家に帰ってからも瑞希の気分は優れなかった。

 航平は所轄の仕事があり、瑞希を家に送り届けてから西生田署へと向かった。その後一人になった瑞希は、色々と考え、より一層気分は滅入って行ったのだ。

 任務の失敗。由咲のこと、母親のこと、これからのこと。そして金井に襲われ、またも男の恐怖を感じたこと。そして梅沢に感じた違和感。これらのことが頭でぐるぐると巡り、気持ちは滅入っていくばかり、瑞希は机にぐったりとうな垂れていた。

 午後九時を過ぎた頃、玄関の扉が開く。


「瑞希? いるんか?」


 航平が家に入ると部屋は真っ暗だった。すぐに玄関横にある灯りを点ける航平。するとそこには机にぐったりとうな垂れた瑞希がいた。


「どうした、瑞希?」


 航平は慌てて瑞希のそばに駆け寄る。


「ああ、航平・・・ お帰りなさい・・・」


 瑞希の目は虚ろで、顔色も悪い。


「おい・・・ 大丈夫か?」


 航平は心配そうに瑞希の顔を覗き込みながら背中を擦る。


「うん、大丈夫・・・ ああ、もう夜か・・・」


 瑞希は夜になったことさえ気付いていなかった。


 寝ていた、そういう感じではない。生気の抜けた瑞希を見て、航平は不安になる。きっと今日の出来事が、瑞希の心を不安に陥れているのだろうと。


「こんなところで寝てたら風邪ひくぞ?」


「うん・・・」


 航平はそう言って、瑞希の肩に上着を掛けた。


「瑞希、飯まだやろう? ラーメン食うか?」


 航平は瑞希を少しでも元気付けようと、大好きなラーメンを作った。とは言ってもただのインスタント、お湯で茹でただけのものだ。しかしトッピングとして、ゆで卵をのせた。 

 それでも瑞希の箸は進まない。喉を通らない様子だ。


「不味いよな? 無理して食べなくてもええぞ」


 そんな瑞希に航平がやさしく声を掛ける。いつもならご飯を残すと怒る航平だが、さすがに今日は瑞希の心情を汲み、怒らない。


「やっぱり屋台のラーメンのようにはいかんよな。さすがはプロやわ」


 そう苦笑いを浮かべる航平に、瑞希は突然、「航平!」と言って、胸へと飛び込んで来た。


「お、おい。どうした?」と、驚く航平。


「私、私・・・」


 航平がいることで、瑞希の不安が溢れ出た。


「学園に密偵がいるって、それって・・・ 学校でできた初めての友達。由咲かもしれない・・・」


 梅沢にも言えなかったことを、航平には打ち明けた。


「やっぱり、そうやったんか・・・」


 航平は気付いていた。しかしあえて自分からは梅沢に言い出さなかった。瑞希が友達を違うと、信じたいという気持ちが痛いほどわかったからだ。


「由咲だったら、どうしよう・・・」


「まだわからへん。違うかもしれんやないか」


「でも、でも・・・」


 瑞希は航平の背中に手をまわし、ぐっと力を入れ抱き付く。その力の強さこそが、瑞希の思いなのだと航平は感じる。


「大丈夫、大丈夫」


 航平はやさしく瑞希の背中を撫でる。


「もし、そうだったら、任務に失敗した私はどうなるの? お母さんは・・・ お母さんはどうなっちゃうの? 由咲とはもう、友達ではいられないの・・・?」


 そう言って涙を流す瑞希。


 瑞希の中ではもうわかっている、今度こそ後がないと。もし失敗すれば自分は、お母さんは今度こそ梅沢に切り捨てられると。瑞希はそれがわかっているのだ。だから不安で怖くてしかたないのだ。


「俺が守ったるから。瑞希も、お母さんも、俺が必ず守ったるから。心配するな」


「航平・・・」


 まるでドラマのワンシーンの様な言葉。誰にでも言えて、気休めで、こんなの不確で安っぽい言葉に、なんで人は心が動くのだろう、なんで感動するのだろう、瑞希はずっとそう思っていた。けど航平に言われて気付く。頼れる人に、安心をくれる人に、大好きな人に、守ってやると言われることが、どれほどうれしくて心強いことかを。泣いてしまうほど、うれしいことかを。瑞希は航平の言葉に、素直にそう感じたのだ。


