第三章 光島航平

 次の日、瑞希は一晩中泣き続けたのが嘘のように、凛とした表情をしていた。強くならないと、自分が頑張らないと。そう自分の人生を受け止めるかのように。

 それはとても十五歳の少女が見せる表情ではない、強く逞しい姿だった。


 そして今日も、瑞希はバイト先である梅香菜へと向かう。ICレコーダーに残された内容だけでは証拠にならない以上、より確実な証拠を掴まなければいけない。そして麻薬密売人を捕まえなくてはならない。それが瑞希に残された、たった一つの生きる道なのだから。瑞希は引き続き、梅香菜への潜入捜査へと向かった。


「あら、美和ちゃん。今日は学校の帰りに来たの?」


 バイト先の近くまで来ると、直美とばったりと出会った。


「直美さん、こんにちは。はい、時間がなかったので」


「そう。その制服、すごく可愛いね。とても似合ってる」


「そうですか? ありがとうございます」


 今日は掃除の当番だった瑞希は、制服を着替えないままバイト先へと来ていた。

 直美は、とてもやさしい表情を瑞希に向ける。それは・・・そう、まるで母親のような。瑞希はそのやさしさに、弱っていた心が少し和らいだ。

 瑞希は思う。お母さんが今の私を見ても、直美さんのように言ってくれるのだろうかと。


昨日、梅沢にあんなことを言われて精神的にまいってしまった瑞希。正直、すべてを投げ出して死んでしまいたいとも思った。けど病気の母親を置いて自分だけ逃げることはできない。大切な母親を残して、一人だけ死んで楽になるなんてことは出来ないのだと。

 瑞希は沈んだ気持ちを無理矢理に奮い立たし、今日も何とかここに立っている。そんな瑞希にとって、直美のやさしさは本当に救いだった。


「美和ちゃん?」


 すると突然、直美は驚いた表情を見せる。


「直美さん? なんでそんな顔・・・ あれ? なに・・・?」


 直美が驚いた表情を見せたのは、瑞希の目から涙がこぼれ落ちていたからだった。


「なに、これ? なんで・・・?」


 瑞希は自分でも気付いていなかった。いつの間にか、目から涙がこぼれ落ちていたのだ。


「美和ちゃん? どうしたの? 何かあったの?」


 直美は瑞希の肩にそっと手を置くと、心配そうに瑞希の顔を覗き込んだ。


「なんで私、涙なんか・・・ なっ、なんでもないです! ごめんなさい!」


 瑞希は慌てて両手で涙を拭う。


 きっと母親と直美がダブってしまったのだろう。直美のやさしさに、母親の面影を重ねてしまったのだ。

 すると、あたたかいぬくもりが瑞希を包み込んだ。


「えっ・・・?」


 それは直美が瑞希の体を抱きしめ、やさしくつつみ込んでいた。


「美和ちゃん、大丈夫? 無理しなくていいんだよ?」


 直美は瑞希の髪をそっと撫でる。 


 ――ああ、ダメだ・・・ もう・・・ 瑞希はそう心の中で言葉を漏らすと、直美の肩に顔を沈め、声を上げ泣き出した。


「うわぁぁぁーん」


 ずっと我慢していた。母親が病気になってから、ずっと一人で歯を食いしばって頑張って来た。でも今、その強がりを、張り詰めた心を、直美のやさしさがつつみ込んで行く。受け止めてくれる。直美のやさしさに、瑞希の緊張の糸は切れたのだ。

