コープス・リバイバー
猫島 肇
一杯のカクテル
「ロク、仕事だ」
書類を持ってきたのは、ロクよりも
ここは、東京中央警察署・第一課である。タイムカードを切って早々、先輩刑事に呼びとめられたのだ。ミヤは夜勤だったようで、蒼白な顔に薄い隈を作っている。
「あ、ミヤ先輩……。おはよう、ございます」
およそ今には似つかわしくない適当な返事を返したところ、ミヤの眉間に険しい皺が寄った。ロクはこの表情が苦手である。だからバディにするには違う相手を選んでほしいと常々思っているのだが、上の命令なのかほとんどミヤはロクに構ってくれていた。
――別に、おれじゃなくてもいいのになぁ。
ロクは口中でそう呟くが、音にするまでの勇気はない。よって、いつも突き合わされるのだ。体力には自信があるが、頭脳ではミヤについていけない。
「飲酒案件、とのことだから、きちんと目を通しておくんだぞ?」
「い、飲酒……ですか? ホントにあるんですね」
今は太陰暦2021年。その前は太陽暦と言って、かの太陽が浮き沈みを繰り返していた回数で月日を数えていた、らしい。正直なところ現代で生き残っている者は皆無だし、ロクもミヤもそんなことはどうでも良かった。
本当に太陽なるものがあったかどうかなんて調べる術がない。『カク』とかいう爆弾で吹き飛ばしたなんて話を聞いても、信憑性は薄かった。
いまは煌々と輝いている月だけが、全てを照らす媒体である。月光は2000ルクスにまで上昇し、書類を読むにも好都合である。
「……近いじゃないですか、本拠地」
飲酒は遠い過去の文明のひとつであり、現在では禁忌とされている。そもそも製造方法が確立されていないのでロクが取り扱うことはほとんどなかった。
これが人生初の飲酒案件である。
「って言うか、どうして飲酒が禁じられているんでしたっけ?」
「お前……、刑事になる前に習っただろ」
先も述べたが、頭はそこまで良くはない。必死に勉強して第一志望の部署には来たが、2000年ほど前に決められた飲酒禁止法の、いきさつなんて脳みその片隅にも入っていなかった。
それに、試験ではそんな詳しく聞かれないことが多いし、覚えても無駄な部類に入る。ミヤはそれでも秀才のようで、眠いながらも簡単に教えてくれる。
「太陰暦98年の頃、人類の遺産であるアルコールを作ろうとしたがうまくいかなかったんだ。それで国同士が協定を組んで、一切の種類を禁じることになった」
「えー、そうでしたっけ? 飲酒しても、何もいいことないのになぁ」
「一説によれば、リラックス作用があるとか」
「げぇ、違法物にまで手を出して、リラックスとかしょぼくないですか?」
あからさまにロクが拒絶反応を示すと、今度はミヤが頭を掻いて同意する。
「まぁな、だがそれがいい輩もいるんだろう」
「……ミヤ先輩は、飲酒とかしないでくださいね?」
「バカ! 誰がするか!」声を荒げたのでミヤはひとつ、コホンと咳払いをすると改めてロクに仕事を告げる。「とにかく良く読んでおけ。今回は監査も兼ねているが、今晩から張り込みをする」
「えっ、今晩から!? そんな、今日はおれ、大事な用事が――っ!」
とは叫んだものの、大事な用事などない。それをミヤも気付いているのか、ひらひらと手のひらを振って仮眠室へと足を早めていた。寝るからこれ以上は訊くな、と威圧すらも感じる。
ロクは苦虫を噛み潰したような表情を作って、渋々書類に目を通すことにした。
――同日、
腰に拳銃を引っ提げたふたりは、世闇の中、地下に続く細い階段を見張っている。ロクの心臓は早鐘を打って、何度も何度も溜息を誘発させた。
「落ち着け、ロク。今日はドンパチやるつもりはない。ホシにも寄るがな」
星に夜。この状況の中でうっすら鈍く光るそれを思い出して、ロクは苦笑いを浮かべた。ミヤは冗談を言ったわけではないが、そのセリフは少し、奇跡的な偶然を産む。
「あの、本当に飲酒なんですか?」
「資料を読んだろう? 証拠が挙がっている」
ただ、その写真は解像度も悪く、どちらの顔も分からない。分かるのは辛うじて、この場所だけ。それと酒らしきものの入った瓶。
突入して酒類じゃなかったとき、とても気まずいものだ。だが上は酒だと判断した。さっさと家宅捜索の令状でも発行してくれるものならいいのだが、証拠不十分だし仕方がない。
