与四郎おじさんのお土産【天正14年3月3日】
ぽかぽか温かな、桃の節句の午後のこと。
門の方から、聞き慣れた墜落音が聞こえた。
私は筆を持つ手を止めて、ゆっくりと振り返る。部屋の隅に控えていた侍女と目が合った。
軽く顎を引いてみせる。一礼した彼女はすぐ腰を浮かせたが、廊下を渡る足音で動きを止めた。
「失礼します、姫様」
やって来た佐助が、開け放った戸口に膝をつく。ちょっとうんざりした顔をしている。
ああ、またか。大体何が起きたか察せて、ついつい苦笑を漏らしてしまった。
「今日の穴には、どなた様が落ちたの?」
「とと屋の旦那です」
佐助が即答する。私の元へ来る前に確認してきたようだ。
今日の被害者は与四郎おじさんか。ご新規さんではなくてよかった。
手習いの書を閉じて、筆を置いて立ち上がる。
「お風呂と手拭いの用意を」
「整うてございます」
「すごい、もうできてるの?」
私の着物の裾を直しながら、侍女はくすくす笑った。
「昨日、
なるほど、そういえば昨日はおじさんが泥まみれで帰ってきた。
畑仕事にしては激しい汚れ方だと思ったが、やっぱり落とし穴を掘っていたのか。
まったくもって困ったおじさんだ。
ため息を飲み込んで、濡れ縁から庭へ降りた。差し出された草履を履いて門へと向かう。
すでに心得た家人が数人、門の側に集まっていた。ご苦労様、と声を掛けて外へ出る。
「おじさん、与四郎おじさん」
門の真ん前にぽっかり空いた大穴を見下ろす。
気合いを入れて広めに掘られた穴の底には、大柄な老人が胡座をかいていた。
老人──与四郎おじさんは顔を上げる。私の姿を見つけると、彼の鋭い眉がふわりと下がった。
「おお、お与祢ちゃんか」
いかめしいご面相を柔らかくし、与四郎おじさんが手を振ってくれる。
見たかぎり、顔も体も泥まみれだが怪我はなさそうだ。
「ごきげんよう。お怪我はない?」
「ないない。今日もええ具合に嵌まらせてもらいました」
与四郎おじさんはからからと、泥まみれの禿頭を撫でて笑った。
この様子だと、与四郎おじさんは自分から飛び込んだんだろう。
丿貫おじさんほどではないが、与四郎おじさんも良い勝負の変人だ。
佐助の手を借りて穴から這い出した彼へ、呆れ半分で手拭いを差し出す。
「おおきになあ。ところで丿貫殿は?」
「朝から茶室に籠って何かしてたよ。あとで声を掛けとくね」
泥を拭った手拭いを受け取り、近くにいた小者に渡して丿貫おじさんを呼ぶよう頼んだ。
入れ替わりで侍女がやって来る。湯屋に案内できるようだ。
「湯を用意させてあるから、どうぞ。まずは汚れを落としてさっぱりしてくださいな」
「はいはい。ほなゆっくりさせていただいてきますわ」
ご機嫌顔の与四郎おじさんが頷く。
侍女の後に付いて歩き出しかけたが、思い出したように振り返った。
「ああ、そうや。お与祢ちゃん、ちょっと頼み事してええかいな」
「えーなに?」
「そこの馬にな、今日の土産を積んであるねん」
与四郎おじさんが指を差す先には、彼の乗ってきたらしい馬が一頭いた。その背には、少し大きめ木箱が括り付けられている。
「悪いけど、茶室の方へ運んどいてくれへんか?」
「あれね、わかったわ」
二つ返事で承知すると、与四郎おじさんは嬉しげにえくぼを深くさせた。
おおきに、と私の手を取って、懐から小さな包みを出して握らせた。
赤地に白い小花柄の袱紗だ。可愛らしさに頬を緩めると、開けてみ、と与四郎おじさんに促された。
そっと端をつまんで開けてみる。ころりと可愛らしい金平糖が五粒ほど現れた。
ばっと与四郎おじさんを見上げる。悪戯に成功した少年めいた顔をしている。
「さる御大名の注文品の余りやけどな。お食べやっしゃ」
「与四郎おじさん、ありがと! おじさん大好き! 最高!!」
「はっはっは、ほな頼んだで」
「任せて!」
高級な砂糖菓子(最近やっとわかってきた、この時代の砂糖って高級輸入食品らしい)をくれるなんて、さすが堺の豪商だ。気合いを入れてサービスせねばなるまい。
とびっきりの笑顔を添えて胸を叩き、与四郎おじさんを送り出す。
上手に使われてる気がしないでもないが、気にならない。
