大坂城の女主人(1)【天正15年5月21日】

 ツバメが水面を飛んでいる。

 ぽつぽつと咲いた白い睡蓮や杜若の間を縫うように、ツバメたちがしなやかに行き交うさまはとてものどかだ。

 綺麗に整えられた池は、目にも涼しい。

 さすが天下人のお城だよ。うちの京屋敷の池なんて目じゃない規模だ。



「与祢、行くわよー」


「はーい、ただいまー」



 母様の呼ぶ声で、池から視線をもぎ取る。

 まだここは幅広くて長い畳敷きの回廊の途中だ。

 ぼやぼやと立ち止まってなんていられない。

 息を細く、強めに吐いて気を引き締めて、私は母様の背中を追いかけた。



 寧々様──つまり、天下人の正妻たる北政所様のお誘いで大阪城へ行くと聞いたのは、昨日のこと。

 あれから私と母様は、即座に大坂へ向かった。

 私を座敷に呼び出した時点で、大坂行きの準備が済んでいたらしい。

 家人たちがまとめた荷物を抱えて、門の側でスタンバイしていた。

 あっという間に市女笠を被せられて馬に乗せられ、伏見の船着場へGOだよ。

 そのままノンストップで伏見に行って、そこから用立てた船で川を降って大坂へ。

 大坂城下の山内屋敷へ入れたのは、日が暮れてからだった。

 移動の目まぐるしさに疲れて、その日は夕飯を食べたら力尽きて即就寝。起きているのは無理だった。

 なのに翌朝は夜明け前に起こされて、母様と湯殿で念入りに湯浴みさせられた。

 着替えはもちろんよそ行き用。鮮やかな浅葱色の布地に、杜若の刺繍をあしらった真新しい小袖だ。

 銀糸で模様を入れた淡いレモンイエローの帯を締めると、夏らしい装いになる。

 ちなみに母様の打掛も浅葱色に杜若の刺繍入りだ。下に合わせた小袖は私の帯より淡くて落ち着いたパステルイエロー。

 私と並ぶと明るいサマー母子コーデの完成になる。

 それから母様のリクエストで、母様のメイクは私がやった。

 最近完成したばかりのスキンケア&メイクアップセット一式も、お夏がちゃんと持ってきてくれていたのだ。

 腕によりをかけて、念入りにメイクさせていただきましたとも。

 ひっさびさのメイクテクを振るう機会だったから、超楽しかった。

 そんなこんなで登城できたのは、すっかり太陽が顔を出してからだった。

 駕籠に乗せられて、護衛の佐助や侍女のお夏たちを引き連れて城の門を潜った。

 途中で何度か取り次ぎだのなんだので止められたり、駕籠から降ろされたりもして、奥御殿に辿り着くまでまたかなりの時間が掛かった。

 想像を超えたセキュリティの厳重さにびっくりだわ。

 やっと控え室的な部屋に通された頃にはお昼だった。

 そこでお茶とお菓子(たぶんお昼代わり)をいただいて、暫時休憩。

 品の良い湯呑み茶碗が空になったタイミングで北政所様の客間へ呼ばれて、ようやく今に至るわけです。


 さっきから長い長い回廊を、案内役の侍女に先導されて歩かされてるよ。

 この回廊はね、長いばかりじゃない。幅は大人が三、四人ほど横並びで歩けるくらいあって、床材は全面畳ばりだ。

 庭と反対、つまり部屋のある側は、木目の美しい柱や欄間で区切られた部屋が並んでいる。そのどの部屋にもデザインを統一した品の良い襖が嵌っていた。

 しかも一区画だけじゃない。延々と続く。どこまでも続く。何度角を曲がってもビシッと決まっているからすごい。

 変わる景色は軒先から見える庭くらいかな。

 各所に何かテーマがあるらしい。花の色や庭木の種類、庭石や砂州の配置が絶妙に変わる。

 そんな庭の背景は、だいたいことごとく天守閣だ。

 墨色の瓦に漆黒の壁面。所々で陽光を弾く金色が美しい。

 一、二、三……五階建て、かな?

