世間様9(最終章)

 大川さんは、アタシと草野ユキが会っていた時点で尾行の対象を草野ユキに切り替えることが出来たはず。それをしなかったのは慎重だからか、もしくは臆病だから。それはともかく、アタシの頭の中には、『包丁を突き付けて草野ユキに迫る大川さん』の絵柄しか思い浮かばなかった。


 だからアタシは、大川さんが『イヨカン』のドアを閉める前にダッシュで駆け寄り、右足をドアの隙間に差し込んで『イヨカン』の密室化を避けた。だが大川さんはアタシの存在に全く気付いていなかったものだから、結構遠慮なくドアを閉めた。スニーカーの上からだけど、足を挟まれて痛い、ちょっと痛いよ、これ。


「ああ、探偵さん。まだなにか?」

 伸ばす前の警棒片手に右足を庇いながら店内に入ったアタシに、大川さんの視線が冷たい。


「まだなにかじゃないわよ、その人はてめえが来る前にあたしから色々話聞いて、上司みたいな男の人と帰ったところだったのよ、馬鹿」


 草野ユキがカウンターの上を布巾で拭きながら大川さんをなじった。

「色々話を、聞かせたんか」

 予想していたがやっぱり、といった風情の大川さんに構わず、草野ユキは言葉を続けた。

「あんたがネコのおっさんとまでは言ってないけどね」


 アタシは痛む右足を左足のかかとでぐりぐりしながら、これはほっといてもすぐに痛みは消えるかな、と思いながら壁にもたれつつ、二人のやり取りを聞いていた。

「おい、今のは労災出ないぞ、そそっかしいな」


 所長が面倒くさそうな顔をして、遅れて入ってきた。雨が降っている訳でもないのにビニール傘を持っていた。近くのコンビニで買ってきたのだろうか。

「所長さん、このオカマは嘘つきでっせ、いちいち言うこと真に受けてたらガセ掴まれまっせ?」


 所長の姿を認めた大川さんは興奮気味にまくしたてた。

「大川さん、まず座りましょう、ね?」

 警察上がりの所長の、有無を言わせない口調に大川さんは従い、テーブル席の茶色の革のソファーの一番奥に腰を下ろした。その隣に所長が腰を下ろす。

「それはもちろん私達も、誰かの話をいちいち真に受けたりはしませんよ。必ず裏を取ります。しかし大川さん」


「分かってます、私がデタラメ言ったのに呆れたんでっしゃろ?私も最初は素直に話すつもりでした。しかし担当が、そこのけったいな刺青したオンナノコやと分かった時、恐くなりまして」


 それを聞いた私は、けったいな刺青とはなんだよ、とかなりむっとした。他人の刺青をけなしてはいけない、という掟をこの人は知らないのだ。第一、足を痛めた人間に座れとも言わない、この気遣いの無さはなんだ。


「恐くなった、と言いますと」

 所長が大川さんに話の続きをうながすと、大川さんは思い詰めた様子で喋った。

「この国ではオンナが世間様ですから。女は秘密を守れませんからね」

 サキちゃん、ちょっと我慢して、と所長が言うのとアタシが口を開いたのはほとんど同時だったが、アタシの方が声が大きかった。


「だったらなんで電話した段階で依頼を断らなかったんだよ、断れなかったんだろ?しかも中途半端な情報ばっかり与えて、油断してたら昼間ここのマスターに首絞められちゃったよ、大川さん、どーしてくれるのそういうところ」

