第四章 はじまる二人の生活

「よし、着いたぞ」


 警察本部を出て、バスと徒歩で約三十分。着いた場所は、築三十年はなろうかというアパート。年数が経っているわりには、それほど古さを感じない。これが航平の家だ。

家の中に入るとダイニングがり、その奥には六畳の畳の部屋がある。


「ボロい家やろ?」と、航平。


「そんなこと、ないけど・・・」


 確かに。昔、私が住んでいた家よりはだいぶボロくて狭い、けど留置場に比べたら全然比にならない。こっちの方が数倍はましだ。

 しかし瑞希は家のボロさや狭さより、部屋の汚さの方が気になった。そして顔を引き攣らせながら「掃除、してないの?」と聞く。


「ああ、忙しくてほとんど家におらんからな。おる時はずっと寝てるし」


 それでもこの部屋はない。忙しくて家にいないなら、もっと片付いてるはずだ。


「まぁ、遠慮せんと上がれ」


「お、お邪魔します・・・」


 遠慮せずに上がれと言われても、ほとんど足の踏み場がない。瑞希はその辺の雑誌や服やらを端に寄せ、ちょうど一人分入るぐらいのスペースを確保し、そこに座った。


「風呂、入るやろ? 沸かすからちょっと待っとけよ」


「えっ? お風呂?」


「おう。入りたいやろ?」


「うん、そりゃ・・・」


 留置場では週に何度かしか、お風呂に入れない。だから入れるのはとてもうれしい。でも、そんなことまでしてもらうのは何だか申し訳ない。だから瑞希は、湯を張ろうとしている航平に「シャワーでええよ」と言った。それだけでも十分だからだと。


「あかん。そんなんじゃ疲れとれんやろ? それに女の子は体を冷やしたらあかん」


「え? あ、うん。ありがとう・・・」


 女の子・・・ そんな扱いをされたのは家族以来。心の奥が少しむず痒い。


「それと服やな・・・ 女物の服は無いから、とりあえず俺ので我慢してくれ」


航平は押入れから畳んである服、長袖のシャツと上下のスウェットを渡した。瑞希は「う、うん。ありがとう・・・」と言って受け取ると、渡された服をじっと見つめる。そんな瑞希が何を言いたそうにしているのか察しがついた航平は「ちゃんと洗ってるわ」と、少し怒り気味の声ででそう言った。


「あっ、そうなん? ごめん」


 光島航平。梅沢や金井と全然違う。瑞希は戸惑っていた。どうしてやさしくするのだろう? 自分にやさしくしても航平には何の得もないのにと。


「そや、ちょっとここに座って足を見せろ」


 航平は瑞希を椅子に座らせると、左太ももに巻いた包帯を取った。


「血は止まってるな・・・ これなら風呂に入っても大丈夫やろ」


 すると瑞希が顔を赤くしながら俯いている。


「どうした?」と航平が尋ねる。


「触り、過ぎ・・・」


 航平は傷口を見るために、瑞希の太ももを掴んだり、撫でたりしていた。


「あっ、ごめんごめん」


 航平は瑞希の太ももに触れた手をさっと放した。


 留置場ではそれほどでもなかったのに、今はとても恥ずかしそうな表情を見せる瑞希。環境や状況が変わり異変が起こったのか、恥じらう姿を見せた。


「それと、スカートの中・・・見たでしょ?」


「えっ!? ああ、これは仕方ないやろ? こんな短いスカートなんやし、怪我したところが太ももやねんから」


「最低!」


 瑞希はスカートの裾をぐっと抑えた。 


 スカートの中を見られて恥ずかしい。けどそれ以上に恥ずかしいのはボロボロの下着だということ。瑞希たちのような拘束されている人間には、綺麗な、ましてやオシャレな下着なんてものは与えてもらえない。なんの可愛らしさもない、無地の下着を支給されるだけだ。しかもそれを何度何度も洗濯して穿き続けるため、ゴムは緩み、古びたものになっていく。そんな下着、見られるだけで恥ずかしいのだ。


「そうか、そんなことを気に出来るなら、まだ大丈夫やな」


「はぁ? なに? どいういこと?」


「女の子やなってことや」


「何よそれ?」


「とにかく大丈夫や。風呂でゆっくりと温まって来い!」


 航平はそう言うと、瑞希の髪の毛をグシャグシャと撫でた。


 なんだかムカつく。そう思う瑞希だったが、こうして頭を撫でられることは嫌ではなかった。

 航平は思っていた。留置場に囚われていた間に、女の子としての思いや恥じらい、そんなものも忘れてしまったんじゃないかと。しかし今の瑞希の反応を見て少しホッとしていた。