「航平、ラーメン食べようか?」


「えっ? ああ」


 少し元気を取り戻した瑞希はせっかく作ってくれた航平のラーメンに箸を付ける。しかしラーメンはスープを吸い、完全にのびている。


「これはあかん。スープがないわ」と、航平。


「本当だね」


「もう一回、作り直すわ」と、航平が丼を持った。


「待って、これでいい」と、瑞希は航平の腕を掴む。


「えっ? でもさすがにこれは・・・」


「これがいい」


 瑞希はそう言って航平を見つめる。


「そっか、わかった」


 そして二人は椅子に座り、改めてスープの無いラーメンに箸を付ける。


「本当に麺だけだね?」と、瑞希。


「そうやな」


 二人はそう笑いながら、のびたラーメンを完食した。


 その夜、航平がお風呂から上がるのを待っていた瑞希は、航平が布団に入ると同時に、布団へと潜り込んだ。


「お、おい!」


「お願い、今だけ」


 上目使いで願う瑞希に、呆れながらも許す航平。今日のいろんな出来事を考え、誰かに寄り添ってほしいのだろうと言う瑞希の心情を察したのだ。

電気を消して、月明かりだけが入る部屋で、瑞希と航平は並んで眠る。


「ねぇ、航平。航平はなんで警察官になったん?」


「えっ? ああ、兄貴の影響かな~」


「お兄さんの?」


「うん」


「どんなお兄さんやったん?」


「う~ん、そうやなぁ~ 正義感が強くて、誰にでもやさしい人やった」


「そうなんや、素敵なお兄さんやね」


「ああ。自慢の兄貴や」


 航平は正義感が強く、誰にでもやさしい兄を尊敬していた。そして警察官としての兄に憧れていたのだ。


「航平はお兄さんに似てるんやね?」


「えっ? 俺が?」


「うん。やさしいところとか、正義感に強いところとか」


「そうかな・・・」


「そうだよ」


 瑞希はそう言うと、航平の腕にぎゅっとしがみ付いた。


「おい、こら!」


「今日だけ、今日だけだから」


「まったく・・・」


 瑞希の行動に呆れる航平。しかし笑みを浮かべる瑞希を見て、航平は少し安心した。さっきまでの生気のない表情はなんとか脱したようだと。


 すると瑞希は左手で航平の右手を掴むと、自分の左胸へと運ぶ。


「えっ? お、おい。瑞希!」


「お願い! ちょっとだけ、ちょっとだけでいいから。こうしていて」


「瑞希・・・?」


 瑞希の行動に眉をひそめる航平。


「今日、金井に掴まれた感触が消えないの。前にも密売人の男に掴まれた。思い出しただけでも吐き気がする」


 金井に、密売人の男に鷲掴みにされ、激しく掴まれた感触が消えない。思い出す度に瑞希は、恐怖と気持ち悪さに体を震わしていたのだ。

 瑞希が強く掴んでいる航平の手に、心の痛みみたいなものが伝わって来る。

 すると航平は瑞希の首元に自分の手を入れ腕枕すると、ぐっと瑞希の体を抱き寄せた。そして瑞希の額に唇を寄せ、右手はやさしく左胸を撫でる。

 思わぬ航平の行動に瑞希の心臓は飛び跳ねる。そしてドキドキと鼓動を打ち出した。


「こ、航平・・・?」


「黙って」


 航平はそう言いながら、やさしく瑞希の体を撫で、時に額に髪にキスをする。もう完全に航平のペース。瑞希はただ、航平にされるがまま。

 そして航平の手が、瑞希の弱い部分をせめると、瑞希は「んんっ、あっ・・・」と、恥ずかしそうに、甘い声を漏らす。


「どう? 上書きできたか?」


 航平はやさしい表情で瑞希の顔を見つめる。瑞希の顔は完全に火照っていて、少し息づかいも荒くなり、目はとろんと垂れている。


「う、うん・・・」


「そうか。あとは本当に瑞希のことを大切にしてくれる人としろ」


「えっ?」


 もう終わり? 瑞希はそんな表情で航平の顔を見る。


 気持ちよかった。愛している人にこんな風にされて、近づけて、瑞希は幸せを感じたのだ。


「これ以上は、俺だって止まらなくなる・・・」


 瑞希に聞こえないような声で、航平もそう呟く。


「航平!」


 もっと触れてほしい。やさしくしてほしい。瑞希は航平の腕にしがみ付き、続きをねだる。しかし航平は、それを受け入れない。瑞希は頬を膨らませ、拗ねたように航平の腕に顔を埋めた。


 航平ももう限界だった。普通の男ならもう、とっくに最後まで事を運んでいるだろう。それだけ瑞希は、航平から見ても魅力的な女性だったからだ。


「わかった、じゃあこれだけ」


瑞希はそういうと、唇を航平の唇に重ねた。


「んんっ!? 瑞希!?」


「お礼だよ」


 瑞希は驚く航平に、そう言ってニコッと微笑んだ。


 お礼とは言ったが、これは瑞希の願望。ファーストキスは初めての人と、それが瑞希の願いだった。

 まず一つの夢は叶った。大好きな人、航平とファーストキスが出来たこと。しかし、これ以上のことはまだ望めない、今はまだ。けれど瑞希は、とても幸せそうな表情を浮かべていた。それはそう、まるで恋する女の子のような表情を。


 この日の夜は内緒ではなく、航平が起きているうちに堂々と腕にしがみ付き、眠りについた。

 

 ちゃんと航平の許可を得て。



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