そういうのは先に言って!?【天正14年6月上旬】
「与祢、お与祢」
優しく体を揺さぶられる。
その拍子で、私はまどろみから抜け出した。
まぶたを開く。真珠色の陽光を弾く水面の眩しさが目に染みる。
ぱちぱちと光に目をならす私を覗き込んで、母様が微笑んだ。
「目は覚めた? 船から降りるわよ」
「降りるの……?」
寝起きのはっきりしない頭で聞き返す。
母様はそんな私の頭を撫でて頷いた。
「ええ、堺に着いたからね」
今日は待ちに待った、与四郎おじさんと精油抽出実験の約束の日だ。
実験が決まってすぐ堺に行きたいと母様に願い出てみたら、OKはあっさり出た。
ついでに母様の同伴も決まった。私と丿貫おじさんが行くなら一緒に行く、と主張されたんだよね。
リップスティックの件で協力した時に面白かった、またああいうのなら参加したいと言っていた。
保護者が同伴する分にはいいか。面倒事は任せられるし。
なんて思っていたら、与四郎おじさんへ先触れの手紙を送るように母様から指示された。
良い機会だから、余所様のお宅を訪問する際の作法のお勉強をしましょう、って。
いや、のちのちこういうスキルが必要な身の上なのは理解しているよ?
でも私、まだ手習いを始めたばかりだよ? 手紙の書き方なんて習ってないんだけど?
だから母様が代わりに書いてくれても……何、母様?
自分の意思での外出だから、自分でも手筈を整えるのは当たり前?
あっはい……くずし字、難しいよう……。
やっぱりこの母様、歴史に名を残しただけあって色々すごいわ。
好奇心の強さもそうだが、頭の良さも実行力も、人を動かす力も備えている。
こういう人だから父様を大名に押し上げる助けになったのかなぁ。
そんな考えて現実逃避しつつ、私が手紙に悪戦苦闘している間に、母様はちゃちゃっと供回り等の準備は整えてくれた。
そうしたらいつの間にか、同行者に父様が追加されていた。
母様が父様への定期連絡の手紙に堺行きの話を書いたところ、一緒に行きたいという返信が早馬で来たらしい。
大事なお役目を休んじゃって良いのか、父様。
早馬って気軽に使っていいものなのか、父様。
……本当に大丈夫かな、山内家。
さて、そんなこんなでやって来ました、堺です。
今朝は夜明け前に出発して、川下りの船を利用してここまできた。
都から大坂方面への交通手段は、船がオススメらしい。馬や駕籠で街道を行くより、断然早くて便利だそうだ。
船賃はそこそこするけれど、今回は与四郎おじさんが船を手配してくれた。
自家用船だから、もちろん船賃は無料である。何から何まで、おじさんさまさまだ。
おかげで想像したよりも、うんと早く堺に着けたよ。実に良い滑り出しだ。
早起きしたけど船でしっかり二度寝したから、頭もしゃっきりしている。
体調もすこぶる良いし、コンディションは抜群だ。
軽くなった足取りのまま、私は母様や丿貫おじさんと船を降りた。
「わあ……」
降り立った波止場で、自然と足が止まる。
建ち並ぶ倉らしき建物、あちらこちらに見える様々な荷の数々。
行き交う人々の数はおびただしく、いろんな会話が飛び交っていて賑々しい。
けれども汚いとか物騒とかいう雰囲気はない。
建物も、人も、物も。すべてがどこか洗練されていて、底抜けに明るい。
陽気と熱気を凝縮した光景に、呼吸すら忘れて見いってしまう。
「これが、堺」
今、この日本で、もっとも栄える商業の都。
外国人宣教師に、東洋のヴェニスと称された街。
……もしかして、私、とんでもない街に来てしまったのでは?
「お与祢、ぼぉっとしとらんと行くで」
ぽんと軽く背中を叩かれる衝撃で、我に返った。
振り向くと、船から降りたばかりの丿貫おじさんが笑っていた。
「見た目は大仰やけど、ただの商人の街や。怖がらんでええ」
「おじさん……」
「ほれ、一豊殿も参られたで」
ふしくれ立った指が指す先で、母様が父様に抱きついていた。顔いっぱいに嬉しそうな表情を浮かべている。
父様も叱るようなそぶりをしているが、まんざらでもなさそうだ。口許がしっかり緩んでいる。
私も、隣の丿貫おじさんも、生温い目でそれを眺めた。
数ヵ月ぶりの両親のいちゃいちゃ、ごちそうさまです。
「あのふたりは相変わらずやなあ」
「昔からなの、あれ?」
「わしが祝言に呼ばれていった時にはもうあれやったで」
なっっっが。両親の祝言というと、二十年近く前じゃなかったっけ?