「うんだから、あんたがちゃんと真面目に仕事してるのは分かったし、結局はここにたどり着いた訳やし、ええやないか」


 大川さんは首をすくめ、アタシの顔を全く見ないで言い訳がましく、ぼそぼそ喋った。

「ええやないかって、何がですか」

 アタシは冷静に喋ろうと努力した。だが警棒を握りしめていたのがよくなかったのかもしれない。大川さんは更に首をすくめた。

「つまり、結果オーライって話に決まっとるやんけ。ギャラははずむさかい、見逃してんか」

「え、見逃すも何も、私どもは大川さんの何を追及すればいいのか」

「何って、この前事務所に連れて行った女は、籍は確かに入ってるがビアンで、お互いの世間体を考えての結婚だとか」


 大川さんの話を聞いていた草野ユキが、何の話をしているのだとばかりに首を傾げた。大阪では草野ユキは、大川さんの戸籍上の奥さんと会っていないのだ。

「それは初耳ですが、依頼主の秘密を守るのも私達の仕事なので。それにツヨシ君をまだ見つけてませんが?」

「それはやな」


 大川さんはふらっと立ち上がり、懐に手を入れた。所長の顔を見ると、冷静さを装いながらも緊張しているのが明らかだった。最悪の事態を想定したアタシは、警棒をしゃきんと伸ばし、カウンター内で黙って話を聞いていた草野ユキに向かって叫んだ。

「ユキさん、しゃがんで!」


 しかし草野ユキはしゃがんでカウンター内に身を隠すことはしなかった。彼、いや彼女の角度からは、大川さんが懐から取り出したものがなんなのかはっきりと見えていたからだ。

「とりあえず三百万円ある。ツヨシに会わせてんか」

 大川さんは草野ユキに、銀行名が書いてある袋を無造作に差し出した。

「三百万って、ちょっと大川、あんた大丈夫?」


 草野ユキの視線が、警棒を握りしめたアタシとソファーに座ったまま様子を伺っている所長の方にちらちらと泳いだ。アタシと所長がいなければ、三百万円をすんなりと受け取っていたかもしれない。オカマとか関係なく、二十二歳の青年にとって三百万円は重たい。


 だが、大川さんの右手にある紙袋に三百万円が本当に入っているとして、それだけかどうかは分からない。と、いうのは、アタシが山梨の田舎にいた頃、こんなことがあったからだ。


 アタシが高校二年の頃、ギャルとヤンキーの境目は曖昧で、しかもギャルはヤンキーからあんまり良く思われていなかった。で、魅羅亜儒と書いてミラージュと読ませる名前のレディースの頭やってた及川先輩から、「お前らギャルもグループのステッカー買え。ノルマは五十枚」と言う命令みたいなものがアタシにも来た。つまり一万円寄越せ、という話だ。他のギャルのコは後難を恐れ、素直にステッカーを買ったが、アタシは癪に障ったので、

「先輩のウチに代金持って行きますので」「よかったら売りつけるの手伝いますよ」と猫を被って電話した。そして及川先輩の家まで行って、お母さんに笑顔で迎えられ、先輩に一万円払った後、先輩を部屋にあった金属バットで滅多打ちにして一万円を取り返し、帰り際に先輩自慢の改造バイクのオイルタンクに角砂糖を入れて帰途についた。


 及川先輩は馬鹿だったので、仲間に召集をかけ、件の改造バイクでアタシを追った。当然バイクのエンジンは角砂糖のもたらす高カロリーに耐えきれず爆発し、及川先輩は田んぼに顔から落ちた。まだ金属バットを持っていたアタシは後難を恐れ、立ち上がってきた及川先輩を再び滅多打ちにし、彼女が仰向けに倒れたのでもういいかなと思い、金属バットをアタシの同級生の魅羅亜儒のコに渡してから家に帰って受験勉強をした。


 及川先輩は死んではおらず、全身打撲で入院した。魅羅亜儒は解散。そしてアタシは及川先輩の子分を含むギャル仲間と見舞いに行き、桃の缶詰を「早く良くなってくださいね」と言いながら彼女の口の中に押し込んだ。皆が嗤う中、前歯が折れる音がしたのを覚えている。