――そんなときのために、おれたちが居るんだけどな。
警察の職務とやらを改めて噛み締めて、ロクは鼻息荒く深呼吸した。そうだ、落ち着こう。何も今日聞いて当日、さすがに踏み込むことはないだろう。
星に夜。その言葉だけは気になるが、きっとそんなことはないはずだ。
「あれは――」
急にミヤが驚きの声を上げたので、何事かと彼の顔を見た。白い頬はさらに血の気がなくなり、切れ長の目を見開いている。
上司の目線を追ってその先、階段を降りる者がいた。政治家だ。それも連日報道で取り沙汰されている、評判のいい人物で通っていた。
「これって、マズいもん見ちゃいましたかね……?」
「結構な。無事に出てくればいいが」
その願いは空しく、何時間待っても彼は出てこなかった。そろそろ月が登る。ビル街を舐めるように照らしながら、白々と全貌を明らかにしていく。
「もう朝になるが……出てこないぞ?」
「乗り込むべき、でしょうか……?」
未知が拡がっているとは言え、政治家の安否も気になる。今乗り込んでもいいものか、判断が付きにくい。
「しっ、何か聞こえないか?」
「え、何か、ですか?」
やがてミヤが口元に人差し指を当てて、さらに静かにするように命令する。やっと冷静さを取り戻していた心音が多少また早まったものの、耳を澄ますと苦しそうなうめき声が聞こえてきた。
嗚咽だ。泣いているようには思えない。何かを、吐き出す音。
「っ! まさか、何かされたんでしょうか!?」
怪我でもしているのか、致命傷であればあの人の命が危うい。飲酒をする者であるが、その生命は等しく平等にあるべきなのだ。
「くっ、まさかこんなことになるとは……!」
「ミヤ先輩、突入すべきです。少なくともおれはそうします!」
「お、おいロク!!」
これ以上居ても立ってもいられなくなり、ロクは階段の入口へと向かう。その奥から、やはり嘔吐の声は響いてきた。腐敗したような、酸味を纏った臭いが鼻を突く。
「待て、ロク! 応援を呼ぶ方が先だ!」
「でも! その時間で誰かが助けられるかもしれないじゃないですか!!」
地下への空洞はぽっかりと口を開けて、誰でもどうぞと示しているようだ。ならば飛び込まねば損というもの。底まで届かぬように声量は抑えて会話していたが、ロクの熱い思いはミヤに伝わったようである。
「ロク……」
「先輩、無茶はしません。あの人を助けたらすぐに上がってきます。先輩はその間に、応援を呼んでください」
ミヤは一瞬の逡巡を見せたが、すぐに真っ直ぐに目を合わせて応えてくれた。
「……分かった」
無茶はするなと念を押して、部下の背中も押してやる。ごくりと喉を鳴らしてロクを見送ると、ミヤはすぐに応援要請を出した。
――地下施設、
しん、とした薄暗い施設は、それでも薄いネオンが瞬いていた。埃だらけだが、至るところに掲げられた看板には『BAR』の文字が見える。
「バ……ルァ?」
見たこともない単語だが、何と読むのだろう。そんなことに少し気を取られていると、つま先が何かにぶつかった。
「うわ……っ、て大丈夫ですか!?」
勢い余って大声を上げてしまったが、蹲っている人物を見れば誰だってそうなるだろう。それは、夜のうちに入った政治家だった。口元を抑えて何事かと思えば、吐瀉物を撒き散らしている。
ぞわりと背中に悪寒が走り、ロクは辺りを見渡す。服毒か、はたまた毒ガスか。後者の場合、自分も危険だ。胃酸の他にふわりとした変わった臭いがしているので危機感を煽る。急いでこちらも彼に倣って鼻と口を覆った。
誰にも気付かれていないだろうか。写真では酒を提供するほうも写っていたはずだ。時間が経っているのでもしかしたらもういないかもしれないが、警戒するに越したことはない。
「初めまして、
「――!?」
やけに飄々とした男の声に、ロクは身を固くする。
「その方のご紹介ですかね? 他にお客様はいらっしゃらないと聞いていたのですが……」
政治家は、階段を降りてすぐにグロッキーになっていた。きっと帰るところだったのだろう。その足元、革靴が引っかかった
板一枚挟んで向こう側。ロクは思わず拳銃を引き抜くと、その壁に背中を預ける。
「そんなに警戒しなくてもいいですよ。ここは酒宴、無礼講です」
――なんだ? 何を言っている?