甘いお菓子の前にはどうでもいいことだ。
「佐助、よろしく」
金平糖を陽に透かしながら、佐助に命じる。
穴の埋め戻し作業にかかっていた彼が、えー、っと嫌そうに眉をしかめた。
顔へ露骨に感情が出ている。仕方がない、チップを弾むか。
文句を言いかける口へ、金平糖を一つ押し込んだ。
「頼めるよね」
上目使いで顔を覗き込む。佐助は肩でため息をこぼして、両手を上げた。
「あーもーわかりました。穴を埋めてからでいいですね?」
「ありがとね!」
るんるん気分で私はその場を後にした。
向かう先は自室だ。早く残りの手習いの課題を片付けて、茶の湯のお稽古の準備にかからなくては。
与四郎おじさんの来訪は、このところの私の楽しみだ。
茶の湯のお稽古ができるのもそうだが、だいたい何か面白いものが見られる。
彼は堺商人。現在の日本指折りの財界で、成功している人だ。
本人いわく、貸倉庫業、レンタルスペースで一財産を築いたとのこと。堺でも名の知れた店のようだ。
そんな大店の主人だが、現在はすでに半隠居だそうだ。
実務の大半を跡継ぎと番頭さんにほぼ任せていて、与四郎おじさんは趣味三昧の生活をしているらしい。
だからしょっちゅう昔馴染みの丿貫おじさんのもとへ来れるみたいだ。
そんな与四郎おじさんは訪問の際に、手土産として珍しげな品をあれこれ持ち込む。
南蛮渡りのお菓子だったり、綺麗な布地だったり、変わった形の花瓶だったり。
どこか懐かしい物だけでなく、この時代にこんな物がという物もあれば、初めて目にする物も多い。
お土産自体も面白いが、お土産に関する与四郎おじさんの語りも興味深い。
さすが商人、というべきか。お土産の来歴やおすすめポイントを語る口はなめらかで、知識が豊かに溢れている。
それでいて使う言葉はシンプルだから、子供の私の頭にもするっと入ってくる。
本当に面白いことこの上ない、人を惹き付ける話術だ。
一流のセールストークを知る機会は滅多にないから、ありがたく学ばせていただいている。
それにしても、私はつくづく運が良い。
まだ子供だからままならないこともあるけれど、それでも十分楽しく暮らせている。人に恵まれている。
神様ありがとう。人生イージーモード万歳だ。
さて、と。自室へ着いたので、一旦思考を切り替えよう。
糖分補給がてら金平糖を一粒口に含んで、文机の前に座る。
ちゃちゃっと手習いを片付けるため、私は筆を紙面に走らせた。
◇◇◇◇◇◇
与四郎おじさんがお湯から上がったら、丿貫おじさんも交えてお稽古を始める。
茶の湯、というか茶道のさわりは、一応私も知っている。
前世の高校時代に、教養の一つとして学校のカリキュラムに入っていたのだ。
そのおぼろげな記憶と与四郎おじさんのレクチャーを参考に、お手前を進めていく。
今日のお稽古内容は、初歩の薄茶手前。作法に則った入室から、すべてを終えての退室までの一通りだ。
習ったとおりに茶道具の用意をして、客をあしらい、そして茶を立ててる。
お手前中は迷っても手は止めない。間違えても与四郎おじさんは叱らず正しい手順を指導してくれるから、安心して進められる。
それでも手順が多くて、お手前の最中は無我夢中だ。
だからお手前を終えておじさんたちの採点を受ける頃には、結構疲れているのが常だった。
「ふむ、よろしやろ」
お手前を終えて丿貫おじさんの立てたお茶をいただく私に、与四郎おじさんはにっこり笑って告げる。
「だいぶ上手にならはった。さすがわらべは飲み込みが早うおますな」
「変なクセも抜けてきたし、作法も身に馴染んできとる。ええ調子やで」
「このまま稽古を続けたら一人前やさかい、おきばりやす」
「よかった……」
口々におじさんたちが下した評価は、満点に近い。
思わず大きな吐息が口からこぼれた。じわじわと達成感が胸に満ちてくる。
与四郎おじさんの指導はかなり細やかで厳しく、丿貫おじさんの評価も意外と
おかげで習い出して一ヶ月と半分ほどの評価がさんざんだったのも、ずいぶん記憶に新しかった。
そんなふたりからの称賛だ。与祢になってからほとんど初めての爽快感に、顔が自然とにやけた。
「さて、そんならお与祢のご褒美がてら与四郎殿の土産を開封しよか」