 このように、お金を見せられると人は無防備になってしまう。しかも大川さんは大人だから、次の手、またその次の手を考えているに違いない、とアタシは思った。

「私が大丈夫かどうかなんて、どうでもええやろ。ツヨシ、ここに呼べ」

「もう午前零時過ぎよ」

「電車無いならタクシー拾わせろ。タクシー代くらい、私が払うから、な?」


 アタシは大川さんと草野ユキのやりとりを黙って聞いていた。そして大川さんの眼が殺気立っているのを見た。所長はといえば、黙って腕組みしながらも、大川さんの動きを警戒しているようだった。

「この店、常連客で持ってるんやろ?はよ受け取らんとおかしく思われるのはお前ちゃうけ?」


「そのお金、本当にあんたのお金?薬局のお金なら、店主でも横領罪になるんじゃないの?」

「そんなん、どこの税務署が調べますかって話や、気にせんでええから、ほら」

 草野ユキは渋々と携帯を取り出し、電話を掛け始めた。

「ツヨシ?こんな時間にゴメンね」


 途端に大川さんは札束を草野ユキにぶつけ―三つあったから確かに三百万円あったと思う―それに怯んだ草野ユキを横目に見ながら銀行名入りの紙袋から果物ナイフを取り出し、アタシに向かって突きつけた。ナイフを突きつけられた瞬間、何故か時間の流れがゆっくりとなり、気が付くと膝頭がカタカタと震えていた。なんでアタシなんだよ、とは思ったが、大川さんが女の命を男のそれより軽んじていることは理解出来た。

「金はくれてやる、電話代われ、はよ代わらんとこの女刺すぞ」

「分かった、分かったから店内で刃傷沙汰はやめて」


 顔面蒼白になった草野ユキは、カウンターからテーブル席のあるほうにやってきて、大川さんに自分の携帯を渡した。

「ツヨシ、あたしや。携帯番号まで変えて、あたしから逃げられると思うとったの?東京の大学行きたがってたのもこういうことやったのね、ツヨシ、あたしのこと嫌いになったん?」


 動作も言葉使いもオネエ全開になった大川さんの注意は右手のスマホに向いており、左手の果物ナイフは特殊警棒で叩き落とせなくもなかった。だが、失敗したら。やはり刃物は恐い。ツヨシ君が大川さんから逃げた理由はもしかして、こういうドメスティック・バイオレンスが日常化していたからだろうか。


「あんたのこと拾って大学までやったの誰やと思うとるねん、もうええ、仕送り止めて、養子縁組も切るさかい、そしたらあんた、あっというまに野良犬やん、身分わきまえとき。それで今から何分で来れる?じゃあ待ってるから」


