おんぼろ屋敷【天正13年12月下旬】

 さて、大津の港に着いた翌日。

 三井寺詣でを終えて私たちが向かった居候先は、母様の親戚にあたる人の屋敷だ。

 場所は京の山科。観修寺かじゅうじというお寺の近くである。

 かつて医者と薬種問屋を兼業していたという親戚の人は、そこでのんびりと隠居暮らしをしているらしい。

 令和の世でも天正の世でも、医者は社会的地位が高めの職業だ。腕の良い医者ともなれば、有力者との縁も持ちやすい。

 親戚の人も例に漏れず、勧修寺の偉いお坊さんとのコネで今の住まいを得たらしい。

 山内家のような大名と同等とまではいかずとも、わりと余裕がある生活をしていそうだ。

 きっと居候生活は、まったりと不足なく送れるだろう。

 



 そう、思って来たのだけれども────

 


 

 辿り着いた場所は、気合の入ったぼろ屋敷だった。

 

 低めの土塀は煤けて崩れかけ。門に乗っている茅葺きの屋根は腐っている。

 門扉は蝶番が馬鹿になっているのかちょっと開いていて、隙間から覗く内側は雑草がぼうぼうと茂っている。

 

 おんぼろだ。

 いっそ見事なくらいぼろぼろだ。

 

 奥に見える家屋は一応屋敷と呼べる体裁は整えているけど、十中八九内部も荒れ果てているに違いない。

 しかも現在時刻は夕暮れ時。熟れた柿色の空を気怠げに鳴く鴉が舞い、裏山の薄暗い影が屋敷へ覆いかぶさっている。

 実に不気味だ。言い知れない圧迫感と、妖しげな雰囲気が醸し出されている。

 ふらっと門の影から金○一耕助か中禅寺○彦が現れて、ホラー風味の効いた本格派ミステリーが始まっても不思議ではない。

 

 率直に言おう。この屋敷、怖い。

 

 

「あの、お方様」

 

 

 荷車の側で立ち尽くす佐助が、母様の方へ振り向いた。

 

 

「本当に目的地は、このあば……いえ、御屋敷で合っておりますので?」



 佐助の頬が、心なしか引きつっている。

 あばら家と言いかけた彼の気持ちはすごくわかる。私もここが目的地とは信じたくない。

 だって、目の前の屋敷はおんぼろすぎる。

 人が住んでいる気がまったくしない。ホラー映画のセットですと紹介された方が納得できるありさまだ。

 誰がどう見ても、元医者のご隠居さんのお住まいとは思えない。

 訪ねる屋敷を間違えたと言ってくれないだろうか。期待を込めて、母様を見上げる。御付きの人々も、母様に視線を注ぐ。

 夕陽に照らされた母様が、のほほんと頷いた。

 

 

「ええ、ここが丿貫へちかんおじさんの御屋敷よ」

 

 

 マ ジ で か。


 うっかり顔が引きつった。佐助たちも固まっている。

 母様はおんぼろ屋敷を見上げて、くすくす笑った。

 

 

「おじさんはね、数寄者すきものなのよ。だからご趣味がうんと変わっていて面白いのよね」

 

 

 まったく面白くないです、母様。

 いくら渋好みの数寄者でも、このおんぼろ屋敷は守備範囲外だろう。

 意図してあばら家っぽくしてあるなら、演出の一環と言えるかもしれない。

 でも無秩序な荒廃は、数寄というやつではない気がする。たぶん。いや、間違いなく。

 これを侘び寂びだと主張したら、千利休も卒倒するのではないだろうか。

 

 

「さ、遅くなっちゃったし入れてもらいましょ?」

 

 

 母様がおっとりと促してくる。

 私と佐助は顔を見合わせた。今日は彼の気持ちがよくわかる日だ。

 もう一度おんぼろ屋敷を見る。やはり誰かがいる気配は感じ取れなかった。

 視線を佐助へ戻す。小さく顎を引くと、彼の肩が心なしかため息を零した。

 