 それから二十分くらい経った頃、ピピピっと湯が沸いたことを知らせる音が鳴った。


「もう入れるぞ」と、航平。


「やっぱり、あんたが先に入って。私は後でいい。足の怪我もあるし・・・」


 血が止まっていても傷が塞がっているわけじゃない。やはり先に入るのには抵抗があった。


「ガキが何を遠慮してるねん、さっさと入れ」


「でも・・・」


「それと、俺は光島航平。ちゃんと名前で呼べよ、瑞希」


 瑞希・・・ 航平に名前で呼ばれて驚きの表情を見せるが、それはすぐに笑みへと変わる。


「うん、わかった、航平」


「呼び捨てかよ! まぁ、ええわ。さっさと入って来い」


「うん。じゃあ、お先に・・・」


 瑞希は航平に貸してもらった服を持ち、浴室へと入って行った。


 浴室に入ってすぐ、瑞希は持っていた着替えをぎゅっと抱き締める。そして、「瑞希・・・」と、小さく自分の名前を呟いた。

 名前で呼んでもらえたのはいつぶりだろう。瑞希は航平にそう呼ばれたことを思い出し、うれしそうに笑みを浮かべると、航平の服に顔を埋めた。


 汚れた服を脱ぐ瑞希。「洗濯物は洗濯機に入れとけ」と、航平に言われたけど、こんな下着、見られたくない。後で自分で洗おうと、下着をシャツに丸めて隅っこに置いた。

 洗い場で汚れた体を洗い流し、ゆっくりと浴槽に入り、お湯に浸かる。


「痛っ、けど気持ちいい・・・」


 浴槽の中で温もるのはいつぶりだろう? 傷口は痛むけど気持ちいい。今だけは、すべてのことを忘れてしまえそうになる。しかし、いつも頭の片隅にあるのは、任務で行方不明となった、みんなんことだった。琴美、涼香、茉優。唯一、瑞希が友達と呼べる三人だ。