 大川さんは電話している間、隙だらけだったはずなのに、喉元にナイフ突きつけられると何もできなかった。悔しい。生まれてこの方、こんな悔しいことはなかった。


 大川さんは携帯電話を草野ユキに返しながら、

「表に『臨時休業』の札でも出しておきなさいよ、客が来たら追い返すのよ、ええね?」

 と勝ち誇ったように顎を上げて笑っている。ちょっとキレたアタシは、膝をガクガク震わせながら大川さんに向かって言った。

「大川さん、ツヨシ君は来ませんよ?」

 大川さんが、なんだこいつ、という顔でアタシを見た。

「あたしが呼んで、なんで来ないって分かるの?」


「店内の物騒な様子が筒抜けだったじゃないですか、どうせツヨシ君にもこんな感じだったんでしょう?一人っきりの老後でも迎えやがれこのカマ野郎」


 これを言ったら刺されてもしょうがない、という言葉がアタシの無意識から漏れ出た。大川さんの顔が真っ赤になり、怒りで歪んだ。

「おい草野、もう一回ツヨシに電話しなさいよ、探偵のねえちゃんはね、とりあえずその警棒床に置きなさい、ゆっくりや、ええね?」


 言うとおりにするしかなく、果物ナイフの先端を見つめながらアタシはゆっくりしゃがんで警棒を床に置いた。草野ユキは青い顔をして携帯でツヨシ君と話している。

「一人で来んのよ、ツヨシ。お父ちゃんがオカマ掘らせてあげるさかい」


 大川さんは聞こえよがしに大声を出し、油断したのかナイフの先端がアタシから逸れて天井を向いた。その隙を見逃すはずもなく、アタシはぱっとしゃがんで警棒を拾い上げ、しゅっと伸ばしたら女役の癖に無駄に固くなった大川さんの股間に先端がヒットした。そして大川さんがうずくまるのと入れ替わりに立ち上がったアタシは手首をはたいてナイフを叩き落とし、大川さんが床にのめり込むように倒れるまで頭を殴った。


「サキちゃん、そこまで」


 所長がアタシと大川さんの間に割って入り、ぐったりしている大川さんの腕をねじりあげて立たせ、ソファーに寝かせた。

「えー、今更なんだけど大川さんが持っていたのはこのビニール傘だから」


 ちょっときまり悪そうにそう言ってから、所長は持っていたビニール傘を大川さんの両手に無理やり握らせた。

「所長がそう言うなら異論はありませんが、なんでです?」

「だって持っていたのがナイフだと警察に通報しなきゃならんだろ。あと、特殊警棒も、持っているだけで色々うるさいから回収しておくから」


 所長はこそこそとアタシから香港皇宮警察モデルの特殊警棒を受け取り、しゃきんと縮めて自分のバッグにしまった。

「それ持たせて、出しておいてって言ったの所長じゃないですか」

 アタシが不満を垂れると、所長はますますきまり悪そうに頭を掻いた。

「万が一のことを考えてたんだけどね。しかし容赦なく殴ったね。慣れてないとこうはいかない」


 褒めてるつもりらしいけど、とむくれるアタシに、草野ユキが慰めるように声を掛けた。

「まあいいじゃないの、一日のうちに二人の男を負かした女はあんたくらいなんだから。それにしても肝が据わってるわね?」

「や、や山梨の田舎ではギャルはマイノリティなので」


 普段は渋谷や六本木が似合うオンナを演じているアタシだが、出自を正直に言う時は動揺した。

「オカマもマイノリティよ。マイノリティはタフじゃなきゃね」

 そう言って草野ユキは力こぶを作って見せた。それを見てアタシは改めて、昼間こんなゴツいのとやりあっていたのかと思い、ちょっと気が遠くなった。


 ツヨシ君はその十五分位後に『イヨカン』にやってきた。写真よりハンサムで、なんでこのコに限って同性愛者なのかと、二十代女性が百人いれば八十三人はそう思うだろうという男の子だった。


 草野ユキが、ツヨシ君に大川さんがソファーで寝ているいきさつを説明した。ツヨシ君はふんふんと頷きながら、大川さんにつけられたという右腕の切り傷をアタシに見せた。やはり大川さんの家庭内暴力が東京に来た、そして今回行方をくらました理由だったようだ。

「東京の大学に行くっていうのも限界があると思ってました。『就職は大阪で』という条件があったので」


 でも、とツヨシ君は話を続けた。

「この人、僕にいつも言ってました。この世界で一番偉いのは神様でも仏様でもない、血も涙もない世間様という怪物なんやって。それだけは、否定できないものがありますね」


 大川さんはこちらが請求した金額を「契約だから」ときっちり払って大阪に帰って行った。ツヨシ君をどうするのかまでは聞かなかったから分からない。


 アタシは所長に訊いた。

「ねえ、アタシのどこが『世間様という怪物』なんでしょうね」

「それよりサキちゃん、仕事の話なんだがこのDVDなんだが」

 おやまあ、うまくはぐらかされてしまった。ま、家賃も余裕で払えてごはん食べられるんだからいいか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Fラン大学新卒ギャル探偵の事件簿 スリムあおみち @billyt3317

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