1.不満足な僕ら
社会人生活一年目。勤めてる会社は第一志望ではなかったが、やっと通った最終面接。これからの社会人生活に期待を込めて社歌を歌った入社式、現場を知らずに知識と希望を詰め込まれた研修。それらを経て配属された部署は一言で言えば自分の肌に合わなかった。
実務経験を積み初めて早半年。あと2ヶ月もすれば年の瀬を迎える事になる。
配属当初は、30分前と言ってる事が違う厳しい上司にも、なんでも仕事を振ってくる適当な先輩にも、機嫌の浮き沈みが激しい事務のお局様にも苦笑いで耐えてこれた。
しかし仕事にも慣れて来ただろうと1人で営業先を任され始めた今、積もり積もってきたストレスに新しい不安も折り重なり身体よりも心がすり減っていた。
今しがた行ってきた営業先で、以前担当だった上司に伝えていたという案件が自分に伝わっておらず、先方は大変困惑された。
クレームまではいかなかったが、これを会社に戻って上司に伝え、対処するのは自分だ。
今までの経験上、上司が非を認めないことは予想がついている。理不尽な責任転嫁をされるだろうことも。
そこで噛みついても仕方ない。所詮自分はサラリーマンで上の言う事に逆らえはしない。
これから上手くやっていくなら、適度に、適当に、やり過ごすのが一番いい。
由野は既に13時を回っているのにまだ自分が昼食を摂っていないことに気付き、軽食が摂れそうな喫茶店を探した。
営業先の周りにはチェーン店が見当たらず、仕方なく地元の人しか知らなそうな珈琲屋に入った。
窓もなく、正面には曇りガラスのついた大きなドアしかない。外からは店内の様子が分からないため軽食があるかどうか不安だったが、正直今は胃に何もいれなくてもいいか、というような気分だ。
とりあえず、コーヒーでも飲んで気持ちを落ち着かせて、それから帰ろう。
ドアノブを捻り、重い扉を引くと上についてた鈴がチリンチリンと鳴った。いかにも喫茶店、というような音だ。
店内は思ったより小綺麗で、奥行きがあるせいか閉鎖的ではなかった。
カウンターとテーブル席があり、テーブルは2席とも既に埋まっていた。1人だし、もとよりカウンターに抵抗はない。一番端は埋まっていたので端から3番目の席に座った。
「いらっしゃいませ」
カウンター越しに黒シャツの男性店員が水とメニューを手渡してきた。
30代だろうな、いや大人びた20代かもしれない。40代と言われても納得できる。
受け取ったときにニコリと微笑まれ、年齢不詳でありながらも独特の清潔感とワイシャツの首もとから出る色気に感心してしまった。
メニューを見るとコーヒー・紅茶・カフェオレと言ったような一般的なカフェメニューにサンドイッチやフレンチトーストといった軽食もあった。
それでもなんとなく食べる気分にはなれず、結局カフェオレを頼んでしまった。
「かしこまりました。」
グラスを拭いている手を止め、コーヒーメーカーに向かった。鞄から社用の携帯を取り出し、メールをチェックする。あの面倒事だけ押し付けてくる先輩からだ。内容を読むとまた一筋縄ではいかない案件が舞い込んできていて思わず頭を抱えた。
「どうぞ」
目の前から差し出されたのは温かいカフェオレと小皿に乗っていたチョコレートだった。
「サービスです。」
「…ありがとうございます。」
頭から手を離す。
気の利いた店員だ。いや、先程からこの人しかスタッフがいないところをみると店主なのかもしれない。
「お客さん、余計なお世話かもしれませんが顔色悪いですよ。」
気が利いてるだけじゃなくて優しい。そもそもがイケメンなのに中身までいいときた。
でも嫌な感じはしない。むしろ好感が持てる。本当に心配してくれてるのが分かるからだろうか。
「いや、ちょっと…仕事が忙しくて、大丈夫です。ありがとうございます。」
「そうでしたか、それはお疲れ様です。良ければゆっくり休んでいかれてください。」
その近付きすぎない距離感が逆にありがたかった。少なくとも今の自分にとっては。
だからか、張り詰めていた気が少しだけ緩んだからつい、思わず言ってしまった。
「ダメですね、少し余裕がないくらいでこんな…。もう少ししっかりしなきゃって分かってるんですけど。」
はは、と少し自嘲のように声をあげた。