「みんなとこうやってお風呂に入りたかったなぁ・・・ やっぱりもう・・・ ううん。絶対生きている! 何を考えてるん!」


 瑞希は、弱気になりそうな自分を戒める様に、頬をパンパンと二回叩いた。

 何週間も連絡がないみんなを、まだ生きていると瑞希は信じている、いや信じていたかったのだ。


「直美さんにも、悪いことしたなぁ・・・」


 そしてバイト先でも突然姿を消し、なんの連絡もしないままバイトを休んだこと。心配してくれた直美さんのことが気になった。


「バイトを無断で休んで、直美さん怒ってるかなぁ・・・ 怒るよな・・・」


 瑞希の中で、直美のやさしい表情と抱きしめてもらった時のぬくもりが甦る。


「直美さんに嫌われたくないなぁ・・・」


 瑞希の中で、やさしさを、ぬくもりを与えてくれた直美は、とても大きな存在になっていた。


「とにかく明日、ちゃんと謝らないと」


 嫌われようと、これがけじめ、ちゃんとした人としての筋だ。それにまだ、瑞希は梅香菜を辞めるわけにはいかないのだから。


 瑞希は十五分くらい温もってから、湯船を出た。そしてあることに気付く。


「下着が、ない・・・」


 瑞希は一番肝心なことを忘れていた。服があっても下着がないことに。本当はもう一着、下着の上下はあるのだが、洗濯に出したまま取りに行っていなかったのだ。


「どうしよう・・・」


 しかし無いものは仕方ない。瑞希は下着を付けないまま、航平に借りた服を着た。

下半身がスースーとする。それにシャツとスウェットの上からでも乳首が浮いてしまっている。


「やばい・・・よね? これ・・・」


 それでも汚れたものをまた着る気にはなれず、瑞希は思い切ってそのまま浴室を出た。


「おおっ、さっぱりしたか?」と、航平。


「う、うん・・・ ありがとう」


 瑞希はバスタオルで髪の毛を拭きながら、赤くなる顔を隠した。


 横目で航平を伺う。どうやら下着を付けていないことには気付いていないようだ。

それでも油断は禁物。瑞希は胸を張らず少し前屈みで歩く。すると、その態勢が変だったのか、航平がこっちを凝視していた。


「なっ、なに?」


 ドキッとしながら、瑞希が航平に声を掛ける。


「ああ、やっぱ服がデカいなぁっと思って」


「う、うん。でも大丈夫だよ」


 下着の事ではないみたいだ。ホッとした瑞希は右手で首元を掴むふりをして胸元を隠した。


「明日さ、バイト何時から?」


「えっ!?」


「梅香菜のバイト」


「ああ、学校終わってからやから、四時からかな」


「そうか。じゃあ明日、一緒にバイト先に謝りに行くわ」


「えっ!?」


「今日、無断欠勤したんやろ?」


 航平はわかっていた。梅沢に任務やバイトの話を聞き、今日はバイト先から男を尾行したことを。そしてバイトを無断欠勤したことを。


「う、うん・・・」


「なら、俺が一緒に謝りに行ったる」


「えっ? ほんと?」


「ああ。その方がええやろ? いくらおまえがしっかりしてるからって、やっぱり学生やからなぁ、遊ぶためにサボったと思われてるかもしれん。だから俺が保護者として説明すれば、店長さんもわかってくれるやろ」


 予想もしてなかった、航平がそこまでしてくれるとは。でも確かにそうしてくれるとありがたい。不安だった瑞希の心が、少し楽になった。


「よろしく、お願いします・・・」


「うん」


 やっぱりやさしい、やさし過ぎる。なんでこんな自分に? なんでそこまで気遣ってくれる? 自分はみんなに迷惑を掛けているクズなのに。瑞希は心の中で、何度もそのことを考える。自分にやさしくして、航平に何の得があるのかと。


「それと服も買いに行こう」


「えっ?」


「服、いるやろ? それと下着も」


 航平は瑞希の方を向いている。そして視線は明らかに胸元へと向いている。


「えっ? なに? 気付いてたん?」


「そらな。歩き方も変やし」


 瑞希の顔は一瞬で真っ赤になり、「アホっ! 変態!」と、叫んで胸元を隠した。

「なんやねん?」


「気付いてないフリして、ずっと胸を見てたん?」


「大丈夫、何かしようって気はない。ガキには興味ないし」


「なっ・・・」


 その言葉を聞いて、真っ赤な顔のまま眉間に皺を寄せる瑞希は、「アホっ!」と言って、その辺の物を航平に投げつけた。


「痛っ! なんやねん? 物投げるなって!」


「うるさい、アホっ! 無神経、鈍感、変態、人でなし!」


「はぁ? なんでそんな・・・ 痛っ!」


 瑞希が投げた四個目、中身がまだ入っているペットボトルのミネラルウォーターが航平の額を命中。椅子に座っていた航平は、その勢いで後ろへと倒れた。


「お、おい! そんなん投げんでも!」


 瑞希は顔を真っ赤にし、涙目のまま航平を睨み付けている。


「ご、ごめん・・・」


 素直に謝る航平。しかし、瑞希はしばらくそっぽを向き、口も利かなかった。

それでも何とか瑞希を宥め、航平は再び話を戻した。


「まぁ、なんや、とにかく明日、服を買いに行くぞ」


 まだ怒りと恥ずかしさが完全に収まっていない瑞希は、じっと航平を睨み付ける。しかしいつまでも長引かせるのもどうかと思い、「そんなお金ないし・・・」と、ふてくされながらも言葉を返した。


「まぁ、金の事は気にするな」


「えっ?」


「とにかく明日、買い物行くぞ」


「う、うん・・・」


 航平は強引にそう決めてしまった。しかし瑞希には本当にお金が無い。なら服のお金はどうするのか? 航平の予定はいつも無計画だ。


「じゃあ、そろそろ寝るか。おまえは布団使え、俺はダイニングで寝るから」


「ええっ? いいよ! 私がダイニングで寝る」


「あかん! 女の子は体を冷やすなって言ったやろ?」


「大丈夫やって! 床に雑魚寝なんて慣れてるし」


 留置場でもペラペラの毛布が一枚だった。たまにそれさえも取り上げられる時もあった。だから雑魚寝なんて慣れっこだ。


「そんなもんに慣れるな! いいから布団で寝ろ!」


 それでも航平は頑固で、自分がダイニングで寝ると聞かない。


「わかった・・・ じゃあ、布団使わせてもらうね?」


「おう」


 そう答えてやっと航平は笑みを浮かべる。


 瑞希はその笑みを見て思った。この人は何かを考えて動いているわけじゃない。これが彼の普通の姿なのだと。普通に誰かにやさしくできる人なのだと。


「航平はお風呂には入らないの?」


 ダイニングに毛布を運び、寝ようとしている航平に瑞希が問い掛ける。


「ああ、今日は疲れたから寝るわ」


「汚いよぉ、汚れてるやろ?」


「リビングやから問題ない」


「でもぉ。体が休まらないよ?」


「大丈夫や。こういうのは慣れっこや」航平はそう言って電気を消し、「おやすみ」と言って毛布にくるまった。


「私の慣れっこは許さんのに、自分のはいいの? まったく勝手な奴・・・」


 そんなことを小声で言いながらも、瑞希の表情からは笑みがこぼれていた。


 さっきの言い合いといい、今のやり取りといい、瑞希にとっては久しぶり、いや記憶の中にももうほとんど薄れているもの。それをまたこんな風に、しかも家族ではない誰かとできるなんて思ってもいなかった。こんな普通の、でもあたたかいやり取りが、今の瑞希には最高にうれしかったのだ。