 瑞希は直美の胸で、少しの時間、泣き続けた。そのあたたかく、母親のようなやさしい胸で。


 どれくらい泣いただろう、少し落ち着いた頃に直美が「落ち着いた?」と、問い掛ける。


「はい・・・」


「そう、よかった」


 瞼が濡れ、まだ泣き顔の瑞希の涙を直美はやさしく拭った。


「何かあったの? よかったら話してみて?」


 すべてを話してしまいたい。辛いこと、苦しいことを吐き出して楽になりたい。


「いえ、何でもありません・・・ ごめんなさい・・・」


 でも言えない。瑞希の素性は絶対に明かしてはいけないのだ。


「そう、わかった」


 直美は、それ以上聞かなかった。瑞希には何か言えない事情があるのだろうと察したのだ。


「何があったか知らないけど、高校生が我慢して強がらなくていいんだよ? 辛い時は吐き出せばいい。我慢しないで」


「直美さん・・・」 


 その言葉が、どれほど今の瑞希を救っただろう。誰にも何も言えず、誰も頼ることのできない瑞希に、甘えてもいいよ、愚痴をこぼしてもいいよと直美は言った、その場所を与えてくれたのだ。その言葉が、どれだけ救いになったか、どれだけ勇気づけてくれたか。瑞希は直美のやさしさに少しだけ、生きててよかったと思えた。


「はい、ありがとうございます」


 瑞希は素直に笑顔でそう返した。その笑顔は十五歳の少女の表情そのものだった。


「突然泣いたりして、すいませんでした」


 今まで溜まった涙を出して、いつもの瑞希に戻った。表情は晴れ晴れとしている。


「ううん。いつでも胸を貸すよ」


 そう言って胸を張る直美さんの胸は、とても包容力がありそうな豊かな胸をしている。この胸なら男性でなくても飛び込んでみたいと思うほどの、母性愛を醸し出している。


「ありがとうございます」


 瑞希はつい、直美のその胸にそう答えていた。


「けど、美和ちゃんって有名な進学校だったんだね? 頭いいんだ」


 直美は瑞希の着ている制服を見てそう言った。


「えっ? あっ、はい・・・」


 何も知らない瑞希は生返事を返す。


 瑞希は学校に通っている。といより通わされていると言った方が正しい。

瑞希は昼間、任務の時以外は学校に通わされているのだ。松宮学園、県内でもトップクラスの進学校。任務の時以外は普通の高校生として学校へ通っている。これは瑞希に対しての慈悲の心ではなく、一般教養や人を観察する能力、人の心理などを学ばせるために通わせている。学校を進学校に選んだのは、いらない知識を植え付けさせないためだ。進学校の生徒は大学受験を目指し日々、勉強に励んでいる。無駄な時間を過ごしている暇などないのだ。よって瑞希に悪い遊びを教える生徒もいない。梅沢はそれを考慮した上で、瑞希を進学校に通わせている。


 しかし入学してまだ二カ月とちょっと、任務でほとんど通えておらず、行けたのはまだ十五日ほどだ。それに遅刻や早退もしている。だから瑞希は学校のことにつて、まだよく知っていなかった。

 瑞希は学校でのみんなの行動を不思議に思っていた。休み時間、ほとんどの生徒が勉強しているし、友達同士で話しているのも少数だ。直美の進学校と言う言葉で、やっとその理由が理解できた。


「じゃあ美和ちゃん、入りましょうか?」


「はい」


 バイトの始まる時刻まであと十五分。今から用意して五分前にはホールに入る。


瑞希は直美と一緒に店の裏口へと進もうとしたその時、店の玄関前に見憶えのある人影が目に入った。それを見て瑞希は足を止める。


「今の男って・・・」


 そうして瑞希は前を向いたまま、一歩二歩と体を後退させ、横目で男の姿を追う。 すると店の玄関前にいたのは、昨日、店に来た三人組の一人、痩せ型のチンピラ風の男だった。


