願掛け坂

Mondyon Nohant 紋屋ノアン

 

 ドアがいきおいよく開き、社長が室内にとび込んできた。

「例の特許、申請が通ったぞ」

 開発部のスタッフ全員が歓声をあげて立ち上がり、僕に身体からだを向けて拍手をした。

 出願から一年弱、異例いれいのスピードでの特許取得とっきょしゅとくだ。

「よくやった」

 社長は僕に握手を求めた。

 特許を取得したのは、強弱の波をもつ動力を効率的に平均化する可変径楕円かへんけいだえんギアという機構きこうだ。二年前、僕が二十三歳の時に考案し、ほとんど独りで開発した言わば僕の「作品」である。それがついに日の目を見たのだ。嬉しかった。でも僕は社長のようにはしゃぎまわるほど喜びはしなかった。成功を確信していたからだ。僕は一年前、願掛がんかけをした。そして、通り、願いはかなった。それだけのことだ。

 実家の裏に坂道がある。幅二メートル弱、勾配八パーセントの急な坂道で斜辺距離は五十メートルだ。丘の上の古い神社へと続くこの坂道を僕は願掛け坂と呼んでいた。

 願掛けには家にある古いママチャリを使う。作法さほうは簡単だ。坂の登り口から自転車をぎ出して、一気に坂を登り切る。坂を登る間、一度も足を地面に着けず、そして、誰にも追い越されなければ願いは叶う。願掛けは一度しかしない。何度もすると、しつこいと神様に嫌われる。神様はいさぎよさが好きなのだ。僕はそう思っていた。

 市の絵画コンクール金賞(小学校五年生の時、僕の願掛け第一号だった)、同じく作文コンクール主席入選。剣道の段位取得、英検、漢検、数検、他、様々な検定試験の合格、県内最難関の県立高校合格、国内最難関の国立大学合格などなど、願掛け坂の御利益ごりやくは数えきれない。

今までで願いが叶わなかったことは一度しかない。中学三年の時だった。好きな女の子からチョコレートをもらいたくて、願を掛けようとしたことがある。バレンタインデーの前日だった。いざ願掛けをしようとしたら自転車が見当みあたらない。隣の家の弥桜みおちゃんに貸したと母は言った。陽がすっかり落ちたころ、彼女は自転車を押しながら帰ってきた。チェーンが切れたと言う。その日のうちに自転車は直らず、僕は願掛けができなかった。翌日、僕は意中の女の子からチョコレートをもらえなかった。彼女のチョコレートを獲得したのはクラスの人気を僕と二分していた僕の親友だった。しかしこれは、自転車が壊れて願掛け自体じたいができなかったのであって、叶わなかった願い事としてカウントすべきではない。つまり正確には、坂道願掛けの成就じょうじゅ率は百パーセントと言っていい。

 成就率百パーセントには秘訣がある。僕は叶う確率が高い願い事しかしないのだ。例えば宝くじの当選などは僕の願掛けの対象ではない。成功の絶対条件は努力だと思う。僕は神頼みの前に出来る限りの努力をし成功の準備をする。願掛けは努力の最終確認に過ぎない。

 因みに、バレンタインデー当日、学校から帰った僕に弥桜はチョコレートをくれた。前日、彼女はうちのママチャリで家から五キロも先にある洋菓子店までチョコレートを買いに行ったのだ。以後、彼女は毎年必ず、同じ店で買ったバレンタインチョコレートを僕にくれる。

 社長と入れ違いにボブヘア―の美人が来室した。広報部の鏡子きょうこさんだ。鏡子さんは大学時代の後輩である。ミスコンで優勝したほどの美人で三か国語を話すような才媛さいえんなのに、冷たい印象がまったくない。やさしさがスーツを着て歩いているようだと僕の親友は言う。大学を出てわずか二年だが、部内の誰よりも仕事をこなす。しかも社長のひとり娘だ。当然、会社内外の独身男たちの憧れの的である。ただ、彼らには申し訳ないが、今のところ彼女の心をとらえていると思われる男性は、二名だけだ。

 数週間前、僕は社長に呼び出された。

「娘はお前と弘中ひろなかのどちらかに気があるらしい。俺はお前の味方だけどな」

 社長はたぶん弘中にも同じことを言っている。

 弘中は小学校時代からの僕の親友だ。気のい奴で、僕とは兄弟以上の仲である。中学時代、僕の意中の女の子からチョコレートを獲得したのは彼だった。彼とは高校も大学も、そして、就職先も同じだった。経済学部出身の弘中は営業部で、工学部出身の僕は開発部で働いている。