 城どころか大坂のどこにいても見える、とてつもない高層建築だ。

 こんなものがこの時代に作れるなんて思ってもいなかったよ。

 戦国時代の大工さんはすごい。どんな技術力してるんだ。

 本当に呆れるほど豪華だよ、大坂城。

 ほんの一部に通されただけでも、天下人の城なんだなって実感させられる。

 わかってはいたけど、ちょいセレブの山内家とは格が違ったわ。

 関白秀吉は、まごうことなき世界有数の超絶セレブだ。

 その奥様と会う日が来るなんて、思いもよらなかったよ。

 ドラマでは母様とすごく親しい設定だったけれど、さすがにフィクションだと思っていた。

 でも、本当に仲が良かったとはね……。



「千代様、姫君」



 静かなのにくっきりとした声が、思考の海から私を引っ張り出す。



「こちらのお部屋へどうぞ」



 先導していた侍女さんが、襖の開け放たれた部屋の前で足を止めていた。

 促されるのに従って、母様の後について入室する。

 五十畳はある広いお座敷だ。入って右側の部分が、一段高くしつらえられていて、中央に綿を打った金襴の敷布と脇息が置かれていた。

 欄間のあたりには、綺麗な房飾りの紐で巻き上げられた御簾が留めてある。

 あの場所が上座なんだろう。そこから少し離れた、下座にあたる場所に敷布が二枚用意されている。

 ためらいなく母様は下座の敷布に進み、ゆっくりと腰を下ろした。



「それでは今しばらく、お待ちくださいませ」



 母様の隣の敷布に私が座ったのを確認してから、侍女さんは廊下で一度手をついて頭を下げる。

 また待たされんの。嘘でしょ。どんだけ面会に時間が掛かるんだよ。

 唖然とする私をよそに、ゆったりとした所作で侍女さんは立ち上がって回廊の更に奥へ去っていった。

 静けさが、一気に戻ってくる。

 さらさら池の水が小川に注ぐ音しかしない。

 ちらりと母様を見上げてみる。私の腕によりをかけたメイクで、いつもの五割り増しに綺麗な母様が袖で口元を隠して笑った。



「本当にたくさん待たされるわねえ」


「なんでこんなに待たされるのかしら」


「警備の都合とか色々あるのよ。わたくしたちだって、似たようなものでしょう?」


「そうなの?」


「そうよ。わたくしたちより身分が上か親しい方々以外が訪ねてきたら、

 わたくしたちと対面するまでにそこそこ待たせてるわよ」



 マジか、知らなかったわ。



「なんでそんな非効率的なことするの?」


「うーん、ひらたく言うと、見栄かしらね」



 見栄、見栄ってなんだそりゃ。

 待たせるのと見栄がどう関わるんだ。

 訝しげな私に、母様が苦笑い気味に答えてくれた。



「もったいぶるのが高い身分であるという証なの。

 身分ある者が気安くほいほい来客に会うのは品が無い振る舞いなのよ」


「なにそれぇ……」



 めんどくせー! 気軽に友達と遊べなくなるじゃん!

 言っていることがわからないでもないけど、やりたいかと言われたらやりたくない類いの慣習だ。




「わたくしもたぶん、与祢と同じ意見よ。身分が高くなるって面倒なのよねー」


「そうだね……今くらいの身分で満足するって選択肢はないのかな?」


「ふふふ! 無理ね!」



 明るい笑い声と一緒に、さらっと私の希望は切り捨てられた。

 言い切っちゃうのかい! もうちょっと気遣うとかないんかい!