受け流してくれるかと思いきや水仕事をしていた店主の手がピタリと止まった。
「お客さんお若いですよね。おいくつですか?」
「え?えっと、23です。」
「そうですか、それは無理もない…。私は君のような人を放っておけないタチでして。よければお悩みを聞かせてもらえませんか?勿論言いにくい事は言わないで結構です。でも他人に話を聞いてもらうだけでもいい気分転換にはなりますよ。」
そうは言ってもここにいるのは自分と店主だけではないし、と周りを見回した。するとテーブル席に座っていた老人らは空いたティーカップを残して既に居なくなっていた。いつの間に帰ったのか。
カウンターに座っている男性を見やると新聞片手にコーヒーを飲んでいたがその耳にはワイヤレスイヤホンが入っている。
店主の顔を見ると、ね。というように微笑まれた。
腕時計をチラリと確認すると13時20分を指していた。14時までに会社に戻ればいいか。そう思ってカフェオレに手を伸ばした。
「自分が不器用な事は重々承知してるんです。」
不器用というより馬鹿真面目といった方がいいのか。与えられた仕事は自分が納得行くまでやり遂げたいと思う反面、理不尽に振られた仕事に対して反発をしてこなかったのも事実だ。
もっとこう、適度に手を抜いて上手く世渡りをすればいいのに。
「それに自分よりも大変な人なんて沢山いるのに、文句を言える立場でもないというか…。」
休みさえまともに貰えないとか、残業代がつかないとか、もっと環境が悪い所に勤めた学生時代の同期だっている。それに比べたら自分なんて、まだ優しい方じゃないか。
土日の休みがあって、お金もそこそこ頂ける。合わないのはそこで働いてる人だけだ。それに、こんな自分を拾ってくれた会社を無下にすること自体が酷いことのように思えた。
「会社の他の同期は、そんなこと無さそうなんです。皆それなりに楽しそうにやっていて、今の仕事に満足してるんです。だから自分がおかしいんだと…。」
入社式、いや、内定式から気薄々付いていた。なんとなく他の同期のノリが合わないこと。自分はこの会社に合ってないのではないか。不安に気付かないフリをして今日まできた。
「そんなに辛くて、身体は大丈夫なんですか?気が病んでいたら身体に出てくることもあると聞きますが…。」
「元から身体は丈夫な方なので、今は特に…。少し肌荒れが出てるくらいですね。」
「なるほど…」
会話が途切れた時に、パサリとカウンターの客が持ってる新聞紙を捲る音が響く。
「動物と人間の違いってなんだと思いますか?」
「え?」
店主の質問は突拍子のないものだったが、するりと会話の中に入ってきた。
動物と人間の違い。見た目や種別という違いではないだろう。
「喋れる喋れないとか…?」
「喋れるだけなら九官鳥でも出来ます。」
すぐに言い返されてぐぅの音を出してしまいそうだった。
言葉じゃない、いや、表面上の言葉ではなく、そこに乗せる感情がない?違う。感情こそ動物にはある。
「プ……」
「プ?」
合ってるかどうか、この言い方が適切かどうか微妙な所だ。しかしチラリと店主の顔を見るとどうぞと言わんばかりのニコニコ顔だった。
「プライド…?」
BGMがかかってるはずの店内がしんっと静まり返り、自分が変なことを言ってしまったと胃のなかがひゅんと寒くなった。
「す、すみません変ですよね…!」
「いや」
店主は今まで絶やさなかったニコニコ顔が一瞬なくなり、真顔になった。食いぎみで一言否定したあと、何か考えるように目線を外した。
数秒間その後の言葉が続かなかった。しかしパッと切り替えたかのようにまた爽やかな笑顔をこちらに向けた。
「そのとおりです。あまりにもまっすぐ的を射た答えだったので驚いてしまいました。すみません。」
「え?いや…いえ…」
「プライド、その通りです。例えば豚は沢山餌を食べてそれで満足します。では人間は?食事1つにしても、美味しく食べる、見た目を気にする、美容にいいものを…つまり質に拘ります。」
店主は饒舌に喋り、引き込まれるように耳を傾ける。
「お客さんがいうプライドというのは人間の尊厳であり、幸福を追求することに繋がりますね。」
尊厳、まぁ大袈裟に言えばそうなるのか…?