「やった!」
丿貫おじさんがそう言って、例の木箱を茶室の真ん中に引っ張り出した。
おまちかねのお土産開封タイムだ。思わず声を弾ませて、身を乗り出してしまう。
「今日は珍しいもんを持ってきたんやで」
上機嫌な与四郎おじさんが箱を開ける。
「なに、これ?」
箱から出てきたものを、きょとんと私は見つめた。
それは、金属でできていた。
サイズはそれほど大きくではない。幼い私でもなんとか両手で抱えられるくらいだ。
銅製なのだろうか。表面は赤みを帯びた光沢を放っていて、手触りはつるりとしている。
一見、茶の湯の水差しに見えるが、それにしては形も材質も変だ。
目の前のこれは金属だし、三層に別れている。
しかも、一番上と真ん中の段には急須の注ぎ口を反対にしたような管が付いていた。
見るからに水差しの役目を果たせそうにない代物なのだが。
……なんだろう、妙な既視感がある。
「こいつはな、蘭引、というものや」
「らんびき?」
聞き覚えのある言葉だ。が、いまいち思い出せない。
与祢ではなく、現代を生きた私の記憶に引っ掛かるのだけれど、うまく結び付いてくれない。
考えあぐねて、丿貫おじさんを見上げる。
片方の眉を器用に上げた丿貫おじさんは、らんびき、を手に取った。
上段を外したり、逆向きの注ぎ口を突っついたりすることしばらく。
おもむろに丿貫おじさんが、片手を顎に当てた。
「なるほど、これは焼酎を作るのに使うやつやな」
「焼酎って、お酒の?」
「せや、琉球や薩摩で作られとる酒精の強い酒や」
それは知っている。知っているが、どうやってらんびきで焼酎ができるのだろう。
「この蘭引のな、一番下の段に酒を入れるのや。
次に火ぃにかけて温め、十分温まったら一番上の段に冷水を注ぐ。
そうするとあら不思議、真ん中の段の口から強うなった酒──焼酎が出てくる」
にんまりと、おかしげに丿貫おじさんが笑う。
「これを蒸留、というそうやで」
「じょうりゅう……蒸留!? 蒸留器なの、これっ!?」
蒸留に使う器具、つまり蒸留器! 蒸留器なのか!
私の中を、頭をおもいっきり叩かれたような衝撃が走った。
どうりで見覚えがあるはずだ。よくよく見れば、この品はアランビック蒸留器に似ている。
細部はところどころ違うが、あれは元来色々な形のパターンがあったはずだ。
そういえば、大学で教授がうんちくを垂れていたな。
前近代の日本で使用されたアランビック蒸留器は、蘭引と呼ばれていたって。
江戸時代の使用例については聞き及んでいたけれど、まさかもう伝来していたなんて。ちょっと驚きだ。
「なんや、お与祢。急にどないしたんや」
丿貫おじさんが不思議そうに私を覗き込んだ。
突然食いついた私にびっくりしたらしい。くりくりとした目をさらに丸くしている。
「えっと、この蒸留器、いえ、蘭引について聞いた覚えがあったものだから……」
「なんや、お与祢ちゃんはこれ知っとったんか」
「あー……うん、ちょっと、長浜とか、大津でね。小耳に挟んだの」
興味深そうに突っ込んでくる与四郎おじさんに、適当に近江の栄えている港の名を出して曖昧な笑みを返す。
蒸留器は数百年先の前世でよく使ってました、なんて言えるわけがない。
長浜と大津か、と呟いて、老人二人は顔を見合わせた。ごまかされてくれたか不安になる反応だ。
「それはそうと! ね、これ私が使ってもいいかな?」
引きつりかけの笑みを浮かべたまま、強引に話題を変える。
「火の扱いは侍女に任せるから。ちょっとだけ、いいでしょ?」
「蘭引を使うって、あんた
怪訝そうな与四郎おじさんに訊ねられる。
丿貫おじさんも、私みたいな子供が何を、という顔だ。
まあ当たり前だよね。今の私、六歳児だしね。
焼酎製造に使う道具を使いたがったら、不審に思われるのも仕方がない。
でも私が作りたいのは、焼酎じゃあないんだな。
「お酒じゃないものを作りたいの!」
「酒やないもの?」
「ええ、そう。私が作りたいのはね」
私はにんまり笑って、おじさんたちに告げた。
「化粧水よ!」
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