「やっぱり、あの男だ・・・」


 急に立ち止まり、店の玄関の方を見ている瑞希に、直美が「どうしたの?」と、問い掛ける。


「えっ? ああ、ちょっと知り合いに似た人がいて・・・ 直美さん、先に行っててください」


「そうなの? わかった。早くおいでよ」


「はい」


 瑞希は直美が裏口から店に入るのを確認すると、携帯を取り出し金井に電話を掛けた。すると金井は「なんや?」と、不機嫌そうな声で電話に出た。


「今、梅香菜の前に昨日の男たちの一人がいるんやけど、どうする?」


「昨日の? そいつは店に入ったんか?」


「ううん、まだ。なんか入る気配はない。まわりを見てキョロキョロとしてる」


「じゃあ見張れ」


「えっ? でもバイトは?」


「はぁ? そんなもんどうでもええやろ! おまえはそこに何しに行っとるんや?」


「それは・・・」


「つべこべ言わんと後をつけろ! ええか、絶対に見失うなよ? 今度失敗したら殺すぞ」


 金井は散々声を荒げた後、最後はドスの利いた声で瑞希を脅す。


「わかった。後を追う」


 瑞希はそう言って電話を切った。


 すると瑞希が電話を切った途端、男は店には入らずに歩き出した。

 戸惑う瑞希。しかし自分の任務は麻薬密売人を捕まえること。


「直美さん、ごめんなさい」


 瑞希はそう呟くと、男の後を追い、尾行を始めた。


 チンピラ風の男は華やぐ繁華街の真ん中をゆっくりと歩いて行く。瑞希は人混みに紛れ、男の後を追う。そしてしばらく歩くと、今度は人気のない路地裏へと入って行った。

 瑞希は少し男との距離を置く。人気のないところに差し掛かってからもこの距離を保っていると、相手にばれてしまうかもしれないからだ。

 瑞希は距離を置きつつも見失わない様に、足音を消しながら男の後を追い掛けた。

 男の後を追い数分、まったく人気のないところへと入り込んでいた。辺りは薄暗く、雰囲気も寂しい。瑞希は少し恐怖を感じていた。

 すると男は少し広くなった建物の合間のところで立ち止まった。そして携帯を開くとメールでも確認しているのか、指だけを動かし画面を凝視している。


「なに? 誰かと連絡でもとってるの?」


 男は、その場からまったく動かなくなった。瑞希はそれ以上、男には近付かず、その場を見渡せそうなちょうどいい建物を見つけ、その二階から男を見張ることにした。

 男は画面を見終えると、今度は辺りをキョロキョロと見渡す。誰かを探しているようだ。


「やっぱり待ち合わせか? 昨日の仲間が来るかもしれない・・・」


 その様子を息を殺し見ていると、一人のスーツ姿の男が歩いてきて、さっき瑞希が覗いていた物陰に立ち、チンピラ風の男を観察し出した。


「誰? チンピラ男の仲間? いや、仲間ならここで隠れなんてしない。まさか同業者? 商売敵とか? それはあり得るかも」


 そんな独り言を呟きながら、スーツ姿の男を観察する瑞希。


 雰囲気的に密売人には見えない。Yシャツにネクタイもしていないからサラリーマンって感じでもない。どちらかというとこちら側、警察関係の人間に見える。しかし捜査一課の刑事がここへ来るはずがない。瑞希はまだ、この場所のことを教えてもいないからだ。


 瑞希はチンピラ風の男を見張りつつ、スーツ姿の男にも警戒の目を配った。

 瑞希の勘は当たっていた。この男は西生田署の刑事、光島航平。瑞希や金井たちも面識のない所轄の刑事だ。航平は捜査一課とは別に、所轄の捜査としてチンピラ男を追っていたのだ。

 瑞希が航平に視線を向けていると、チンピラ風の男に動きが出た。そしてそこへもう一人、男がやって来た。黒サングラスに髭を生やし、いかにも悪そうな感じ。それは昨日の仲間、インテリ風の黒スーツを着た男や、小太りの男でもない、また別の男だ。

こ れはもしかしたら麻薬の取引かもしれない。瑞希はその場面を写真に撮ろうと、鞄の中からデジタルカメラを取り出し電源を入れた。そしてチンピラ男に向けピントを合わせる。


