瑞希はその後、午後十時まで働き、業務を終えた。

「お先に失礼します!」

 まだ仕事を続ける直美や店長に挨拶をし、瑞希は梅香菜を出た。そして店を出るなり、折り畳み式の携帯電話をすぐに開く。しかし金井からの連絡はない。

 やっぱりあれだけじゃ証拠にはならなかったのか。

 金井たちは店に戻って来なかった。じゃああれは拳銃の引金の音ではなかったいうことか。

 あまり成果が得られなかったことに瑞希は、「はぁー」と、深いため息を吐いた。

 しかし、あのインテリ風の男は何だったのだろう? 絶対に瑞希を見て笑っていた。瑞希の正体に気付いたのだろうか?

瑞希はあの黒スーツの笑みに、何とも言えない恐怖みたいなものを感じていた。

 ただ者ではない、何ともあぶない感じの空気を持つ男。あの男の笑みを思い出すだけで、再び体中に恐怖の電気のようなものが走る。できることならもう二度と会いたくない。瑞希はそう思った。


 警察本部まで帰って来た瑞希は、また留置場の中に拘束される。そして風呂にも入らせてもらえないまま、用意された冷え切った食事を摂り、就寝するのだ。

時間はもう十時半をまわっており、留置場は就寝時間、廊下には非常灯が点いているだけだ。瑞希は外から入る微かな光だけで食事を摂る。


「不味い・・・」


 ただでさえ美味しくないご飯が、冷え切って更に不味くなっている。それでも瑞希は残さぬように食事に箸を付ける、これも大切な食べ物、粗末には出来ない。

 すると留置場の外の廊下が急にパァッと明るくなった。誰かが電気を点けたようだ。そして足早に歩く靴音がこっちへと近付いて来る。


「おい、ちょっと来い」


 その足音の正体は金井だった。金井は機嫌が悪いのか荒っぽく鍵を開けると、眉間に皺を寄せこちらを睨んでいる。

 任務とバイトの両方を終え、やっと一息ついた少女に「ご苦労様」と労う言葉もなく、金井は怒りを露わに、そこに立っている。


「まだ食事中なんですけど」


瑞希も負けじと金井を睨み返す。


「うるさい、さっさと来い!」


 金井は扉を開け中に入ると、瑞希の髪の毛を掴み、無理矢理、留置場から引きずり出す。そして「痛い、放せ!」と暴れる瑞希をそのまま引きずりながら、別室へと連れて行く。


「やめろ! 放せ!」と、抵抗する瑞希。


「うるさい! さっさと入れ、ゴミクズが!」


 金井は容赦なく瑞希の体を引きずり別室の前に来ると、乱暴に部屋の中へと投げ入れた。


「痛っ・・・ 何するねん!」


 部屋の真ん中に投げ込まれた瑞希が怒りを露わにし、顔を上げると、そこには梅沢を中心に警視庁捜査一課の刑事が数名、瑞希のまわりを取り囲んでいた。


「な、なに・・・?」


 さすがにこの状況に、威勢よく啖呵を切った瑞希も委縮してしまう。無理もない、犯罪捜査の一線で活躍している捜査一課の刑事が自分を取り囲んでいるのだから。その威圧感はものすごいものだ。


「〇二九、任務お疲れ様」


 梅沢が気持ち悪いくらいの笑顔で瑞希に労いの言葉をかける。委縮してしまっている瑞希は、「は、はい・・・」と、怯える様な弱々しい声でそう答えた。


「途中で従業員に見つかってしまったんだって? 災難でしたね」


 梅沢はやさしい表情で瑞希を気遣う言葉を口にするが、目はそう言っていない。まるで何かを責めている様に冷たい目をしている。

 これは途中で水原に見つかったことを怒っているのか? やさしい表情で、さらっと言葉を吐く梅沢の反応は、どう理解していいのかよくわからない。しかしこの後の梅沢の態度が急変する。


「ところで〇二九、君はコンクリートマイクから何か音を聞かなかったかい?」


「音?」


「そうだ、音だ」


 それは拳銃の引金らしき音のことを言っているのか? 瑞希は自信がない、小さな声で、「拳銃の引金の・・・音・・・?」と、恐る恐る答える。

 すると梅沢はいきなり手を伸ばし瑞希の髪の毛をぎゅっと掴むと、「正解だ」と、引き攣った笑みを浮かべた。


「痛っ!」


 瑞希は梅沢が初めて手を出してきた驚きと、頭皮の痛みで表情を歪ませる。


「聞こえていたなら何故、踏み込まなかったのかな?」


 梅沢の表情からは笑みが消え、怒りの表情へと変わる。その変化に瑞希は恐怖を感じる。

そんな瑞希に、「ねぇ、何故です?」と梅沢は容赦なく問い詰める。


瑞希はそう聞かれて、怯えた声を詰まらせながら「そ、それは・・・ 確信がなかったし、私なんかが踏み込んでも、どうにもならないと、思ったから・・・」と、答えた。すると梅沢は、掴んだ瑞希の髪の毛をより強く掴み、「君は馬鹿なのですか?」と、眉間に皺を寄せる。その表情はまるで狂気に満ちた鬼のようだ。


