山科の生活【天正14年1月中旬】
きちんと足を揃えて立つ。息を吸って腕を前から振り上げて、息を吐いて上げた手を横から下ろす。
一、二。三、四。二回繰り返したら、次へ。
揃えた両足のかかとを引き上げて、両腕を胸の位置で交差させる。腕を横へ広げながら足を曲げ伸ばしして、腕をまた胸元で交差させながらかかとを下ろす。
一、二、三、四。一、二、三、四。
通りがかりの下女が、怪訝な顔でこちらを見ていても気にしない。集中して羞恥心から目を逸らす。
一、二、三、四。一、二、三、四。
頭の中で流すBGMは、もちろん昔懐かしのラジオ体操の曲だ。夏の爽やかな朝を賑やかに彩るピアノのメロディーを思い出しつつ、体を記憶に残る振り付けに沿って動かす。
寝起きでなまった身体が、手足の動きにつられてほぐれていく。血の巡りが良くなって、身体がほかほか温もっていく。
ラジオ体操は良い。シンプルでありながら、全身の関節と筋肉がほぐせる有能な体操だ。
腕と足をめいっぱい広げて立てる空間と、平らな地面と、一〇分程度の時間があれば足りるお手軽さも魅力的である。
今の私みたいな幼さでも、馴れてしまえば楽々とこなせる負荷の度合いもいい。
体力の少ないお子様や高齢者だけでなく、在宅ワーカーの健康維持にもお勧めだ。肥満などの運動不足からくる不調を緩和できる。
美容の基本は健やかな体。それを育てるために、今日も今日とてラジオ体操だ。
いっち、に、いっち、に。今日は調子が良いわ。このまま第二までやっちゃおうかな。
「お与祢」
第一の仕上げの深呼吸をしていると、けらけらと遠慮のない笑い声が背中にかかった。
見慣れた禿頭の老人が、母屋の濡れ縁に立っていた。
「あら、丿貫おじさん」
この頭つるつるのおじいさんは、山科の丿貫さんという。
母様の父、つまり私の祖父の弟にあたる親戚だ。
元は洛中で薬種問屋兼医者をしていたらしいが、今は引退して悠々自適のご隠居さんである。
今居候させてもらっているこの屋敷の家主でもあるから、礼儀正しく頭を下げて挨拶をしておく。
「おはようございます。今日も良い天気ね」
「はいおはようさん。して、朝っぱらから何をけったいな動きをしとるんや?」
興味深そうに丿貫おじさんは私を見ている。珍しくて仕方ないといったふうだ。
ラジオ体操なんて、本来は戦国時代に存在していないものだもんね。どう説明したものか考えながら、私は口を開いた。
「これは運動、あー、体を動かしてるのよ」
「そらまた、なにゆえに」
「健康のため、かな?」
会話をしながら第二の体操を始める。
一、二、三、四、と手足を動かして思考を巡らせる。さて、どう説明したら伝わるものかしら。
「じっとしっぱなしの人って、体が弱くて体力がないものじゃない。そういうのは、ちょっと困るなって思って」
「そなたはおひぃさんやろ。力がなかってもかまわへんのとちゃうんか」
「姫は姫でも、私は武家の姫よ。たくましいくらいがちょうど良いわ」
「ほぉん。変わったおひぃさんやなあ、お与祢は」
丿貫おじさんは目を眇めて、私の頭の先から爪先までをしげしげと眺めた。
私は新発見の珍獣か。私程度に体を動かす姫なんて、珍しいけれどそこそこいるはずだぞ?