「幸福に質を求めるかどうか、それが動物と人の違いです。」
店主にそこまで言われて話の流れがなんとなく読めた。
「君は自分が他の人間よりも劣ってるように感じてるようですが、何も卑下することは無いですよ。満足した豚より不満足な人間の方がいい。」
先程までの笑みとはまた違う、ニヤリと自信げに笑う店主の言葉は、ストンと自分の心の中に落ちた。
そうか、おかしくないんだ。自分は
今まで腑に落ちなかったもの、視界に靄がかかっていたもの、それら全てが収まるところに収まり、目の前が明るく開けたような気がした。
少し冷めてしまったカフェオレに口をつける。砂糖もいれてないので甘すぎずさっぱりしていた。それはこの店の味を体現したもののように思えた。
「あの、」
「はい?」
「サンドイッチ頂いてもいいでしょうか」
時計の針は13時50分を指していた。
「かしこまりました。」
店主はまたふわりとした笑みに戻り、いそいそとキッチンに向かった。
しっかり食べて、食べたら早く戻ろう。それで、仕事だ。
▲▽▲▽▲▽
「言葉の一部分だけ切り取るのはリスキーだ、間違って伝わるかもしれない。これでアイツが
「勿論人は選んで言ってるよ。ただ、僕が質問した答えに"プライド"って言う子だ。心配ないと思うけどね。」
帰った客のコーヒーカップを洗う。カフェオレは冷たくなっても全て飲んでくれていた。要所要所真面目さが窺える。
「それに、元から自分の為よりも他人の幸せの為に働くような子だよ?あれだけ言っても他の人のことを豚とは思わないくらい性格いいし、少しくらい強めに言うくらいがちょうどいいよ。」
話相手の青年はイヤホンを片耳につけていたワイヤレスイヤホンを取り、新聞をたたんだ。
少しだけ眉間に皺が寄っている。キレイな顔が勿体ない。
「ところで君はまだ仕事に戻らなくていいの?
