2.快楽計算

由野琥珀よしのこはくは一息ついていた。

温かいカフェオレを口にいれ、ふぅと一息吐く。琥珀が初めてこの喫茶店に来たときから3ヶ月がたった、世間は今年の瀬、年末年始である。

カウンターに座って店主である相河環あいかわたまきとのんびり話をしている。テーブル席には他の客がいるものの、あの嫌味男は居ないからだ。


「琥珀くんは実家帰ったりしないの?」

「今年は仕事の兼ね合いもあってやめとこうかなって、元々正月だからといって特に何する家でもなかったので。お店はいつまでですか?」

「30日まで。年明けは2日から開けるよ。」

「2日間しか休みないじゃないですか。忙しいですね…」


かくいう琥珀は既に仕事納めを終えており、今日は私服で立ち寄った。隣の席にはデパートの歳末セールで買った戦利品が置いてある。


「僕も特に実家に帰るとかないからね。1人だとやることもないし。それに開けてたら結構お客さんも来るから。」


ほほう、環さんは独身か…。年齢不詳、結婚してるか子供がいるかも分からなかったが少しだけプライベートが垣間見えた。

しかしこんなに見た目も中身も良ければ一緒に年越す恋人くらいいないのだろうか。


佐瀬さぜくんも仕事で帰れないって言ってたなぁ。」

「へぇ…そうですか。」


その名前を聞いて途端に顔をしかめる。決してカフェオレが渋いわけではない。話題が渋いのだ。


「いい加減にしてよ!」


後方で大きな音がして振り返ると、音を出したのはテーブル席に座っていた男女カップルの女性の方だった。

女性は大声を出してしまったことに対し気まずくなったのか、周りを見渡して(といっても他の客は私だけなのだが)居心地悪そうに立ち上がった席にまた座った。


私は環さんと顔を見合わせる。環さんはなにかを用意して少し困り顔でカウンターをでた。


「お客様、良ければコーヒーのおかわりおつぎしますね。」

「あ、いや…!あ、ありがとうございます…。すみません、大声を出してしまって…。」

「いえ、気にせず、どうぞごゆっくりお過ごしください。」


どうやら女性らが飲んでるコーヒーと同じ種類のポットを持っていったらしい。

大声を出したにも関わらずどうぞごゆっくりだなんて、人間出来すぎてるのでは、と思うが、私からしてみれば、そのまま帰られるより環さんが話を聞きたいあわよくば話に突っ込みたいといったところか。


客側もこんなにいいサービスされたらすぐに帰るのは逆に失礼だと思うだろう。



…ん?ということは私の時もそうだったのか?


戻ってきて微笑んでる環さんにじとっとした目を向ける。私の視線の意味を分かってたいないらしく、てれてれと頬をかいたままだった。

照れるな、褒めてないです。



どうやらカップルは喧嘩をしてるようだった。女性は普通の格好した20代の女の子、琥珀と同じくらいか少し上くらいだろうか。男性の方は金に近い茶髪で革ジャン来ている。少し、というかかなりロックな感じだ。指にはゴツゴツした指輪と首に大きいネックレス。一見、売れないミュージシャンのような見た目だった。