 するとその時だ。物陰にいるスーツ姿の男、航平が動き出すのが目に入った。航平は上着の胸元から拳銃のようなものを取り出し身構えたのだ。


「えっ!? ちょっと待って。あいつ何をするつもり?」


 航平の行動を見て、戸惑う瑞希。


 航平はまだ物陰にいるが、今にもチンピラ風の男たちの元へ向かって行きそうな勢いだ。


「あいつ、なんで銃なんか持ってるの? やっぱり刑事?」


 しかし航平が何者であろうと、今動かれては困る。ここで騒ぎを起こされ、逃げられでもしたらアジトがわからなくなるからだ。それにもし、ここで捕まえたとしてもここで終わり、チンピラ風の男はトカゲの尻尾のように切り捨てられるだろう。だから今はチンピラ風の男を泳がせるのが得策だ。

 警察本部は、昨日、梅香菜に来た三人組の男、特に黒スーツのインテリ風の男を捕まえることに重点を置いている。だから今はとにかくそいつらのアジトを突き止めたい。瑞希はここでチンピラ風の男を捕まえるわけにはいかなかったのだ。


 このままだと航平は男たちの元へ飛び込んで行ってしまう。そこで瑞希はある案を思いつく。そしてすぐ様それを行動にうつした。


「お兄さん、ちょっと」


 瑞希は航平だけに聞こえるような声で話しかけると、二階から飛び降りた。


「えっ!? なんや?」


 突然、誰かに呼び止められたと思ったら、建物の二階から女子高生が飛び降りて来たので、航平は目を丸くして驚く。


 瑞希は地面に着地すると、捲れ上がったミニスカートを両手で抑えた。そして少し顔を赤らめながら、「見た?」と尋ねる。航平は女子高生の行動に呆気にとられていたが、すぐその問いを理解し、「うん」と頷いた。すると瑞希は「エッチ」と恥ずかしそうに、小さな声を絞り出す。


 エッチと言われても突然、二階から飛び降りて来て、勝手にスカートの中を見せられた航平にとって、その言葉はあまりにも乱暴な言葉だ。


「君、ここで何してる?」


 航平は右手に握っていた銃を一旦、胸元に仕舞うと、瑞希に冷静に問い掛けた。


「えっ!? ああ、ちょっとね・・・」


 引き止めたはいいが言葉に詰まる瑞希。案は立てたが、いざとなると上手く言葉が出てこない。


「え~っと、お兄さん、時間ある? 私と遊びに行かない?」


 そして絞り出した言葉が、何ともぎこちない、お色気の言葉だった。


「はぁ!?」


 瑞希のあまりにも昭和的な誘惑に、航平はぽかんとした表情を見せる。そして続けて言葉を発する。「君、高校生? 学校は終わったんか? それならアホなことしてんと早く帰り」と。


 航平はまるで瑞希のことを相手にしていない。それどころか、「しっし」とあしらう始末。航平はそう瑞希に伝えると、またチンピラ風の男たちに視線を戻した。


 ――なっ、なによぉ~この男! と心の中で怒りの言葉を押し殺す瑞希。

 せっかくしたこともないお色気な手段を使ったのに無下にされ、あしらわれた瑞希。恥ずかしくて、顔から火が出たように真っ赤になった。

 くそっ! くそっ! と、地面を蹴りつける瑞希。しかし今、恥ずかしがっている場合ではない。航平をチンピラたちの元へは行かせては行けない。瑞希は再び航平に絡んで行く。


「ちょっと! なに無視してるんよ!」


「なんや? まだおったんか? 早く帰れって言ったやろ?」


「そんな無下に扱わなくてもええやん! ピチピチの女子高生が引き止めてるねんで? もっと反応があるやろ?」


 ピチピチなんて言葉使ったこともない。言うだけで穴に入りたいくらい恥ずかしい。しかし瑞希はそんな恥ずかしさを堪え、なんとか言葉を絞り出した。


しかし航平は「はぁ?」と顔を歪ませ、「めんどくさいなぁ~・・・ 俺は今、大事な仕事中や、あっち行っとけ!」と言って、やっぱり瑞希のことを無下にあしらう。


 ムカつく。そう思いながら瑞希はある言葉に引っ掛かる。『仕事』その言葉に、捜査一課の刑事が思い浮かぶ。しかし航平は瑞希の顔を知らないようだ。じゃあ、この男は誰だろうと首を傾げる。