 鏡子さんは、開発部のスタッフたちに軽く会釈をしながら僕の席までやって来た。そして、僕に顔を寄せ、

「先輩、明日の日曜日の夕方、一緒にお食事しませんか? ご相談したいことがあります」と、ささやいた。

 僕は「やった!」と、心の中でガッツポーズをした。

…弘中、すまない。お前はいい奴だし、僕より少しイケメンで若干じゃっかん優秀で幾分いくぶんやさしい。そんなお前の方が鏡子さんにはお似合いだとは思うけど、これだけは譲れない…。

 鏡子さんが部屋を出た後、開発部長が僕の名を呼んだ。

「君のを組み込んだプロトタイプが今日あたり君の実家に届いているはずだ。明日の朝にでも検証してみてくれ」

 僕は母に電話し、家に荷物が届いているかどうか確認した。 


「おニイ、誕生日おめでとう!」

 帰宅すると、エプロン姿の弥桜が玄関の上がり口で待っていた。弥桜の笑顔を見ると僕はどんなに気持ちが沈んでいる時でも、条件反射的に笑ってしまう。その日はこれ以上なく上機嫌じょうきげんだったから、大笑いしてしまった。弥桜の笑顔を見ると幸せを感じるのは何故だろう。僕は時々、考える。

 すっかり忘れていた。今日は僕の誕生日だ。去年も一昨年も、僕は仕事にかまけ自分の誕生日を忘れていた。弥桜は僕の誕生日をおぼえていてくれて、毎回、僕の家に食材しょくざいかかえて押し掛け、母と一緒に食べきれないほどの御馳走ごちそうをつくって祝ってくれる。

 弥桜は隣の家の娘で、僕より四歳年下の幼馴染おさななじみだ。弥桜の両親と僕の両親も幼馴染で、両家のつきあいは四十年以上続いている。ちいさいころから毎日の様に僕の家に遊びに来ていた弥桜は、僕にとって実の妹のような存在だった。

 父と母は、もうテーブルの前に座っていた。御馳走の真ん中にバースデーケーキがおいてあった。弥桜のお手製だ。弥桜は製菓専門学校を出て、現在は洋菓子店でパティシエをしている。弥桜が作るケーキは評判が好い。グルメ雑誌で紹介されたこともある。

「弘中君も呼べばよかったな」

 僕がローソクの灯を吹き消した後、父が言った。

「僕自身が誕生日を忘れていたのに、呼べるわけないじゃないか」

 今年、弘中は僕にバースデーメールをくれなかった。鏡子さんのことがあるので、僕も彼とは顔を合わせたくなかった。

昨日きのうわたし、弘中さんがすごく綺麗きれいな人と歩いているのを見たわ」

「どんな人だった?」

 僕は弥桜の顔をみた。

「ボブヘアの女の人。やさしそうな感じの人だったわよ」

 鏡子さんだ。

「おニイ、その人、知ってるの?」

「まあな」

 弥桜は僕の表情から何かを察したらしい。

「もしかして、その人、好きなの?」

 僕は黙って、弥桜の顔を見た。弥桜は笑っていない。不思議そうな顔をして僕の目をじっと見ている。綺麗だ、と僕は思った。

…このはこんなに綺麗だったんだ。何故いままで気がつかなかったのだろう…

「女の勘だけど、彼女、弘中さんとデきてるわよ」

 弥桜は笑顔に戻って言った。

「でも、心配しなくていいよ。おニイがその人にフられたら、わたしがおニイの彼女になってあげる。お嫁さんになってあげてもいいよ」

「ほんと! ねえ、あんた、その人にフられなさいよ。そしたら弥桜ちゃんがお嫁にきてくれるのよ」

 母がケーキを切り分ける手をとめて僕に言った。

「どこの世界に息子の失恋を期待する母親がいるんだよ」

 家族は声をあげて笑った。

 誕生パーティーの後、僕は車庫に行き会社の工場から送られてきた荷を解いた。

「これが僕が発明した可変径楕円ギアだ」

 僕は弥桜に、プロトタイプに組み込まれた僕の「作品」の説明をした。

「不思議な形のギアね」

「明日、使ってみてくれ。女性の意見がききたい」

 何か愛しいものを見るような目をして僕の「作品」に見入る弥桜を、僕は美しいと思った。


 次の朝、僕は願掛け坂の登り口にいた。

 この坂を誰にも追い越されずに登り切ったら、僕は鏡子さんと一緒になれる。そして行く行くは一部上場輸送用機器いちぶじょうじょうゆそうようききメーカの社長だ。準備不足の感はいなめないが、僕はこのチャンスを逃したくない。僕がぎだしたママチャリは順調に坂を登っていった。

 あと二十メートルで僕はサクセススロープを登りきる。僕は自転車を漕ぐ足に力を込めた。

 そのとき、背後でチリンというベルの音がした。

「この自転車、すごく軽いね。空を飛んでいるみたい。おニイは天才だわ」

 僕の「作品」を組込んだ自転車を軽々といで、弥桜が僕を追い越していった。

                                   (了)

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