第8話 あの一瞬の涙を忘れたとは言わせない
どれほど焦がれても姫様は後白河院の娘。手が届く人じゃない。
それに引き換え自分は、父が出家してからは任官でさえ危うい。歌のほうでは何とか認められて、歌合せに参加させてもらえるようになって。
そして男として結婚せざるを得なかった。妻帯しなければもっと任官が難しくなる。
オレは心に蓋をして社会的地位の階段を上がるために22歳で妻を娶った。
だがとある歌会で、あのひとは、
「玉の緒よ たえなばたえね 永らへば 忍ぶる事の よわりもぞする」
と、詠んだ。
オレは冷水をぶっかけられた心地だった。
余震は続いていたのに、静かに箏を爪弾いておられた。
御簾の裾をふわりと揺らして風のように入り込む。
楽器に向かう背中を抱きしめたら、ひどく落ち着いた声がした。
「何をなされます、定家どの」
オレは、ああ、あの歌は単なる題詠、「忍ぶ恋」を詠めと言われたから詠んだだけだったのか、自分への想いを込めてくれたなどと妄想した自分が恥ずかしくなって。
「失礼致しました、内親王さま」
腕の力をすっと抜いて立ち上がり、御簾を出ようとすると衣擦れの音がオレを止めた。
「あなたは……、なぜ、なぜ……」
姫様は立ち上がり、オレの背中に拳を振り下ろしながらむせび泣いていた。予想もしなかった内面の発露にオレは身体中硬直して、御簾のほうを向いたまま、
「姫様……、お慕いしております……」と呟いた。
「今頃、それを言いますか……、私の容色が衰えた今になって……妻を持ち、子をもうけた後で……!」
絞り出された声がオレの心を掻きむしった。
「ひめ……さま? 姫様は今でもお綺麗です。私こそこのように見苦しい。地位もなければ歳も釣り合わぬ、あなたに想いを告げるに足るものなど何も……ない。初めてご尊顔を拝した時から、
「口では何とでも……言えましょう。あなたの歌が絵空事の恋を騙るように……」
「そらごとではない!」
背中にあった愛しい温かみは離れ、残された涙の痕がすうっと冷えた気がした。
「出て行ってたもれ。
振り返ると紫の
「愛しています。のりこ……」
そう言っても振り返ってはもらえなかった。
家には妻と子供が待つ身。姫様は元斎院。出家する、清い身体のままでいたいと言われれば、もう一度抱き締める勇気もない。
すごすごと御前を辞した。
次第に
言えない言葉があるから余情が醸し出されるのだ、思い余るから心に響くのだ。それが私の歌の極意になった。
姫様は出家されてその後体調が崩れ、何度もお見舞いに伺った。同じ空間にはいさせてもらえたから。離れていても、体温が感じられなくとも。
二度と御簾の中には入らなかった。あのひとも衰えた姿を見せたくないだろうと思って。
逝ってしまわれてから私は当分使い物にならなかった。
あのひとの和歌に包まれていたら幸せだった。山荘の壁を飾る
「堪え忍び隠すことができないなら死んでしまっていい」とまで詠ったひとだから、ごまかすためにいろんな歌人の歌を集めて100枚の色紙にすることにした。
自分の一首は
「来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに やくや藻塩の 身もこがれつつ」を選んだ。
来てくれない姫様、来ないと分かっているあのひとを待ちながら身を焦がしている。
あの日振り返ってくれなかった。化けて出てもくれない。白い部屋で待っていようと、生き生きと新しい生を全うしようとするあのひとの魂。
オレは、ボタンを………………。
空は真っ暗で星が瞬いていた。
生前、56年間もつけた日記があった。珍しい星を書き留めたりもした。眠れぬ夜に。あのひとを想う夜に。
ハルヒに対する責任を取らねば。自分の身勝手で彼女の人生を狂わせってしまった。
ハルヒはハルヒであって式子ではない。オレのあのひとは確かに死んだんだ。あの日オレを置いて、いなくなってしまったのだから。
のそりと起き上がって小屋に向かった。
ハルヒはオレの上着を汚いものでもあるかのように投げ飛ばして、その代わりに周囲にあった夜具や布類全てを全裸に巻き付けて眠っていた。蚕だな、と思った。
そのまま抱き締めて寝ることにした。
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