千利休はただの与四郎おじさんでいたい【天正14年6月上旬】
私たち山内家一行が通されたのは、庭に面した座敷だった。
広さは二十畳くらいか。床は全面畳張りで、柱は艶めく飴色。
見事なのは室内だけではない。縁側から見渡せる庭にも風情がある。
塀に沿って植えられているのは、常緑の枝を繁らせた松。地面には白い砂を撒かれ、丁寧に鋤きが入れられていて、所々に配された置き石の黒が鮮やかに映えている。
そんな、前世で見た禅寺の庭園にも似た、静謐の美を閉じ込めた空間だ。
「素敵ね……」
「うむ。良い目の滋養だな、これは」
感嘆をたっぷり込めて、母様と父様が呟く。
わかるよ、ふたりとも。私も、名のある美術館を訪れたような心地がしている。
頷き合う私たちの横で、丿貫おじさんも「そやなあ」と同意した。
「与四郎殿の好みは、昔から心すがしいものやわ」
「さようですか。わしも倣いたいものですね」
「ええんとちゃうか。今建てておられる京屋敷の庭で試したらどないや」
「それは名案! しからば叔父殿にもご教示願えますかな?」
丿貫おじさんと父様が、きゃっきゃと庭談義を始める。
こういう建物とか庭作りとかの話が好きだね、父様。以前からちょくちょく私相手にも庭や建物の話を振ってきていたから知っていたけど。
楽しげな父様たちを横目に、母様とのんびり庭に咲く花の話を交わすことしばらく。
ようやく与四郎おじさんが座敷に姿をあらわした。
「いやはや、お待たせしました」
つるつるの頭を撫でながら、申し訳なさそうに席につく。
「蘭引の準備に手間を取りましてな。えらいすんまへん」
「いえいえ。良い庭で目を楽しませていただきました」
にこにこと父様が返事をする。
おっしゃる通りだよ。静かな空間でゆっくりしたからか、与四郎おじさんの正体に関するショックが少し落ち着いて助かった。
お陰で今は、与四郎おじさんが父様と丿貫おじさんと、庭の話に花を咲かせるのを焦らず眺めていられる余裕ができている。
とりあえず今は母様の真似をして、お姫様スマイルで待機しておこう。
与四郎おじさんに聞きたいことは山ほどあるが、大人の会話に割って入るのは失礼だからね。
「さて、お与祢ちゃん」
ややあって話に区切りをつけた与四郎おじさんが話しかけてくる。
来た。緊張感がよみがえって、私は笑みを張り付けたまま背筋を伸ばした。
「そろそろ猫被るの、やめへん?」
「……いや、猫って言われましても」
単刀直入に来るね!?
超有名人相手に近所のおじさん的な態度で接しろって、ちょっとどころではなく気が引けるんですけど。
「お与祢ちゃんとは千宗易や利休居士やのうて、とと屋の与四郎として知りおうたやろ」
「はい、まあ、そうですね」
「せやからな、お与祢ちゃんと会うてる時は、ただの与四郎おじさんでいたいねん。あかんかな」
あかんかなって言われましても。
私みたいな子供が天下の千利休相手に気安くしたら、絶対に物議を醸すでしょ。
与四郎おじさんをリスペクトしてるお弟子さんが知ったら、きっと目を剥いて卒倒しちゃうと思う。
「いつものお与祢ちゃんやないと、おじさん調子が出ぇへんわぁ~」
返事に困っていると、与四郎おじさんがわざとらしく袖を目元に当て出した。
かなしいわ~さみしいわ~と言いつつ、チラチラしてくる目は乾いている。
あんたは親戚の幼児をからかうじいさんか。わざとらしい嘘泣きで追い討ちをかけるなんて、千利休とは思えない低レベルな小賢しさだ。
顔をひきつらせて父様たちをうかがうと、父様たちも父様たちで口の端をぴくぴくさせていた。
笑ってないで助けてよ。うろたえる娘が面白いからって見守る姿勢に入るのは卑怯だぞ、保護者トリオ!
「お与祢ちゃん、あかんか?」
「~~~っ、わかった! わかったよ、与四郎おじさん! それでいいです!!」
だからぴえん顔で見つめてこないでよ!