 

「……お方様、御屋敷の者の姿が一向に見えぬのですが」

 

 

 母様を除く全員の気持ちを、佐助が口にする。

 ぼろさはさておき、おんぼろ屋敷の敷地はそれなりだ。いくら貧乏でも、家事を任せる下女と使い走りの小者が一人か二人は必要になる広さである。

 にもかかわらず、おんぼろ屋敷からは人の気配がしない。生活感もなく、手入れがずいぶんと怠られている状態だ。

 とうてい人が住んでいるように思えなかった。

 

 

「おじさんはお一人住まいなのよ」


「ここに!?」


「勝手気ままに暮らしたいんですって」

 

 

 意味がわかるようでわからない理由だ。開いた口が塞がらない。

 

 

「でも確かに人の気配はしないわね。お留守かしら」

 

 

 母様が小首を傾げる。アラサーの人妻らしからぬ可愛げがあるが、今それを発揮されても困る。

 

 

「母様、お留守というより誰もいないんじゃない?」


「そうかしら。声を掛けてみましょうか」


「ええー……誰か出てくると思えないよ」


「やってみなくちゃわからないわよー」

 

 

 袖を引く私を気にも留めず、母様は口元に手を当てて声を張り上げた。

 

 

「おーじーさーん! 千代がまいりましたよー!!」

 

 

 大きな声が暗い門の奥に吸い込まれる。

 返事はない。遠くでカラスが鳴く声が聞こえるばかりだ。

 やっぱり誰もいないんじゃないか。じろりと母様を見上げる。私の眼差しで意地になったのか、母様はまた口元を両手で囲った。

 

 

「丿貫おじさーん! 千代でございますよー! いらっしゃらないのー!?」


「ちょ、お方様っ」

 

 

 門に向かって歩き出した母様の前へ、佐助が割って入る。

 それと、同時だった。

 

 

「不用意に門へ近づかれるの、うぁ、あぁぁぁっ!?」

 

 

 呆気に取られる私たちの前で、佐助が消えた。

 

 

「えっ」

 

 

 どしゃ、と、ばしゃ、の中間くらいの湿った墜落音があたりに響く。

 その余韻が夕暮れの薄闇に吸い込まれると、静寂があたりを包んだ。

 

 

「佐助ぇぇぇっ!?」

 

 

 微かに聴こえる呻き声で我に返える。

 だめだ。驚きすぎて二呼吸分ほど思考が停止していた。

 大急ぎで駆け寄ると、母様の足元近くのその場所に大きな穴が開いていた。

 

 

「えっ、穴!?」


「まあまあ、立派な落とし穴ねえ」


「笑ってる場合じゃないってば、母様っ! 佐助、大事ない!?」

 

 

 穴の中に向かって、大声で呼びかける。

 

 

「……無いように見えます?」


「だよねー……ごめんねー……」

 

 

 じとりと見上げてくる佐助から、私は申し訳なくて目を逸らした。

 佐助が落ちた穴は、わりと深い。中で立っても縁が佐助の肩くらいまである。そこへ不意打ちで落ちたのだ。そりゃもう、かなり痛かっただろう。

 しかも穴の底に水が溜まって、ぬかるんでいたらしい。仰向けに嵌っている佐助は見事に泥まみれ、藁まみれになっている。

 明らかに自然にできた穴ではない。意図的に掘られた落とし穴に違いなかった。

 わかりやすいおんぼろ屋敷だから、近所の子供の悪戯のターゲットにでもされているんだろうか。

 げんなりしつつ他のお供の者に佐助の救出を頼むと、護衛と小者がすぐ佐助の救出に取りかかった。

 だが穴は半端に深く、中に粘り気のある泥が溜まっている。佐助が自力で脱出しようにも滑ってしまうし、外から手を差し伸べても一緒に落ちかねない。  



「おーい、何してはるんやー?」

 