「いい加減にするのはお前だろ。」


男性から発せられた声は意外にも低く、落ち着いていた。


「なんでよ、魁臣かいしんから話があるっていうから来たのに、年末に急に何言い出すかと思ったら…。」


男の方は魁臣という名前らしい。女の子の方は分からないが、さめざめとした表情で今にも泣き出しそうだった。

彼氏が非道い事言って彼女を怒らせたのかな、もしくは愛想つかれたとか。


勝手に想像しながらカフェオレに口をつける。


「今までの私の頑張りは無駄だったってこと?ちゃんとこれからのこと考えてよ!」

「考えたから言ってるんだろうが…」

「納得出来ない。」


あれかな、彼女は結婚してちゃんと2人で暮らしたいから夢を諦めて欲しいのに、男の方が夢を追いかけてるパターンかな。


「ちょっと一回頭冷やした方がいい。」

「何よ!そっちが呼び出したくせに、もういい!」


遂に女性の方が財布から千円札を抜き去り机に叩きつけて出ていってしまった。いつもは控えめに鳴るドアの鈴の音も荒々しい。

ちなみに環さんが出したおかわりのコーヒーは結局手をつけられなかった。


「はぁ…。」


男──、魁臣はため息をついて机にはめてた指輪とネックレスを外してそっと置いた。なんとなく重かった枷を取るような仕草だった。


そのタイミングで環さんがまたカウンターから出た。



「この指輪、去年のクリスマス時期にしか売ってない有名ブランドのものですね。」

「え?そうなんですか…?あいつがくれた奴なんです、でも貰ったのは今年のクリスマスですよ。」


さりげなく今年の間違いじゃないですか?という目をしているが環さんは動じずニコニコ顔でチョコレートを差し出した。


「いえ、去年ですよ。自分も贈り物に買おうと思ってたのですが、限定品で売りきれてしまっていて買えなかったのでよく覚えてます。」


魁臣という男は、へぇ…と納得してるようだったが、琥珀は『環がクリスマスに男性もののブランドの指輪を贈りたかった人物』が気になりすぎて口を出しそうだった。ぐっと耐えた自分を褒めたい。


「値段もそこそこでしたが、それよりも数量が少なくて結構前に予約が完売したはずです。」

「そうなんですか…。実は、これあんまり自分の趣味じゃないんですよね。」


琥珀は心の中で首を傾げた。指輪は着けていたネックレスや着ているもの、髪型にも似合っていたからだ。


「…学生時代ロックバンドやってたんですけど、そろそろちゃんとした仕事につこうと思ってて。今の彼女は学生時代に付き合ったので…。」


ん?なんか思ってた話と違うぞ?

琥珀だけでなく、環もそう思ったのか、どういうことか説明を求めていた。


今年26歳になる魁臣は大学卒業後バンド活動をしつつバイトをしていたが、そのバイト先で正社員雇用の話があがり、これを機にバンドをやめて正社員になりたかったらしい。

彼女は彼女で既に社会人3年目というのであるから、いつまでもフラフラせずにちゃんとしようと思ったのだ。


魁臣の考えは至極全うだが、彼女は『ロックバンドをしている魁臣』が好きだったのだ。人間大人になれば趣味趣向もかわり、魁臣の持ち物も少しずつロックから離れていったものの、彼女からのプレゼントはロック調のものばかりだった。


それだけ聞くとさっきの彼女の印象がガラリと変わる。要は自分の好きな魁臣を押し付けているだけなのではないか。と。


人は見かけによらないなと琥珀が思っていると、環が「ふむ…なるほど…」と呟き始めた。


「人の快楽は人それぞれだと思いますが、それを数値化して考えた人がいます。」

「数値化?そんなの出来るんですか?」

「出来るというか、やったというか。人の快楽の中に7つの項目作って、その総合得点を出すんです。ええと、全部は覚えてないんですが、例えば…」


快楽の強さ・持続性・確実性の3つで見るとする。

『正社員にならずバンドを続ける』については快楽の強さ=8,持続性=2,確実性=1のトータル11だとする。

反対に『バンドをやめて正社員になる』は、

快楽の強さ=2,持続性=8,確実性=6のトータル16だとする。

11よりも16の方が多いために後者の方が幸福である、というものだ。


魁臣は今後の事もしっかり考えた上で結果的にトータルの数が高い方を取った。


それでも人の快楽は他人が決められるものではない。彼女は4年間バンド活動をしている魁臣に貢いで来て、バンドをしてる魁臣の支えになること自体が自分の生き甲斐であって、魁臣に求めてるものだったのだろう。