いかつい老人のぴえんとか誰得だ。即刻やめてほしいあまり、私は白旗を上げた。
くやしいことに、効果はてきめんだった。与四郎おじさんはころっと嘘泣きをやめ、にっこにこ満面の笑みを浮かべた。
「おおきになあ! うれしいわあ!」
「はいはい。これからもよろしくね~……」
上機嫌で頭を撫でる与四郎おじさんの手の下で、私はこっそりため息を吐く。
有名人というのは、かなり疲れる仕事だと聞いた覚えがある。
人の注目や羨望を集める立場であるため、おのずと周囲のイメージ通りに振る舞わなくてはならないことが多い。
だから彼らは、貴重なありのままでいられる場所や人、プライベートを大切にするそうだ。
与四郎おじさんにとって、私はそういうプライベートの一部なのだろう。
しかたない。ここはおじさんの希望通りにしておこう。気持ちがわからないでもないからね。
これからたっぷりお世話になるのだし、これで少し恩返しになればいいか。
そんな茶番を終えて、ようやく私たちは精油の抽出実験に移る運びとなったのだった。
◇◇◇◇◇
上機嫌な与四郎おじさんに先導されて、私たち一行は座敷から屋敷の奥へと向かう。
縁側に沿った廊下を、ぞろぞろ進む。蘭引を設置したのは、屋敷の裏庭だそうだ。
廊下の果てにある台所まで行き、お勝手口から外に出る。そこから蘭引までは、すぐだった。
「ほお、こらすごい」
目の前に広がる光景に、丿貫おじさんが目を丸くして感嘆を漏らす。
お勝手口のすぐ裏。そこには、五基の蘭引が並べられていた。
「堺中を探させたらな、大きいやつが見つかったんや」
蘭引のひとつを撫でて、与四郎おじさんが自慢げに言う。
「どうや、お与祢ちゃん。使えるかいな?」
与四郎おじさんが訊ねてくる。私は蘭引の側によって、一つ一つ観察した。
用意された蘭引の大きさは、少しずつ違う。さすがに大きさは揃わなかったようだ。
でも、どれも先日見せてもらった蘭引よりは大きい。五つ合わせれば、確実に容量は一斗以上になるだろう。
「十分よ。精油と芳香蒸留水を溜める容器はどこに?」
「それはこっちや、水瓶に細工させたもんを用意したで」
与四郎おじさんが、半分だけ地に埋められた水瓶を指し示す。
水瓶には各蘭引に付いている抽出液の排出口から竹筒製の漏斗が伸ばされていて、出来上がった精油と芳香蒸留水が集まるようになっていた。
「材料はもう入れた?」
「もちろん。おい、蘭引の中をお与祢ちゃんらにお見せしぃ」
与四郎おじさんに命じられた使用人たちが、並ぶ蘭引の一つを開ける。
中には青々とした枝葉と水がぎっしり詰まっていた。検分している私の後ろから、両親が興味津々といった様子で覗き込んでくる。
「この葉は何かしら?」
私を抱えた母様が、興味津々で首を伸ばす。
「
「橙? あの正月飾りに使う、あの橙かしら?」
「そう、その橙よ。蒸留するとね、とても心地よい香りの香油が採れるの。肌に良い薬効があるのよ」
橙、ビターオレンジとも呼ばれる柑橘類は、代表的な精油の原材料だ。
花からは甘い香りのネロリ、果皮からは苦味ばしった芳香のオレンジ・ビター、枝葉からは爽やかなプチグレインという、三種の精油が抽出できる。
今回の実験試料には、枝葉から採るプチグレインを選んだ。三種の中でも材料調達がしやすく、そこそこの採油量を見込めるからだ。
プチグレインはグリーンノート──つまり爽やかな青葉の香り──に、ほのかに甘いシトラスの芳香が混じる精油だ。
そういう香りだから、使う人の性別を選ばない。製品化しやすいユニセックスなところがメリットの一つである。
私が求めるスキンケア効果もかなり高い。皮脂腺の過剰な働きを抑えてニキビなどを改善し、肌の色つやを整えてくれる優れものだ。
おまけに橙由来の精油は、リラックス効果までそなえている。
ストレスによる偏頭痛などを和らげる作用が期待できるだろう。
「だから橙は何を取っても有用性のかたまり、採油を試みて損はない薬草なの」
そう括った私の説明に、父様も母様も目をぱちぱちと瞬かせた。
ちょっと理解が及ばなかったのかもしれない。またやりすぎたかと心配になった矢先に、父様が感心したように深い息を吐いた。
「なるほどのう、橙にそんな薬効が……与祢は博識だなあ」
「そ、そうかな?」
ドキドキしながら見上げると、父様は満面の笑みで私を抱き上げた。
ちょ、あぶなっ!? 高い! 高い!! 怖い!!!
「さすが千代の子だ、将来が楽しみだな!」
「いやですわ、旦那様ったらも~! でもそうですわね!」
「あははっ」
「うふふっ」
父様は私を高い高いしてくるくる回り、母様はそれに楽しげに眺めている。幸せオーラが容赦なく全開だ。
ひえええ。唐突に始まるバカップルモード、怖いよう。
不審感を持たれなかったのはよかったけど、これはこれで困る反応だわ。精神的に疲れるよ、色々と。
私の顔色なんて知ったこっちゃない両親から、老人コンビに視線を移す。しかし奴らは顔を背けて、ろくに目を合わせてくれなかった。
またか! 笑ってないで助けてよ!
「そろそろ香油作りを始めへんか?」
必死のアイコンタクトに、ようやく丿貫おじさんが両親に声を掛けてくれた。
「遊んどったら晩になってまうし、お与祢も目ぇ回しとるで」
「! 与祢、すまん!」
ほれ、と丿貫おじさんに言われて、両親がハッと息を飲んだ。
ちょっとグロッキーな私を見て、慌てて地に下ろしてくれる。うう、酷い目に遭った。
親がバカップルだとこんなに大変とは想定外だったわ……。
それから私のめまいが治まるのを待って、やっと実験スタートの運びとなった。
「よっしゃ! ほんなら始めよか!」
ぽんぽん、と与四郎おじさんが手を叩く。
控えていた使用人たちが、一斉に火の用意に取りかかった。
スムーズにかまどへ火が入る。ふんだんに薪を使われて、どんどん火力が上がっていく。
同時に蘭引の上部から水が注がれて、内部にこもる蒸気の冷却が開始された。
練習でもしたのかな。思わずそう思ってしまうほど、慣れた手つきで使用人たちは冷却水の注入と廃棄を繰り返していた。
そうして、私たちが軽食を食べ終えて、お煎茶を楽しみ始めた頃。
強い緑の芳香が辺りに漂い出して───
「出たー!」
私の歓声とともに、蘭引から伸びる漏斗から水瓶へ、芳香蒸留水が滴り落ちた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます