てくる佐助を睨み返しながら、私は心の中でそう投げやりに叫んだのだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る