 外からの月明かりが部屋の中を少しだけ明るくしてくれる。とても静かな空間に、確かに航平の存在を感じる。瑞希はその存在に少しだけ、触れたくなった。いやらしい気持ちではなく、ただぬくもりを感じたくなったのだ。


「ねぇ? 起きてる?」


「あん?」


「エッチなこと、本当にしないの?」


「ああん? またその話か・・・ せんって言ったやろ?」


「でも任務でしょ? 私を女にするってやつ?」


 それは航平が梅沢と交わした約束。瑞希を引き取ることの交換条件だ。


「そんな任務はええねん。やったって言っとけばええ」


「そんなのすぐにばれちゃうよ。経験がないと何していいかわからないもん・・・」


「そんなんなんとでもなるわ、ほっとけばええねん」


 航平はやはり、この任務をする気はないようだ。

 瑞希もそんな任務、絶対にしたくない。けど今は、ただちょっと、航平に触れたいと思ったのだ。そのぬくもり、ちょっとだけ。しかし航平にはまったくその気はないようだ。


 航平の背中は遠い・・・ 瑞希が手を伸ばすが届かない。


「梅沢はそんなに甘くないよ。きっとすぐにばれる」


「なんで?」


「きっと誰かに、私のことを抱かせるから・・・」


 そう考えた瞬間、瑞希の体に嫌な震えが走った。いつかは誰かに、知らない男たちに、この体は弄ばれて行く。そう考えると怖くてたまらない。


「そんなことはさせへん。そう言ったやろ?」


 すると航平は振り返り、瑞希の方を見た。


「でも、そんなこと無理だよ・・・」


 瑞希もそう言葉を返し、航平のことを見る。すると月明かりに照らされた航平は、とてもやさしい笑みで笑っていた。『大丈夫、俺が瑞希を守る』そう言っているかのように。

 絶対に無理だと思っていた、この現実から逃げ出すことは、梅沢から逃げ出すことは。けど航平ならその現実を変えてくれそうな気がした。自分を守ってくれそうな気がした。航平のそのやさしい笑みに、瑞希は光の差す未来を見たのだ。


「なんなんよ、あんたは・・・」


 瑞希の中で恐怖と絶望が和らいでいく。そして困惑する。自分の状況も、そして心の中も変えていく航平に。


「ねぇ?」


「うん?」


「こっちで・・・寝なよ」


「えっ?」


 瑞希はそう言って航平を呼び寄せる。


瑞希の胸がドキドキと鼓動を打つ。そして締め付けられるように苦しい。


「はぁ? だから俺は任務には・・・」


「わかってるよ。そういうことじゃ、なくて・・・」


「うん?」


「近くに、いてほしいの・・・」


 恥ずかしながらも、真っ直ぐに航平を見つめている瑞希。すると航平は起き上り和室に入ると、瑞希の隣に寝転んだ。


「航平・・・」


「ここにいるから、安心して眠れ」


 航平はそう言うと、瑞希に背を向け毛布にくるまった。


「うん・・・」


 瑞希はそんな航平に、そっと手を差し伸べると、スウェットの袖のところをつまんだ。

 航平に手が届いた。瑞希はそれだけで笑みがこぼれる。


「今日はありがとう」


瑞希が小さな声で航平に礼を言う。


「何が?」


「名前で呼んでくれて、うれしかった」


「ああ・・・おう」


「本当にうれしかった」


 瑞希の瞳に涙が滲む。

 航平が任務を引き受ける条件として、瑞希を名前で呼ぶと言ってくれたことが、瑞希は本当にうれしかった。拘束番号ではなく、両親が付けてくれた名前で呼んでくれることが。


「航平、おやすみ」


「おう」


 瑞希は胸まで下ろしていた布団を肩まで上げ、目を瞑った。


「この布団、おっさんくさい・・・」


 そう言いながら、今度は鼻まで布団を上げると、ニコッと微笑んだ。


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