そんな彼が夢を捨てて真面目に働き始めるといった。彼女としてはたまったものではなかったのだろう。

価値観の違い、と言ってしまえばそれで終わりなのだが──。


「まぁ、最近ちょっと噛み合わないなとは思ってましたけど…。」


魁臣のその発言に琥珀は少し眉を潜めて口をつけていたカップをソーサーに置いた。少し荒々しい音を立ててしまったかもしれない。

環がその様子に気付いてテーブルの方から声をかけてきた。


「琥珀くん、何か気になることあったかい?」


琥珀はやっと後ろを振り向いて魁臣という男をみる。あるにはあるが第三者が首を突っ込むのも如何なものか。言い淀んでいると、魁臣が口を開いた。


「よければ聞かせてください。女性の意見も聞きたいです。」


琥珀としてはここで女性だからという理由で促されるのは実に癪だが、それよりも好奇が勝ってしまった。


「噛み合わないなって気付いたのは、いつからなんですか?」

「…2、3ヶ月程前から。会うたびに言葉の端々から自分に求めてくるものが、俺とは違うのかなって感じて、プレゼントでこれを貰ったので確信したというか。」

「気付いてたのに言わなかったんですか?もしくは態度に出してたとか。」

「…アイツとは学生時代からの付き合いで、」


「言わなくても分かるって思ってたんですか?」


努めて冷静に、しかし気まずそうに琥珀は言った。環をちらりとみると優しく頷いていた。

まだGOサインが出てる。あまり言い過ぎていたら環が止めてくれるだろうと琥珀は少し息を吸って、吐いた。


「価値観は違ったかもしれないけど、それを止めなかったのは貴方じゃないんですか…?」

「それは…そんなところまで言わなくても、恋人同士なら察してくれると思って…。」



恋人同士で、信じてるなら…言っても問題なかった筈だと思います。琥珀はその言葉をぐっと抑えた。ここまで言うのは何様すぎる。


何も言わない、は怠惰だ。それを察してくれというのも傲慢だ。何故なら相手は仙人ではない、同じ人間だから。

昔から無言は肯定を示す。彼女は魁臣の無言を肯定と取ってたんだろう。



話の流れが止まりそうなところを、するりと環が質問した。


「去年のクリスマスプレゼントってなんだったんですか?」

「確か…旅行に一緒に行った時にアウトレットに寄って、ダウンを買って貰ったような…。仕事が忙しくて用意できなかったって言ってて。」



それを聞いて確信する。おそらく結構前から彼女は魁臣の変化に気付いていたんだろう。

具体的には、一年ほど前から。


「本当はその指輪を渡すつもりだったけど、渡せなくてそうしたんじゃないんでしょうか。」

「渡せなかったって…なんで」


気付いていたからだ。魁臣が変わろうとしている事を、感じ取っていたからだ。だから一度は身を引き、それを渡せなかった。


「それでも諦められなかった。だから最近になってわざと話の節々で試すような事を含んだんじゃないでしょうか。」


それでもそこまでしても魁臣は無言だった。無言は肯定。そして、


「今年、思いきってこの指輪をプレゼントすることにしたんじゃないでしょうか。」


受け取ってくれたことへの安堵。しかしその数日後、呼び出されて真逆の決意を口にされる。

彼女が言っていた『私の頑張りは無駄』というのは、貢いできたお金のことではなく、この一年の心の中での葛藤と、少しずつ出していたサイン、そして決意、その全てがむなしくも魁臣に伝わってなかったということだ。