 じとっと睨むと、母様は楽しげに笑いながら私の髪を片手で梳いた。



「伊右衛門様とわたくしの夢はね、一国一城の主なの」



 母様の瞳が、遠くを見つめるような色を帯びる。

 燃えているように強くて、お砂糖よりも甘やかな雰囲気だ。

 声が出ない。ごくりと唾を飲み込んで、母様を見つめる。



「だから殺されても立ち止まらないわ。

 ささやかな自由を捨てても、わたくしは伊右衛門様を国持ちの大名にする」


「母、様」


「あなたも町娘のような自由は諦めてちょうだいね?」



 そう言って、母様が微笑む。

 綺麗だけれど、綺麗すぎて怖い。目がちゃんと笑っているから、余計にだ。

 狂気に近い正気が漂ってるよぉ……ただの美人じゃなかったやっぱりぃ……。

 私、どんな目に遭わされるんですか。

 この先どういうお姫様にならされるんですか。

 今までどおり美容のため好き勝手するのがOKならいいんだけども、それもだめになったりは……。



「あぁ怖がらないで、与祢! 何も心配もしなくていいのよ?」



 強ばる私の頬を、両手で挟んで母様が明るく言う。



「与祢は今まで通りでいいの。

 今のように綺麗なものを作って、楽しいと思うことに触れて、

 幸せに暮らしていればそれでいいの」



 一豊様もそう仰せだわ、と母様はにこにこしている。

 いつも通りの母様だが、信じていいんだろうか。

 あの狂気な正気を見た後じゃ、ちょっと疑心暗鬼になっちゃいそうなんだが。だが!



「母様ったらもう、おどか──っ」



 文句の一つも言おうと開きかけた口を閉じる。

 遠くから、衣ずれが聴こえたから。

 耳に心地よいさざなみに似たそれは、良い絹の打掛が畳を擦る音だ。


 来た。


 母様が片目を瞑ってから居住まいを正して、上座に向かって平伏した。

 慌てて私も同じように畳に手をつき、頭を深く深く下げる。

 衣ずれがどんどん近くなってくる。少しずつ違う音が、二人分だ。

 一人は北政所様として、あと一人は誰だろう。

 さっき私たちを案内してくれた人のような、打掛を許された上級の侍女かな?



「北政所様の御成でございます」



 凛とした女性の声が上がる。上座の方へ、人の気配が入っていく。

 来た来た、とうとう来ちゃった!

 北政所ってどんな人なんだろう。美人かな、それともそうでもない?

 顔を上げていいと許可されていないので、チラ見もできないのが惜しい。

 顔を伏せたまま、ドキドキしながら待っていると衣ずれが止んで静かになる。

 入ってきた人全員が着席したらしい。



「おもてをあげなさい」



 声が、降ってきた。

 これ、北政所様の声かな。柔らかくて耳に馴染む、でもほんのりハスキーなところがかっこいい。

 宝塚の男役の人っぽい。私が好きなタイプだ。

 隣の母様が平伏を解く。合わせて私も、ゆっくりと上体を起こす。

 視界が再びの明るさに、少し白む。

 反射的に瞬きをする視界に、その人が映った。



「千代、おひさしぶりね」


「はい。おひさしゅうございます。

 寧々様におかれては、ご機嫌麗しく」



 すらりとした人だった。

 ほとんど化粧っ気のないうりざねの輪郭の線は優美だけど引き締まっていて、配置された目鼻立ちはほどよく整っている。

 鼻筋が高めで目元が切れ長だからか、甘さよりも爽やかさが漂ってくるお顔立ちだ。

 髪は長く伸ばされていて、艶めいた黒が美しい。

 綺麗に櫛が通っていて乱れも癖も一つも無く、さらりと肩に掛かって後ろへ流されている。

 ぴしりと背筋を伸ばして座っているけれど、立てばわりと背が高めかもしれない。

 顔の小ささと全体的な品の良さが相まって、菖蒲の花のような印象が強い。

 白い小袖と金糸の刺繍が見事な淡いグリーンの打掛がとてもお似合いだ。


 これが、天下人の正妻……。


 完全に存在感に飲まれて、母様のように挨拶の声も出せない。

 息を詰めていると、ぱちりと目が合った。

 他の人より少し明るめの鳶色の瞳だ。

 奥二重の切長の瞼との組み合わせが、凛とした印象を強く放っている。

 完全に呑まれた私に、薄めの唇が優しくたわめられた。




 かっこいい。綺麗なひと。




 体が痺れた。

 誰にも言われていないのに、自然とまた頭が下がる。

 一目惚れって、あるんだなあ。女同士。恋愛が絡まなくても。

 何年も後、再び私が大人になってからも感慨深く思い出せるほどの衝撃のまま、私は額を畳に擦り付けた。




 これが私と北政所様の、初めての出会いだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る