なんという究極のラブラブおしどり夫婦だ。
本当に死が二人を分かつときまで新婚気分で暮らす気だな、これ。
若干引き気味の私の背中を、丿貫おじさんが慰めるように叩いた。
「仲が悪いよりはええやろ」
「でも目のやり場に困るわ」
「それは、まあ、ようおきばりやす」
どちらともなくため息を吐く。
そうして、私たちは父様と母様に合流するため、ちょっと重めの足を動かした。
◇◇◇◇◇
駕籠から下ろされた私の目に映ったお屋敷は、想像よりもこじんまりとしていた。
塀は白壁、連なる瓦と門は黒一色。塀の上からちらりと覗く、松の緑とのコントラストが美しい。
門は綺麗に磨かれていて、門前は丁寧に掃き清められている。
屋根や塀の上にも、落ち葉一つ引っ掛かっていない。
そのせいか、屋敷の佇まいにはすっきりとした清潔感が備わっていた。
前世で泊まった、老舗旅館によく似ている。ずいぶんと瀟洒な日本家屋だ。
周辺のいかにも豪邸という風情の屋敷が居並ぶ中だからだろうか。与四郎おじさんのお屋敷は、妙に存在感がある。
私は建物に詳しくはない。けれど、とても趣味の良いお屋敷だと思えた。
「良い屋敷だなあ」
馬を降りた父様が、感心したように門を見上げた。
「質素に見えて凝った造りだ。よほど腕の確かな匠が手掛けたと見える」
「そうなの?」
「そうとも。さすがは堺の納屋衆、千宗易殿のお屋敷だよ」
「せん、そうえき」
与四郎おじさんのお家じゃないのか、ここ。
突然出た知らない人の名前に首を捻る私の頭を、父様は喉で笑って撫でた。
「与四郎殿の別の名だよ。与祢は聞いたことがないか?
天下の御茶堂、千宗易───利休居士を」
「は?」
ちょっと待て、父様。いまなんて言った。
りきゅう。利休って言った? しかも名字が千?
いやいや、まさかそんなわけないでしょ。あの与四郎おじさんだぞ?
「父様」
「なんだい、与祢」
「利休って、あの利休かしら?」
おそるおそる、信じられない気持ちを込めて、父様に訊ねる。
はたして父様は、おかしそうな笑い声をこぼした。
「ははは、この日ノ本に利休居士という御仁は一人しかおらんぞ」
「ですよねー!」
千利休があんな面白おじさんとか世の中わからないもんだねー!
とんでもない人との縁が転がってるなんて怖いぞ、戦国時代。あんまりな真実に、腰が抜けそうだ。
そんな騒ぎように、屋敷の誰かが気づいたのだろう。ぴったり閉まっていた門が開く。
「おや、もう来たんか!」
人一人分だけ開いた門の間から、ひょっこり与四郎おじさんが顔を出した。
不思議なものだね。正体を知った今見ると、いつもと同じ愛嬌たっぷりなお顔に、よくわからない貫禄を感じる。
変な感慨にふける私をよそに、与四郎おじさんが門から出てきた。
相変わらず軽い足取りには、気負いも何もない。
「利休殿、ご無沙汰しており申す。平素は娘がお世話になっておるようで」
「これは、対馬守様。本日はよぉお越しくださいました。お世話になっておるのは手前のほうですわ。
いつも与祢姫様はこの老人の相手をようしてくださります。実に心優しく、聡い姫君でおざりますなあ」
「左様に天下の利休居士に申していただけるとは。なにやら面映ゆうございますな!」
にっこにこと挨拶を交わす父様たち。
慣れたやりとりを見せられると、こう、本物感が増すなあ。
口も半開きで見守る私に、与四郎おじさんが笑いかけてくる。
「お与祢ちゃん、ようおこしやす」
「あっ、はい! 今日はお招きありがとう存じます……」
「なんやなんや、今日は借りてきた猫みたいやなあ?」
「い、いやぁ……なんていうか、ね?」
あんたが千利休だと知って動揺してるんだよ。察してくれ。
「ふふふ、なんやそれ。まあつもる話は中でしよか。ほなら皆さん、こちらへどうぞぉ」
妙にしゃちこばる私の背中を撫でて、おじさんが私たち一行を門の中へと招く。
だめだ。調子が狂う。こんなんで落ち着いて実験に取り組めるのか、自分。
不安がぐるぐるお腹で渦巻いて、ため息に変わって喉をせり上がってくる。
でも、吐き出すのはちょっと気が引けて、無理矢理なんとか塞き止める。
そうして、私は与四郎おじさんにうながされるまま、利休邸に入った。
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