思いっきり不満を込めて丿貫おじさんを睨む。
「いやいや、おじさんほど変わってないからね?」
「そうかの」
「そうだよ! おじさんみたいな人、見たことないから!」
はっきり言おう。私が変わったお姫様なら、丿貫おじさんは超変わったおじさんだ。
この老人は、正体がいまいちわからない。
平素は日々を野良仕事と趣味に費やし、いつも日に焼けた赤ら顔をにこにこさせて、のんびりと暮らしている。
暮らしぶりは質素そのものだ。広い屋敷に住んでいるのに使用人を持たず、自分のできる範囲で管理して暮らしている。
おかげで屋敷は少々……いや、結構ぼろいが、中はそこそこ小綺麗というよくわからない状態だった。
そんな様子だけ見ればただの田舎のおじいさんっぽい生活ぶりだが、交遊関係は妙に広い。
商人、僧侶、神父、武士、なんかよくわからない人。
さまざまな人が、ほとんど毎日のように、屋敷を訪ねてくる。
このでたらめな交遊関係は、丿貫おじさんが茶の湯を趣味にしているからだ。
母様の話では、昔の丿貫おじさんは『タケノジョウオウ』という有名な茶道家の弟子だったようだ。
そのご縁による付き合いが、隠居しても続いているらしい。
だから丿貫おじさんは、庭の隅に建てた茶室という名のこじんまりした小屋で、しょっちゅうお茶を立てている。
いや、お茶を立てること自体はお客さんが来ても来なくても関係ないか。一人でも楽しそうにお茶を立てているし。
本人曰く、茶の湯は生きる甲斐だそうだから、日課みたいなものだろう。
茶の湯といえばお高いお道具いっぱいのイメージあったが、おじさんの使う道具はあまり多くない。
シックな黒の茶碗二つに、素焼きの茶入れが一つ。
素朴な竹製の茶筅と茶杓と柄杓が一揃いあって、桶みたいな水差しと金属製の
茶釜は使い古しの鉄瓶っぽいものだけだ。
ちなみに私は知っている。茶釜代わりの鉄瓶っぽいので、時々丿貫おじさんが豆や米を煮ては食べていることを。
現在進行形で調理道具として活躍する品を茶の湯に使うのってアリなのだろうか。
というか、わりとお高いはずのお抹茶はどこから調達してきているんだろう。
お客が来ても来なくても大盤振る舞いするのに、底を尽きる気配がない。
そもそも金持ちの道楽みたいな茶の湯を、庶民な丿貫おじさんが嗜めているのはなんでだ。
本当に、謎過ぎる。
「まあ、そなたや千代みたいな変わったおひぃさんの親戚やしな」
ちょうどええやろ、と丿貫おじさんが笑う。
私の不審げな眼差しなんて、まったく気にしていない様子だ。
のほほんとした笑い声が、私の気勢を削いでくる。本当にぬらりくらりとして、掴みどころがない人だ。
だからといって、それが嫌なわけではないのだけれど。
自身が変わった人だから、私が変わったことをしていても邪険にしてこない。母様や使用人たちの認識も、丿貫おじさんに引っ張られて、最近ちょっとがばがばになっている。
だからこそ、この屋敷で私は誰に咎められることもなく、のびのびとやりたいことをして過ごせているのだ。
恩恵をたっぷり受けている身で、とかやく詮索するのもなんだかな、というような気もする。
「人間な、すこぉし変わっとるくらいがちょうどええよ。その方がおもろいしな」
口を尖らせる私の頭を、丿貫おじさんの骨ばった手のひらがぽんぽんと撫でる。
暖かい手だ。そして優しくもある。丿貫おじさんはとても変わっているけれど、とても善い人だ。
私は、いや、与祢は、何だかんだで人に恵まれているな、としみじみ思った。
「さあ、そろそろ朝飯や。千代が呼びに来る前にいこか」
「はーい」
◇◇◇
山科に住み始めて、そろそろ三週間。その間に年が明けて、天正十四年が始まった。
私の山科に来てからの日課は、今のところそこまで忙しくない。まだ六歳という幼さであり、曲がりなりもお姫様だからだ。
屋敷の外の世界では同い年の子供も必死で働いているが、私には労働の必要がない。屋敷の中で蝶よ花よと育てられるのが私の仕事なのだ。
だからやることといえば、簡単な読み書きの学習と侍女と遊ぶくらいしかない。
上級武家の女子に必要な教養や家政のノウハウを学ぶのは、もうちょっと大きくなってからだそうだ。
おかげで私は今、とてつもなく暇だった。
暇であることがある意味でお仕事なのだが、とにかく暇で死にそうだ。
なまじ労働経験のあるアラサーの私が中身なせいで、何にもしない時間がストレスになっている。
非常に、まずい。このままでは、退屈で精神が死にかねない。
とりあえず母様に暇だと訴えてみたら、綺麗な手鞠や貝合わせセットといった玩具が増えた。
うん、違うんだ。暇だけどね、私はこういう子供の遊びがしたいわけじゃないんだ。
次に佐助たち男性使用人の仕事を見学してみたが、見つかり次第で丁重に部屋に連れ戻された。
危ないし姫様が見るものじゃございませんよ、だって。ケチ。
ならば自分でと遊ぶ時間を工夫して、ラジオ体操やストレッチに当ててみたが、それにしたって小一時間も時間を使わない。
最近母様が興味を持って一緒にストレッチをしているけど、お喋りの時間が増えただけだった。
ああ、もう。にっちもさっちもいかない!