「仕事って何よ? 女子高生と遊ぶより大切なこと?」


 瑞希は何度あしらわれても、また食らい付く。


「ああ、うざいっ!」


 どうやら航平は本気で鬱陶しく思っているようだ。それでも瑞希は引くわけにはいかない。横目でチンピラの男たちを確認しながら、必死で航平に食らい付く。


「俺は大事な捜査中や、どっかいっとけ!」


 航平はそう言った瞬間、しまったという顔をして口を塞いだ。


『捜査』


航平は確かにそう言った。やはり刑事だ。しかし捜査一課の刑事ではない。梅沢が今、捜査員を動かすはずがない。公安? それとも所轄? 瑞希の脳裏にそれが浮かぶ。もしそうだとしたら、尚更、行かせるわけにはいかない。


「捜査? 何それ、ウケる」


 瑞希は慣れない言葉を使いながら、必死で航平を引き止める。すると航平は急に、瑞希のことを凝視し始めた。


「えっ? な、なによ・・・?」


 さっきまで鬱陶しそうにしていた航平が、突然動きを止め、自分を見つめて来た。何も言わず、無表情で凝視してくる航平に少し恐怖を感じ、身構える瑞希。

 ――私を女と認識し始めたとか? そう考え始める瑞希。思わず胸元を両腕で隠した。

 そんな瑞希を気にすることもなく、航平は更にぐっと顔を近付ける。さすがにここまで見られると、男性に免疫のない瑞希は、顔をそむけてしまう。


「な、何よ・・・? いやらしい目で見ないで」


 これが男。雌を見る時の雄の顔なのかと、怯える瑞希。


 すると航平は右手を伸ばし、瑞希の左肩を持った。瑞希は驚きビクッと肩を震わす。そんな瑞希のこともお構いなしに、航平は低い声で、「おまえまさか、あいつらの仲間か?」と、瑞希に問い質した。


「えっ?」


 突然の的外れの問いに、瑞希は一瞬、ぽかんっと口を開けたまま停止してしまったが、すぐさま我に返り、「そんなわけないやろ!」慌てて否定した。すると航平は瑞希の両腕をがっちりと持ち、「やっぱり、おまえは関係者やな?」と、瑞希の顔をじっと見つめた。


 航平の問いに、「そんなわけないやろ」と答えてしまったら、自分はあのチンピラ男を知っていますと言っているようなものだ。


「おまえは一体、何者なんや? あいつらとはどういう関係なんや?」


 航平はじっと瑞希の目を見て問う。瑞希はまるで金縛りにあったかのように、その視線から逃れられない。そして動揺から、全身からさぁーっと血が一気に引いて行く感じがした。


「知らん、あいつらのことなんて、全然知らん!」


 今さら遅いが、それでも知らないと言い張る瑞希。


「おいっ! おまえは高校生やろ? 弱味でも握られてるんか? 悪いようにはせえへん、だから言ってみろ?」


 その言葉を聞いて、瑞希は急に腕の力が抜け大人しくなった。


 悪いようにはしない。大人はみんなそう言う。自分が子供だから、何もできない子供だから、言うこと聞くしかないと思って、言いなりになるしかない無力な子供だと思って・・・ 大人はみんなそう言うのだ。怒りで瑞希の拳に力が込められていく。


「ふざけんなっ!」


 瑞希は掴まれた腕を振り払って航平を睨み付けた。その目は何と言うか、憎悪のようなものに満ちた攻撃的な目で、そしてその瞳の奥には酷く悲しげなものが潜んでいる。航平はそんな瑞希を見て動けなくなってしまった。