知らない言葉は、きっと頭が足りないだけじゃない。元々存在しないのだ。ならば今話している相手が作った単語だろうか。
「飲酒は禁止されている! お前も知っているはずだ!」
壁の向こうから怒号を飛ばす。無茶はしないと心に決めたが、もはや破りそうであった。向こうに親玉がいるのなら、それを捕まえて根絶やしにするのが正義の味方である。
「お客様は、どうやってお酒が造られるか知っていますか?」
シャカシャカと、何かが振られる音がした。水のような液体が混ざる音だ。いったい何をしているのか想像がつかないが、逃げ惑うこともせず対応する相手が不思議でしょうがなかった。
「発酵をさせるそうですよ。ですが残念なことに、2000年ほど前の戦争で、どうも酵母がうまく働かなくなってしまったのだそうです」
混ざり終わったのか、今度はグラスがカウンターに置かれる気配がした。どこかで金属が擦れている。
「なので我々は考えました。うまく発酵させるにはどうしたらいいのか」
――我々? 複数人いるのか!?
そんなロクの焦りも気にせず、男は続ける。
「体内ですよ」
突拍子のない文言が聞こえたので、ロクの思考は止まった。意味は分かる。それくらいは自分にだって。
いやしかし、何だって? いまこの男は、その前に何を言った?
「米なり麦なり果実なり。何でも良いんです。でも食べさせるのは、ちょうど今日みたいな満月の日くらいにしてくださいね。うまくアルコールになりませんから」
少ないアルコールが注がれると、店主は満足そうに微笑んだ。その楽しそうな声色を聴いて、震えが止まらなくなる。
「充分に発酵したら
「そんな――! じゃあ、この人は、お酒を造るために!?」
やれやれと店主は首を振った。
「違いますよ。彼はただ飲み過ぎただけです。わたしたちは、女性の体内しか使いませんから」
「なっ……!?」
「顔も知りませんがね。でも旨いんですよ、これが。今回は少し変化球で、アップル・ブランデーを加えさせていただきました。彼女はリンゴを良く食べさせましたから」
「外道なのか!?」
罵っても態度を変えない男に、ロクはもう我慢できないと引き金に指をやる。
「いえいえ、彼女たちもこうなることを望んでいるのですよ?」
スッ、とグラスを差し出す。
「コープス・リバイバーです。どうぞ、お召し上がりください」
「この……っ! 手を挙げろ!!」
しかしそこには、今まで話していたはずの人物はいなかった。もぬけの殻のバーカウンターには、一杯のカクテルが残されている。
コープス・リバイバー。赤く、それでいて胃酸のよう。
美しくも恐ろしく、とても惹き付けられる。
「ぐ……!」
ロクはそれを手で払いのけると、カチカチ鳴る歯を止めるために手のひらを押し当てた。
いつか叶えなければ。平和は自分の手で実現しなければ。
固く意思を結び、今日はこのBARを後にした。
コープス・リバイバー 猫島 肇 @NekojimaHajimu
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