「私は何のために、君に拳銃のことを教えたと思っているんです? こういう時のために聞かせておいたんじゃないですか?」


 梅沢の表情が怖い。

 梅沢の荒々しい態度に、瑞希は委縮した体を更に小さく縮込ませる。


「確信が持てなかった? 何ですそれ? 君は一体何のつもりなんですか? 警察官にでもなったつもりなんですか? 君は一般人なんですよ、警察官ではないんですよ? だったら自信なんていらない、そうだと思ったら突っ込めばいいんです! 踏み込めばいいんですよ! 違いますか?」


 梅沢の言っていることがわからない。警察でもないのに踏み込めだと? 言っていることが滅茶苦茶だ。


「間違えたっていいんです、君が警察官でない以上、私たちには迷惑は掛からない。せいぜい男たちに怒鳴られるか、その場で撃ち殺されるくらいです」


 撃ち殺される? 梅沢のその言葉に、瑞希はその光景が浮かんだ。自分が突入して、銃で撃たれる光景が。その恐怖は想像を絶する。ただただ恐怖で体が震える。


「何故、我々が踏み込める状況を作らないのですか? そのための潜入捜査でしょう?」


 冷たい目。瑞希が撃たれて死のうが自分たちには関係ない。そんな目だ。

 梅沢は確たる証拠がない以上、警察官では動けない。だから一般人である瑞希にそれをやれと言っているのだ。たとえ撃ち殺されても、警察が踏み込める状況を作れと。瑞希は元々そのための当て馬だったのだ。それはまるで瑞希の人格を無視した、実験動物のような扱い。


「まさか、踏み込むのが怖かったのですか?」と、梅沢。


 その通りだ。拳銃を持った男たちの元へ踏み込むなんて怖いに決まっている。しかも相手は密売犯かもしれない。そんなところに高校生の少女一人が何の躊躇いもなく踏み込めるはずがない。


「君、自分の立場がわかってます?」


 梅沢はそう言いながら瑞希の髪を引っ張ると、グイッと自分の方へと顔を引き寄せた。


「君は私の駒なんですよ? だから体を張ればいいんです! 私なんかが踏み込んでも何もできない? そんなことわかってます、君が密売犯を逮捕するなんて誰も期待しちゃいませんよ! それより体を張れって言ってるんです、君にはそれくらいしか利用価値はないのだから。まったく・・・ このクズが!」


 梅沢はそう言いながら瑞希の顔を床に叩きつけた。そしてみしみしと音が鳴るんじゃないかというほど顔を床に押し付けられ、「ううっ・・・」と、うめき声を上げる瑞希。


「君が乗り込んで撃たれてくれれば、無事に対象の男たちを逮捕できただろうに・・・ 君のせいで計画はパァだ」


 梅沢は床に押さえつけていた瑞希の頭から手を放し、ゆっくりと立ち上がった。


「もしそれで君が死んでも、保険金で君の借金はチャラだ。そしたら君のお母さんも借金から解放されて幸せになれただろうに・・・ 君はとんだ親不孝者ですね?」

 ――私が・・・悪いの? 全部、私が・・・ 自分が犠牲になっていれば、お母さんは苦しみから解放され、幸せになれたの? そう心の中で自分を責める瑞希。


「お母さん・・・ ううっ・・・ うわぁぁぁぁー!」


 瑞希は悔しかった。お母さんを救えないことも、自分の置かれている境遇も、そして人として扱われていないことも。全部、全部が悔しくて、大声を上げ叫んだ。

 そんな瑞希の体を、「黙れ!」と、金井が勢いよく踏みつける。瑞希は「ぐっ・・・」と、顔を歪ませながら苦しむ。

 ――お母さん・・・ お母さん・・・ 心の中で何度も母親を想い、母を求める瑞希。答えてほしい、そばに来てほしい。瑞希はそう望みながら涙を流す。


「今度、失敗したらわかってますね? 君に未来はないですよ? それとお母さんもね」

 梅沢は瑞希を蔑みながら、そう冷たく言い放った。


『君に未来はない』


 そう言った梅沢の言葉は、きっとそのままの意味なのだろう。今度失敗したら自分にも、そして母親にも未来はない。死を想定された任務を与えられ、消されるのだろう。そして母親も見殺しにされる。瑞希にはもう失敗は許されないのだ。

 

 その後、瑞希は留置場の中で、一晩中泣き続けた。梅沢たちを憎み、自分の人生を恨み、この世界を恨んで。


 母親に会いたい、母親のぬくもりがほしい。

 瑞希は母親を求めながら自分の体を抱き締め、泣き続けた。


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