「早くここから消えて! 私の邪魔をしないで!」


 瑞希はつい声を荒げてしまう。


「邪魔?」


「早くどっか行け!」


 瑞希はもう我慢できないとばかり、航平に殴り掛かる。しかし瑞希の拳は当たらない、簡単にかわされてしまう。


「おっ、おい! 待て!」


 航平は瑞希を宥めようとするが、その怒りのような勢いは止まらない。すると瑞希は軽い体を利用して鞭のように体をしならすと、右足で鋭い蹴りを航平に向けて放った。さすがにその蹴りには威力があったようで、ガードしていた航平も表情を歪ませる。


「ちょっと、待て! 落ち着けって!」


 航平は反撃に出ず、瑞希を宥め続ける。


 目の前の少女、瑞希がチンピラ風の男たちの仲間かもしれない疑いを持ちながらも、航平は自分から攻撃しようとは思えなかった。何故なら、瑞希の目が、「助けて」と言っているように、そう叫んでいるように見えたからだ。航平はただ、瑞希の攻撃を受け止めるしかできなかった。


「誰や!」


 すると瑞希と航平の争いに気付いたのか、チンピラの男たちがこっちを見て声を上げた。

「しまった、見つかった!」


 とにかく身を隠そうとする航平、するとチンピラの男はいきなり拳銃を構え、発砲して来た。


「痛っ!」と、瑞希。


その銃弾は瑞希の左足をかすめた。


「おいっ、大丈夫か!?」


 航平は瑞希に問い掛ける。しかし瑞希の表情が見る見るうちに青ざめていく。


「ああ・・・ ああ・・・」


 瑞希は突然の銃撃と痛みで混乱し、ショック状態になった。そんな瑞希にもお構いなしに、チンピラの男は二発目をぶっ放そうとしている。


「あぶないっ!」


 航平は動けなくなっている瑞希の体を抱えると、射程範囲から身を隠すように物陰へと飛び込んだ。そして間一髪、二発目の銃撃をかわす。


「あのクソが・・・」


 そう言ってチンピラ男を睨み付ける航平。しかし今は瑞希だ。航平は懐で怯え、震えている瑞希に「おい、しっかりしろ!」と、声を掛ける。しかし瑞希はとても返答できる状態ではない。目は相変わらず一点を見たままでショック状態だ。


「ダメか・・・」


 すると航平はチンピラの男に応戦しようと自分も懐から拳銃を抜いた。そしてゆっくりと物陰から顔出しチンピラ男の姿を確認する。すると男たちはすでに、その場から走って逃げるところだった。


「逃げられたか」


 チンピラ男に逃げられたものの銃撃戦にはならず、航平は少しホッとした表情を見せる。


「おい、大丈夫か?」


 男たちは立ち去り恐怖は去った。今度はやさしく声を掛ける航平。瑞希はまだ震えながらも航平に視線を向ける。すると、「あ、あぁぁ・・・ あぁぁぁー!」と、声を荒げた。航平が持っている拳銃が視界に入ってしまったのだ。


