世間様8

 新宿二丁目のバーに入ったのはこれが初めてだが、『イヨカン』はテレビモニターが六つあって、小さなステージがあって、テーブル席とカウンター席があるという、思ったよりは広い間口の店だった。左目に眼帯をはめ、黒のタンクトップ姿で肩の刺青をさらしている草野ユキは、カウンターの中からテレビモニターの中の昔のアイドルらしき女の子をぼんやりと見ていた。客はカウンター席のアタシと所長しかいない。雰囲気なんだかどんより。こういう時は空元気。


「こんばんは、昼間はどうも。目は大丈夫ですか?」

「ちょっと腫れてる。医者の話じゃ今晩は酒飲むなって。大したことないわ。大川は後で来るの?」


 アタシの代わりに所長が返事をした。

「大川さんには連絡しておりません。まあ、率直に言うと、痴話喧嘩になるでしょ?」


「かもね」草野ユキは所長に向かって「あんた誰」とは訊かなかった。客商売だからか、すぐに所長があたしの上司だと察した様子だ。だが彼には昼間の覇気が見られず、ただモニターの中の昔のアイドルの姿を眺めているだけだった。


「松本伊代ちゃんみたいなコになりたいわあ」

 草野ユキがモニターを見ながらぼやいた。あ、この曲聞いたことある。マツモトイヨは知らない。しかしあんたガチムチに体鍛えておいて、なんで今更こんな細身のオンナノコになりたいとか言うんだ?馬鹿なの?

 所長が話を続けた。

「私の部下の野宮の話では、昼間あなたに首を絞められたということですが、目はどうされました?」


「彼女のハンドバッグに付いてた金具がかすったんです。原因は私なので反省していますが、警察には通報されますか?」

 草野ユキは、所長に対してはいくらか委縮している様子が見てとれた。それに、思っていたより警察を気にしているようだ。


「サキちゃん、どうする」

 所長に肘で小突かれ、慌てて口を開く。

「いえ、過剰防衛だったかもしれないので通報しません。なんで白昼堂々あんなことしたのよ、草野ユキさん」


「あたしらみたいなのは、好きな相手を見つけるのがとても難しいのよ。あんたみたいな黙ってればカワイコチャンは、彼氏見つけるの簡単でしょ?」

「それがそうでもなくて困ってます」

「まあ、正直言うと、もし通報されたら昼間働いているネイルサロンは間違いなくクビになるだろうから、まずいなとは思ってたのよ」

「このお店は?」

「雇われ店長。オーナーが理解ある人」


 ここで所長が話に入った。

「ツヨシ君はあなたの家で暮らしているんですよね?オーナーさんがそれを知ったら、まずくないですか?」


「あたしは別にオーナーの愛人とかではありません」

 グラスを洗いながら、こちらに背中を向けて草野ユキは淡々と所長の問いに答えた。


「では、ツヨシ君と大川さんのことですが、、、」

「ああ、ツヨシは十五歳の時から大川とできてたのよ。それが実家にバレて勘当されて、そこを養子にしたんだから、大川から見たらあたしは泥棒猫ね」


 え、十五歳から?草野ユキはさらっと言ったが、アタシはぐらっと来た。なにそれリアルで腐女子が大好きな世界じゃないか。しばらく黙っていようと思ったが、質問してしまった。


「それって、青少年保護条例とか、そういうのはどうなるのよ?」

「そんなの誰も通報しないわよ。独身でも養子縁組は出来るから、あとは好き放題。あたしから見たら、大川はツヨシの青春を金で買ったクズよ」

「独身って、大川さん独身なんですか?」

「日本では、同性婚は認められてないくらい知ってるでしょ?」


 うわあ。それじゃあの奥さんって赤の他人だったの?道理で息子の失踪に対して冷静だと思った。あるいはホモとレズの仮面夫婦か。


 アタシが知らない世界を垣間見てアワアワしてる間に、所長が草野ユキの方に身を乗り出した。

「それで草野さんはどうしたいんですか?」

「ツヨシが社会人になったら、東京であたしと二人で暮らすことを認めさせたいです」

「もし、別れてくれって言われたら?」

「それは、向こうもそれくらい言うだろうけど、東京にツヨシを送り出したのは大川だし」


 草野ユキが動揺した。ツヨシ君に対しての愛情以外のものが彼女を動かしているのがアタシにも分かった。

「それでは私ら明日が早いので。また寄らせてもらいますよ」

 所長が席を立ち、勘定を払おうとすると、草野ユキは、タダで良い、と言った。

「しかし失礼ながらこの客の入りでは」

 所長の心配に草野ユキはさらっと返事をした。

「ああ、ここらの店は大体午前零時から盛り上がるんですよ、ご心配ありがとうございます」


 『イヨカン』を出た後、アタシは所長に言った。

「あの人、大川さんからお金取ろうとしてますよね?」

「まあ、金にがめついオカマなんて珍しくもないけど」

 所長が言葉をそこで切り、ぴたりと立ち止まった。大川さんが目の前に立っていたからだ。


「金にがめついオカマならここにもいてまっせ」

「大川さん、なぜここが?」冷静に質問した所長に向かって、大川さんがニヤリと笑った。

「右も左も分からん東京でどないしようかと考えて、悪いとは思ったが、この件担当の野宮さんを尾行させてもらいました」


 アタシは尾行されてたのか。全く気が付かなかった。

「おねえさん、神楽坂では危ないところでしたなあ。ほな、話つけにいってきますので、ではまた」


 大川さんは私と所長に一礼してから『イヨカン』に向かった。

 それを見送りながら所長が言った。

「サキちゃん、警棒出しておいて」

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