おでかけの誘いは突然に【天正15年5月20日】


 母様に呼ばれて向かう先は、屋敷奥の東側。庭に作られた池に張り出した座敷だ。

 最近はそこを、私や母様が日中のリビングとして利用しているのだ。

 季節が夏に向かいつつあって、日増しに暑くなってきているからね。エアコンもない環境なりに、過ごし方には工夫をしないといけない。

 でないと夏バテしちゃうんだよ。地獄の窯の底だっけ。京都の夏は信じられないほど蒸し暑いのだ。去年なめてかかって即バテたのは苦い思い出です。

 紀之介様からお見舞いにマクワウリとお洒落な扇をいただけたから、結果オーライだったけどね!

 まあでも、子供の身で京都の夏は結構きつかった。

 妊娠中だった母様もバテていたし、丿貫おじさんはバテる前に褌一枚の裸族と化していた。

 それで今年は弟たちも増えたことだからと、父様が年明けから庭を整備し直して、今から行く座敷の改装をしてくれたわけだ。

 これが大当たり。どうやったのか小川を引いてきて水流を作った池のおかげで、座敷のあたりは川辺のように涼しい。

 造りも完全夏仕様だ。回廊側以外の三方に大きめの窓を開けて風通しを良くしてあり、屋根の庇は長めにして日中は陽の光が差し込まないようになっている。

 害虫対策もばっちりだ。私の提案で網戸代わりの蚊帳が四方を囲うように下ろせる仕様となっている。

 蚊帳には虫除け効果の見込める薄荷油を塗ってあり、蚊遣りの火を持ち込めば完璧に近くなる。

 おかげで今では座敷は、屋敷の中でもっとも涼しくて過ごしやすい場所だ。

 今日は一日座敷でくつろぐと言うと、母様や私付きの侍女たちが嬉しそうになるくらいにはね。

 本邸から続く渡り廊下も、日が高い時間には日陰になっていてひんやりと心地良い。

 冬場は寒くて耐えがたい場所になりそうだけど、冬は冬でサンルーム的な座敷をこしらえてあるから問題ない。

 戦国時代なりに暮らしやすい屋敷に住めるなんて、本当にありがたいことだよ。

 勝ち組万歳だね。願わくばこのまま死ぬまで勝ち組大名家の人間でありたいわー。


 なんて考えながら、きらきら真珠色に輝く水面を眺めて歩けば、子供の私の足でもあっという間に座敷に着いた。



「母様ー、与祢がまいりましたよー」



 半開きの襖を、自分の手でからりと開けた。

 余裕で一〇畳以上ある座敷が目の前に広がる。その正面、池に面した雪見窓から外を母様が眺めていた。

 夏らしいビビットなオレンジの小袖を着て、腰に淡いグレーの打掛を巻いた腰巻きスタイルだ。

 窓から吹き込む柔らかな風に髪を遊ばせて、脇息にもたれてくつろいでいる。

 絵になるなあ。黙っている時は本物の美人だわ、母様。娘の私でもため息が出そうな風情がある。

 まあ口を開いた途端に、速攻でそんな風情は消滅するんだけど。



「あっ与祢、よくきたわね! こっちにきて座りなさいな!」



 振り向いた母様が、明るく澄んだ声を私にかける。

 端々に生気に満ち溢れまくっていて、下手な子供より元気いっぱいだ。

 今年は夏バテと無縁そうだ。よかったよ、いつもの母様だ。

 にこにこ手招きされるのにしたがって、私は母様の向かいに腰を下ろした。

  


「急に改まってどうしたの? 何かあった?」



 母様の侍女が出してくれた冷たいお茶に口を付けてから切り出す。

 座る時に、母様の手許に手紙らしきものがちらりと見えた。

 たぶん、あの手紙が呼び出しの原因だろう。



「あのね、これからおでかけしましょ」


「は?」



 でかける? しかも今から? いきなりだなー。



「なになに、おでかけってどうしたのよ」


「今日も明日も暇でしょ?

 千様も丿貫おじさんも先月から九州に行っちゃってるし、暇よね?」


「それはそうだけど」



 おっしゃる通り、茶の湯おじさんコンビは九州に行っている。

 与四郎おじさんはよく知らないが、秀吉のお声掛かりみたい。道中でお茶を立ててあげたりするらしい。

 丿貫おじさんは与四郎おじさんのお相伴に預かってくると宣言していた。湯布院温泉や太宰府天満宮が目当てらしい。

 前者はともかく後者は物見遊山する気満々じゃんってあきれた記憶も新しい。

 還暦過ぎても丿貫おじさんはフリーダムかつ腰が軽いわ。

 年明けに突然山科の屋敷を引き払って、うちに引っ越してきた時も思ったけどさ。

 ま、そんなわけで私の茶道のお稽古は一時休止中。暇な時間が増えて困ってはいるのが現状だ。



「じゃあ母様とおでかけしましょ! ねっ!」


「待って待って、母様ってば」



 はしゃぎ気味に手を握って、ねだるように上下にぶんぶん振られた。

 我が親ながら、ほんっっっと話聞かないなー!



「おでかけはいいけど、どこに行くの。堀尾さんち?」



 とりあえず、思い付いたお隣さんの名前を出してみる。

 我が家の隣に屋敷を構える堀尾家は、家族ぐるみで仲良くしている一家だ。

 ご主人の茂助おじ様は父様の幼馴染で、秀吉に仕えた時期もほとんど一緒。

 今も二人は仲が良く、一緒に秀吉の甥っ子の補佐役としてお勤め中だ。

 その繋がりで母様と茂助おじ様の奥さんも親しくて、京都に引っ越してからはしょっちゅう行き来をする仲である。



「違うわ。行き先は大坂よ」


「ならお隣よりずっと遠くじゃない。父様にも相談してからでないと」


「大事ないわ、伊右衛門様はもうご存知だから」



 父様はもう知ってるって、どういうこと?

 怪訝そうに眉を顰めてみせると、母様はにっこり楽しげに微笑み返してきた。

 悪戯っ子のような笑みだ。嫌な予感がちょっとする。

 母様が手にもてあそんでいた手紙を、私の前に広げてみせた。

 控えめな雲母きららが摺り込まれた上質な料紙に、流麗な手の文章が並んでいる。

 書かれている内容は、庭の睡蓮ひつじぐさが綺麗に咲きました、ちょっと遊びにきませんか? というものだ。

 品の良い手紙だなあ。お手本にしたいくらいお上手。

 内容からして、差出人は母様のお友達だと思うけど、誰からの手紙だろう。

 差出人が知りたくて、私は手紙の端に目を移した。

 日付の下に、署名がある。ええと、なになに。

 差出人さんのお名前は、ええと、『寧』さんか。

 読みは『やす』さんかな?

 いや、違う。『寧』の次に、『々』が付いてるわ。

 なら読みは、『ねね』。寧々さんね。


 ん? 寧々さん?

 寧々さんってもしや……あの?


 手紙から母様に視線を移す。にっこり笑った母が大きく頷いた。



「大坂城へお招きいただけるなんて光栄よね!」

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