酷く怯える瑞希。


「ああ、すまん」


航平は慌てて拳銃を懐にしまった。


「ごめん、もう怖くないから」と、航平。


 それでもその恐怖は簡単には収まらない。航平は瑞希に寄り添い、落ち着くまで、やさしく背中を擦った。


「あっ、傷。ちょっと見せてみい」


 航平は瑞希の傷口が目に入り、傷を負っていること思い出す。そして上着のポケットからハンカチを取り出すと、それで太ももを縛り止血した。


「かすってるだけや、血もそんなに出てない。もう大丈夫やと思う」


 傷を手当てし、やさしく話し掛けてくれる航平に、瑞希は少しずつ心を落ち着かせていく。


「それでも一応、病院には行った方がええぞ。消毒せなあかんからな」と、航平。


「病院なんて、行かない・・・」


 そこでやっと瑞希が口を開いた。


「なんでや? 行っといた方がええぞ?」


「そんなところ、行かせてもらえない・・・」


「えっ? なんでや?」


 瑞希は俯いて黙り込んだ。


 病院にも行かせてもらえない少女。やはりこの少女には、何か訳ありな事情がありそうだ。密売人との関係も気になる。


「君は一体、何者なんや?」


 航平はそんな瑞希のことを気遣いながら、怖がらせないよう、やさしく問い掛けた。

 その問いに、瑞希が恐る恐る口を開きかけた時・・・

「おい、おまえ。何やってんねん? 仕事もせんとこんなところで男とイチャイチャとして」


瑞希たちの前に、人相の悪い、数名の男たちがぞろぞろと現れた。


「なんや、おまえら?」


 航平は男たちを見て、瑞希を庇うように後ろへと隠すと、男たちの前へ立ちはだかる。


「わしか? わしはこういう者や」


すると列をなした男たちの中から一人の男が前に出て、手帳らしきものを開いた。


「金井・・・? 県警本部の捜査一課?」


「そういうことや」


 そこに立っていたのは瑞希の監視役、金井だった。


 瑞希は金井の姿を見て、落ち着きかけていた状態は一瞬で消え、ビリビリとした緊張感に変わる。

 金井は何故、ここがわかったのか。瑞希の中で疑問が生まれる。それは瑞希の携帯にGPSが仕込まれていたからだ。金井はいつもそれで瑞希の行動を監視していたのだ。それはよく考えればわかることだった、何故なら瑞希は警察本部に囚われの身なのだから。

 金井はゆっくりと瑞希に近付いて行く。警察手帳を見せられた手前、航平は金井が瑞希に近付くことを止めれない。すると金井は突然、瑞希に手を上げた。


「仕事もせんと何やっとんじゃボケが!」


金井はそう言いながら瑞希の頭を思いっきり叩いたのだ。


「おっ、おい! 何やっとんねん!」


 さすがにこれは見逃せない。航平は金井の肩をぐっと掴んだ。


「ああん? なんや?」


 金井は肩を掴まれ苛ついたのか、眉間に皺を寄せながら航平のことを睨み付ける。


「なんやじゃないわ! なに手をあげてるねん!」


「はぁ? おまえには関係ないやろ?」


 確かに関係ない。航平と瑞希は、さっき出会った赤の他人だ。しかし、瑞希は麻薬密売犯らしき者に襲われ、拳銃で撃たれている。それを間近で見ていた航平には、瑞希を気にする権利が十分にあるはずだ。


「この子、拳銃で撃たれてるねんぞ?」


「ああん?」


 金井はハンカチが巻かれている太ももに視線を向ける。


「ふ~ん、そうか」


「ふ~ん、そうかって・・・ もっと何かあるやろ? 未成年の女の子が拳銃で撃たれてるねんぞ?」


「それで?」


「それで・・・って・・・?」


 航平は金井の言動に唖然とする。


「おいっ、連れて行け!」


 金井は後ろに引き連れている男たちに、瑞希を連れて行くように命じる。


「ちょっと待て!」


 航平は再び金井に肩を掴む。今度はさっきより強い力で。


「なんやねん? おまえは!」


 今度は許さんぞとばかり、金井は航平の手を振り払い、胸倉を掴んだ。そして「おまえ、こいつの何やんねん? 知り合いか?」と、航平に問う。


「いや、違う。知り合いじゃない」


「じゃあ、邪魔すんなや!」


「そういう訳にはいかん。この子は怪我をしてる、しかも銃で撃たれて。そんな女の子を心配もせず、連れ去ろうとするおまえらを、警察官として見過ごすことができんわ!」


 航平はまっすぐと金井を見る。その目はなんとも力強く、そして鋭い。


「おまえ、警察官なんか?」


「ああ」


「そうか・・・ なら付いてて来い。そいつが何者か、教えたるわ」


 何者か教える? 航平は金井の言葉に怪訝な表情を浮かべる。


 瑞希は俯いたまま、ぐったりうな垂れている。

 このまま少女を一人で行かせるわけにはいかない。何かあったら自分が守らないといけない。それに少女について、あの『助けて』と言っているような瞳の理由もわかるかもしれない。航平は黙って金井に付いて行くことを決めた。


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