第7話 平安最後の大恋愛だったはずだろう?



 呆然と池に取り残された。


 参ったな。「式子のりこはおまえだよ」と言っても信じないだろう。後付けだと疑われるだけだ。




 後を追うことはできなかった。小屋に戻る気にもなれない。

 一枚きりしか持っていないローブを濡らしてここに脱ぎ捨てて行ったのだ、魔法で着替えを出してやらねばと思っても動けなかった。

 池の端で両腕を枕にして、暮れていく空を見ていた。




 オレを置いてさっさと死んで何度も転生して、もう式子だった記憶もオレのことも欠片も残ってないのか。


 オレは必死で捜したよ?


 オレの想いびとはどこの天界で誰になっているのか。


 オレたちの共通の現世、第16天界に居ることが分かって、どれ程嬉しくどれ程狂おしく待ち焦がれたか。


 あの白い部屋の壁に映画のように映し出されるハルヒの日常を、飽きることなく眺めていた。早く死んでほしいと願ってしまう自分を日々戒めながら。




 内親王宣下、賀茂斎院に上がった10歳の年、オレは13も年下だから見ることも叶わなかった愛らしい頃。


 大人になっても何やっても追いつけなかったあのひとの人生になぞらえて、ハルヒの成長の日々を見ていた。




 目の前には誘惑のボタン。



 何もない真っ白な部屋の片隅、壁の一か所だけ黄色く塗られ、床に四角く飛び出した、白地に赤のボタン。「押すな!」「危険」とウザいほど書かれている。




 まだ足が無かったオレはそのボタンの上を何度も何度も浮遊して、手を伸ばしかけて、引っ込めて。




 妄執の塊のオレにたった一度だけ許された、生者を殺して自分のもとに引き込む手段。自然の生死のことわりを無視した許されない暴挙。


 相手が伴侶となることを拒めば、自分は闇落ちし二度と肉体を得ることも輪廻することもできなくなる。砂塵となって無に帰す末路。




 ハルヒの年齢が上がってくる。気になる男子も出てきたようだ。


 中学、高校と進んで、オレはみていられるのか?


 あのひとであるハルヒが、どこかの馬の骨に肌を許すところを、この白い部屋の中で眺めていられるのか?




 ハルヒがあのひとなら、オレに会えばきっと分かってくれる。このボタンを押しても許してくれる。そう思ったのが傲慢だ。




 ハルヒはオレが誰かも自分が誰だったのかも気付かない。記憶はキツく封印されてしまっている。






 初めて会ったのはオレが7歳、あのひとはもう20歳だった。体調を崩されて斎院を辞し、三条第さんじょうだいに来られた。思い出が心を渦巻く。






―◇―




 父上が歌の勉強を見て差し上げているお姫様が神社から帰ってくるって話だった。




「何かお手伝いできることはありませんかと伺ってこい」って言われて、ぼくはどきどきしながら知らない牛車が止まった局に行った。




 きらきらなお姉さんがたくさんいて、いろんなお香の匂いに急に咳き込んでしまって。


 一斉にみんながこっちを見たからよっぽど焦って。




 そしたら顔見知りの女房さんが


「あら、すえみつくんじゃない」って。


 だからぼくは気を付けして、


「いえ、さだいえです」って言ったんだ。新しい名前をもらったばっかりだったから。




 一番髪の毛が長くてきれいですらっとしてたのがあのひとだった。


「さだくん、お父様のお加減はいかが?」って聞いてくれて、


「ちょっとお咳が出るくらいです」って答えた。


 するとにっこり笑ってくれたんだ。




―◇―






 顔が見られたのはこの時だけだった。オレが成長するにつれ、後は御簾か扇でいつも隠された。


 父上と和歌の修練をするときも、御簾越しに文をやりとりして。


 それでも父の添削に相槌を打ったり恥ずかしがったりする声が聞けるから嬉しくて、よく同席させてもらった。


 お箏などを弾かれることもあったな。風流のトップにおられた方だ。




 オレの身体は弱かった。13で麻疹にかかったときは、子種がなくなるかもと言われた。15で疱瘡をやった時なんぞ、そのまま死のうと思った。罹ったら半数は死ぬんだし、生き残っても見苦しい痕が身体中に残る。もう姫様に会える顔じゃなくなるのだから。


 思春期に自分が見る影無く醜くなったのは堪えた。




 19歳になってやっと勇気を出して伺候したら、御簾の向こうに何ら変わらないあのひとがいた。薫物の香りも、楽の音も。


疫神えきじんに奪われずようございました」と、静かに一言お声かけくださった。




 歌のやり取りはずうっと続いていた。姫様は父の弟子のひとりなのだから、オレを相聞歌の練習台にしたっていい。


 秀逸な恋の歌を見せていただくこともあった。その度に、あり得ない、オレのような青二才を姫様が相手にするわけがないと否定して、夢を見ているのはオレだけだと自分に言い聞かせる。


 その証拠に、ほんの少し踏み込んだ返歌を差し上げると、その次は花鳥風月の歌を寄越した。


 あのひとはいつもぎりぎりのところで内なる想いを秘めてしまって。




 後年になって気付かされた、言えない言葉に意味があるのだと、敢えて言わないところに幽玄はあるのだと。


 父俊成しゅんぜいの説く朗々と謳いあげる風ばかりが和歌心ではないのだと。


 オレは全くあのひとには敵わない。




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