 

 どうしたものかと悩んでいる私たちに、間延びした声が掛かった。

 驚いて振りむいた先、おんぼろ屋敷の塀の角から、手拭いを被ったおじいさんが顔を覗かせていた。

 畑から帰る途中の農家さんのようだ。

 使い古した野良着を着て、右に大根入りの籠、左に水桶を掛けた天秤棒を担いでいる。

 鎌すら携えていない丸腰のおじいさんに、護衛たちもすぐ警戒を解いた。

 

 

「いやあ、連れの者が穴に落ちてしもうてな」


「ほお、穴? どのあたりのや?」


「そこの門前のだよ」

 

 

 苦笑いを浮かべた年長の護衛が、佐助の嵌まった穴を示した。

 亀のように首を伸ばして覗き、ありゃまぁ、とおじいさんは気の毒そうな顔をした。

 

 

「あすこに嵌まってしまわはったんかぁ。そりゃ難儀しておられますなぁ」


「そうなんだ、存外に深くてなあ。ご老体、梯子か何か貸してもらえんか」


「ええで。梯子やったら、うちにあるさかい。すぐ持ってきたるわ」



 すまなそうな護衛の頼みに、おじいさんは胸を叩いて快諾してくれた。

 見ず知らずの人間を二つ返事で助けてくれるなんて、めちゃくちゃ良い人だ。おじいさんの手拭いを被った頭の後ろに光が射している気がしてきた。

 ふと、天秤棒を下ろすおじいさんと目が合った。

 にこっと笑うおじいさんに、私は深めに頭を下げる。

 身分を考えれば良くない行動かもしれないが、感謝はちゃんと示すべきだ。



「あら?」



 頭を下げた私の横で、母様が小さな声を零した。



「母様?」


「あら、あらあら」



 袖を引いたが、母様は気付かない。目を大きくさせて、おじいさんに近づいていった。

 手拭いの中を覗き込まれ、おじいさんも目をぱちくりとさせて母様を見返す。

 びっくり、を言葉を使わず表現する二人の目元に、どことなく似ているものを感じる。



「おんやまあ! そなた、もしや千代やないか!?」


「やっぱりおじさんでございましたのね!」



 母様とおじいさんが満面の笑みで声を上げた。



「どちらさんの奥方様かと思うたら、まあまあ。立派になってもうて、誰やわからんかったわぁ」


「うふふふ、ずいぶんご無沙汰しておりましたものねえ」


「ほんまにのう、最後に会うたのはそなたの祝言の時やったかな?」



 私たちを置いてけぼりに、母様たちが盛り上がっている。

 会話の内容はずいぶん親しげだ。長年会っていなかった親戚同士みたいで、私や護衛たちは顔を見合わせた。



「お、お方様。そちらさまは、あの、どちらさまで?」



 ためらいがちに年嵩の護衛が母様へ声をかける。

 少女めいた仕草で振り向いた母様が、ややあって「ああ!」と何か思い出したように手を打った。

 あっ、これ覚えがある流れだ。さっきも同じ流れがあった。嫌な予感がぷんぷんする。



「こちら、丿貫おじさん。わたくしの父上の弟君よ」


「それってつまり、こちらが私たちを居候させてくださる、という……?」



 まさかの思いを込めて投げた問いを、母様はにっこり笑顔で打ち返した。



「ええ、その親戚のおじさんで、この御屋敷の主でらっしゃるの!」


「ま、そういうこっちゃ。あんじょうよろしゅうなあ」



 カッカッカ、とおじいさん───丿貫おじさんがあっけらかんと笑う。

 明るく大きな笑い声に、カラスの間抜けた鳴き声が被った。

 だめだ。思考がついていかない。

 穴の底に目を逸らす。まだ落ちたままの佐助が、「まことですか……?」と引き笑いで呟いた。

 返事の代わりに、私はそっと視線を外した。

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