正直他人からしてみればどっちもどっちだ。そもそも彼女のやり方も遠回りで、ちゃんと話せば良かったのだ、とか、たらればは言い出したらキリがない。


魁臣の選択は間違ってない。間違っていないからこそ、彼女は様子をみて少しずつ距離を詰めたのだ。正論に負けないように。



「さっきの計算、点が高い人間が集まった方がより良い社会が出来るって言われてるんです。」


まぁ、その通りだろう。魁臣のような考え方が多い社会の方が成り立つに決まっている。

でも、そうではない人はどうなのか。世間に対してマイノリティはいつでも不利だ。


だからといって彼女を責める空気にはなってない。むしろ三人とも、どことなく気まずい雰囲気が流れるくらいだ。

しかし決定的な事を言葉にするのが憚られる。

そういう時は若い二人ではなくやはり店の主が切り込んだ。


「言葉は相手を傷付けるだけの刃ではなく、伝わって理解してこそ真価を発揮するものですね。」


環の言葉は魁臣の心だけでなく琥珀にも響いた。勢いもあったとはいえ、先程魁臣に対して少し強めにものを言ってしまったからだ。


「…ありがとうございます、ごちそうさまでした。」


魁臣は指輪とネックレスをポケットに突っ込んでお金を出した。

荒々しく出ていった彼女とはうってかわって、静かにドアを押した所だった。


「あっ、の」


カウンターの椅子をぐりっと向かせて魁臣を引き留めた。


「貴方の考えも素敵だと思います。」


喉がカラカラ乾いていて、考えて考えて考えた末に頭の中で選んで一番伝わりそうな言葉だけを発した。


魁臣はここに来てから初めて少しだけ微笑み、短く感謝の言葉を伝えてから喫茶店を出た。



▲▽▲▽▲▽



「おつかれさま。」


環がカフェオレのおかわりを注いでくれる。はぁあ~と大きなため息をついた琥珀が小さな舌でその温度を伺いながら口に含んだ。


「なんか…考えるのも話すのも、凄く消耗しました。」

「そうだね。どちらも頭だけじゃなくて体力と気力を使うよね。」


わかるわかる、と頷く環をみて、この人はその体力も気力も持ち合わせているのだなと感心する。


あのカップルがその後どうなったのか、彼女を追いかけていったのかは分からない。けれども2人が納得行くようにと願う。



チリンチリン、と再びベルがなった。

北風と共に入ってきたその男は、琥珀にとって北風のような男だった。


「げ」


琥珀を一目みて苦いなにかを食べたような顔で声を出す。それはこっちのセリフだと言いたい。


「やぁ佐瀬くん。仕事終わりかい?」

「いや、昼休憩。コーヒー持ち帰るからタンブラーに入れてくれ。」


真っ黒なタンブラーと小銭を差し出して琥珀の2つとなりの定位置に腰を落とす。

灰色のロングコートの下からチラチラと黒い服が見える。マフラーを巻かず、Vネックによってさらされてる首もとは見ていて寒そうだった。


「年の瀬まで大変だね、今日は当直?」

「あぁ、待機時間もやんなきゃならねぇこといっぱいあるからな…。」


どことなく疲れた顔して遠い目をしている。前見たときは上から物言う嫌なやつだと思ったのに、意外と人間ってことか。


「佐瀬くんはこの近くの総合病院で働くお医者さんなんだよ。」

「おい。」


医者。

素直にびっくりした、そう言われてみれば納得する風体だし、これが医者かと疑いたくもなる。

本人はなんで言うんだ、と言わんばかりの視線を環に送っていたが、環は全く気にしてない様子でコーヒーを入れたタンブラーを渡していた。


「…患者の前では猫被るタイプですか?」

「はぁ?」


あ、めっちゃ嫌な顔された。確かに言葉のチョイスまずったとは思ったけども。それにしても、はぁ?って。仮にもまだ2回しか会ってない人に言う言葉か。


「少なくともお前の前では被らんから安心しろ。」

「望んでないです。」

「君たち…。琥珀くんさっきまで言葉がどれだけ大事か分かったはずでしょ。」


環が呆れている。琥珀も分かってはいるが相手が悪かった。バチバチとお互い視線で火花を飛ばしてる。


「ほら、佐瀬くんあまり長居しちゃダメなんでしょ。身体気を付けてね、良いお年を!」


メンチ切り合ってる私たちの間を無理矢理距離をとらせた。

背中をぐいぐいと押してドアを開いたら都会しては珍しく、雪がちらついてるのが見えた。


最後までメンチ切ってる男の後ろの歩道を、二人の男女が並んで通りすぎて行ったのは、きっと雪が見せた幻覚ではないだろう。



【後書き 補足】

快楽計算はジェレミー・ベンサムというイギリスの近代哲学者が考えたものです。


快楽を数で表すってなかなかびっくりですよね、ベンサムは快楽計算を使って点数の総合計が高い社会ほど幸福な社会と考える「最大多数の最大幸福」ということも言ってます。

ちなみに第1話のミルはベンサムの思想から更に発展しました。


また本文の最後の方で「言葉は伝わらないとうにゃうにゃ~」など言ってますがドイツの現代哲学者、ユルゲン・ハーバーマスのコミュニケーション的理性も参考にしてます。ざっくり言うと自分の考えを押し付けるための道具として理性を使うんじゃなくて対話して自分の考えを改める事で理性を使える…みたいな感じです。ただそこにはお互いなんでも言い合える条件のもとで行われる必要がある。と言ってます。

魁臣たちは「お互いなんでも言い合える仲」だったのかな…


余談ですが魁臣はもっとちゃらんぽらんの予定でした。何故か口を開いたら真面目になってしまった。気に入ってるのでまた出したいです。

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