「それでわしかいな」
「うん、まあ、そういうわけなのよ」
屋敷の敷地の隅にある、小さな離れの中。
湯気をくゆらせる茶釜のかかった炉を挟んで、私と丿貫おじさんは向かい合っていた。
「おじさん、私に茶の湯を教えてください」
手をついて、額を床に擦り付ける勢いで頭を下げる。
頭上で丿貫おじさんがたじろぐ気配がした。さすがの変人も、六つかそこらの子供に土下座をされたら驚くものらしい。
でもあいにく、構っていられない。私は思い詰めた気持ちを、丿貫おじさんに思いきりぶつけた。
「毎日毎日ひたすら遊ぶってしんどいの! もう限界! このままじゃ脳みそが溶けるわ!」
「そなたはまだ女童やないか。女童らしく遊んどったらええやん」
「性に合わないの。暇すぎて頭がおかしくなりそう」
「ほんに……変なおひぃさんやのお、そなた」
ため息まじりに言われるが、別に気にはならなかった。
世間一般のお姫様と自分の解離が激しいのは、百も承知だ。転生者だか憑依者だかだもの。変で当然だ。
「変な姫で結構よ。だから、茶の湯が学びたいの」
頭を上げて、おじさんをまっすぐ見つめる。
「茶の湯は当節、他家との交流において重要な教養なのよね?
大名の総領姫なら、初歩くらいたしなむべきだと思わない?」
茶の湯……茶道というものは、二十一世紀においては高尚なイメージが強い古典文化だ。
しかし、当世の茶の湯は、流行の最先端をゆく自由度が高い芸事というポジションだ。
ある程度の身分があるならとにかく習っとけ、という必須教養的な側面もある。
この時代の上流階級の人間は、茶の湯を通して社交や人脈構築、商談などを行うらしい。だから戦国の社交界において、できて損はない芸事なのだ。
あとそれから、私個人の願望だけれど、お抹茶を飲んで茶釜の蒸気を浴びたいという理由もある。
お茶はビタミンやカテキンを多く含む健康飲料で、適度な
私が知るかぎり茶道を深く嗜む人は、肌の綺麗な人が多い。目の前の丿貫おじさんも、年のわりに良い肌艶をしている。
美容のためにも、将来のためにも、私の役に立つ。まさに一石二鳥。是が非でも、茶道はたしなむべきものだ。
「ふぅむ……確かに、そやな」
「茶の湯を習うのなら、きっと母様たちもダメとは言わないわ」
私はゆくゆく、夫と共に山内家を支える正室になる。
茶の湯を学んでおけばそれを通じて、夫の援護射撃を行うこともできるはずだ。
御家のために役立つことなら、母様もダメとは言わないだろう。
ちらりと丿貫おじさんをうかがった。腕組みをした丿貫おじさんは、視線を天井に投げて考え込んでいる。
ややあって、ゆっくりと丿貫おじさんの唇が開いた。
「ええやろ。千代にはわしから言うといたる」
「やった! おじさん、ありがとう!!」
「ただし、や」
にっと悪戯っぽく、丿貫おじさんが笑う。
「わしは教えてやれへんよ」
「えっ?」
「わしな、人に教えるのがどうにもへたくそでなあ」
「そんな……じゃあ誰に習えばいいの?」
丿貫おじさんに習う気満々だったのに困る。
眉を下げて丿貫おじさんを見つめ返すと、心配せんでいいと笑われた。
「わしの兄弟弟子を紹介したるから、そやつに教わったらええ」
「兄弟弟子?」
「せや。お弟子をぎょーさん抱えとる教え上手や。
お弟子の中には、女人もようおるて聞くよ。ええお師匠さんやと思うで」
なるほど。そういう人ならいいかもしれない。教え上手な人に習うと、何事もはかどるものだ。
丿貫おじさんの知り合いだし、多くの弟子を抱える茶の湯の師匠ならば身元を心配する必要はなさそうだ。
そこそこの身分がないと、師匠をできるほど茶の湯に造詣を深められないのだから。
「その方にはいつお会いできるかしら?」
「ちょうど今日、この屋敷に来はるで」
まじか。グッドタイミングじゃん。
「引き合わせたるでな。このままここに───」
最近聞いた覚えのある墜落音が、丿貫おじさんの言葉を遮った。
沈黙が、茶室に流れる。私と丿貫おじさんは、黙ったまま視線を交わして、それからどちらともなく腰を上げた。
「おじさん、ねえ」
茶室から音の方へ早足で向かいながら、妙に姿勢の良い老人の背中を睨む。
「はまらはったようやなあ」
「落とし穴を掘ってたの、おじさんなのか……」
「いやあ、穴掘りも趣味でなあ」
からからと丿貫おじさんが笑う。
笑い事じゃない。変な人を引っかけて、トラブルに発展したらどうするつもりだ。
気性の荒い武家と揉めたら、丸腰の隠居老人なんて首を飛ばされかねないよ。
「大事ないて。落とす相手は選んどるさかい」
まったく大丈夫に思えないんですが。
ため息を吐きながら門へと向かうと、門の前に大きめの穴がぽっかり口を開けていた。
穴の縁に滑ったように崩れた跡が見える。丿貫おじさんの目論見通り、落とし穴はきっちり役目を果たしたらしい。
「おいでやす、
丿貫おじさんがすたすたと穴の側に歩み寄り、穴の中へ声を掛ける。
穴の中でうごめく誰かが、明るい、なぜか嬉しげな声を返した。
「おぉ、丿貫殿。今日はいつにも増してええ塩梅の穴やなぁ!」
「そやろ? 今朝は夜が明ける前から仕込んだんや。尻の収まりがええやろ」
「いかにも! わての尻にぴたーっと馴染みますわ!」
がっはっはっはと弾けるような笑い声が重なる。
呆気に取られている私をよそに、丿貫おじさんは穴の中から伸びた手を掴んで引き上げた。
穴に嵌まった人物が穴から這い出す。現れたのは、年配の男性だった。
歳は丿貫おじさんと同年輩くらいだろうか。綺麗に剃り上げられた禿頭も、各パーツが大振りな顔も、見るからに上等な衣服も見事に泥まみれで寒そうだ。
しかし貧相という感想は出てこない。立ち上がった彼の背は驚くほど高く、体つきががっしりとしている。
かなり見映えがする体格だ。公家や町人には見えない。武家のご隠居、といった風情がある。
戸惑ってしまったが、とりあえず二人の老人の元へ寄った。穴から上がった老人に、持っていた手拭いを差し出す。
「こちらをどうぞ。濡れたままではお風邪を召します」
「おお、おおきに。丿貫殿、こちらのお
「わしの姪んとこのおひぃさんや。こないだ文に書いといたやろ、親戚の女衆をしばらく預かるて」
手拭いを持つ手を少し止めて、与四郎と呼ばれた老人が片眉を上げた。
「あんたはんの姪て、山内対馬様んとこの御令室とちごたかいな」
「せやせや。長浜の山内一豊殿の嫁さんや。これはその一人娘」
丿貫おじさんに背中を押され、手拭いで泥を拭く老人の前に立たされる。
「お与祢、こちらさんは与四郎殿。さきほど話したわしの兄弟弟子や」
「え、この方が?」
「せや。この与四郎殿に、そなたのお師匠さんをお願いするでな」
挨拶をするよう促されて、改めて与四郎老人を見上げる。
線の鋭い眉の下の目が私を見下ろした。その力強い眼光に、少し気圧される。
どぎまぎとしながら、私は彼に軽く会釈をした。
「初にお目にかかります。山内対馬守が娘、与祢にございます」
「これはご丁寧に。わては堺で商いをしてござります、とと屋与四郎と申します」
強い眼差しをふと緩めて、老人は口許にゆるく笑みを刷いた。
「あんじょうよろしゅうなぁ、お与祢ちゃん」
それが私と与四郎おじさんの、これから続く長い付き合いの始まりだった。
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