「…今日は当直明けで午後半だ。だとしても買い物の手伝いにはいかないからな。」
またそんな嫌そうに言う。これは前に彼が店の雑品の買い物をお願いしたときに頼みすぎたのを根に持たれてるな。
「今日はいいよ、早く帰って寝なさい。」
「アイツ、気に入ったのか?」
先程ま座ってた椅子をみる。帰りは随分とすっきりした顔で帰っていった。
「僕が気に入ったとしても、もうここに来なかったら関係ないよ。」
洗い上げたコップを布巾で拭きあげる。
「もし、また来たら?」
キュッキュ、と音を鳴らして白い陶器を磨く。
「常連になって貰おうかな。佐瀬くんみたいに。」
白い陶器にふと笑った自分の顔が映った。
カウンターに座ってる青年を見る。
またそんな嫌そうな顔をして。思わず声をあげて笑ってしまった。
▲▽▲▽▲▽
あの日、あの珈琲屋に行って、少しだけ気持ちが楽になった。
仕事は変わらず忙しく、嫌味を言う上司も軽率なノリで無茶振りしてくる先輩も1人でイライラしてるお局様も健在だ。
ただ変わったのは自分だけで、その自分も大層なことは変わっていない。無理な愛想笑いはせず、どうすれば仕事を善くできるか善い生活を出きるのかを考えて行動するようにした。それで上司への進言は増えた気がする。
長く伸びた爪は整え、ボサボサになっていた髪を切った。鞄の中にチョコレートを入れるようにした。
月日はあっという間に過ぎ、もうすぐで師走になるといった頃、偶然あの珈琲屋の近くに用があった。
そもそも職場から二駅ほどの距離だったので特段遠いわけではないが、行く理由もなかったのであれ以来立ち寄ってなかった。
用事を済ませ、ちょうど昼過ぎの良い時間帯だったので立ち寄った。あのサンドイッチをカフェオレと一緒にもう一度食べたくなった。
チリンチリンと喫茶店らしい音を鳴らして入る。
「いらっしゃいま…おや」
「どうも」
店主は自分を覚えてくれてたようで、あの爽やかな笑みを浮かべて迎えてくれた。テーブル席は空いてたが、カウンターに座った。
店主はなにやら楽しそうだった。
「この間はありがとうございました。おかげさまで仕事頑張ってます。」
カフェオレとサンドイッチを注文し、メニューを渡す。
「そうでしたか、それは良かった。余計なことを言ってしまったかと思ったので、また来て貰えて嬉しいです。」
パタパタとコーヒーメーカーとキッチンを行き来し注文の支度をしていた。
「余計なことなんてそんな。それにサンドイッチもカフェオレも美味しかったのでまた食べたくなってしまって。もう少し近くにあればもっと通うんですけど。」
「…本当に?」
ニヤリ。店主の顔は爽やかとは言いがたい、悪戯っ子のような笑みを浮かべた。それでも絵になるからイケメンはズルい。
店主は一旦奥に戻ってすぐに出てきた。
「申し遅れました、ここのオーナーの
取ってきたのは名刺だったようで、両手で丁寧に渡されたそれは上品に四隅に飾りをあしらっていて普通の会社ではあり得ないだろう。
受け取ったら渡す。社会人の基本として叩き込まれた習慣で自分のも出してしまった。
「由野琥珀です。よろしくお願いします。」
「琥珀…綺麗な名前ですね。」
「よく言われますが、名前負けです。」
はは、と笑うと店主が名刺を持ってそのままカウンターの中を横に移動した。
「そんなことないですよ、ね。佐瀬くん。」
自分の名刺を急に他人に見せられてぎょっとする。
以前来たときにいた人と同じだろうか、あの時ちゃんと顔を見てないが同じカウンターの端の席に座って新聞を読んでいた。
店主とはまた違う雰囲気を持った青年だ。色白でおそらく背も高い。自分よりも3つ4つ年上だろうか。首まである黒のハイネックが映える。なんというか、美人だ。きっとモテるんだろうな。
ちらりとこちらの顔をみて名刺を見比べる。
「名前負けだな」
前言撤回。嘲笑とはこういう笑い方の事を言うのか。いくら顔がよくてもモテないと確信した。自分で言うのと他人に言われるのは違う。
「こら、なんてこというの。ごめんね。ちょっとこの子人見知りで。」
「人見知りじゃねえ。」
「佐瀬くんもうちの常連なんだ。仲良くしてあげて。」
「環、勝手に話を進めるな。俺は別にいい。」
「はぁ…。」
なんだなんだ、この店主と青年の噛み合わなさは。
「それにこの前の琥珀くんみたいに、悩んでる人の話を聞くこともある。居合わせたら君のためにもなると思うんだ。」
そういえば、よく話を聞くこともあると言っていた。確かに自分にはまだない、新しい考えだってあるんだろう。それを知れるのはいい気がした。何より興味がある。
「是非。さっきも言いましたが、ここのサンドイッチとカフェオレは美味しいですから。」
店主と、佐瀬という青年にも向けて笑った。
この人のこともまだ知らないだけで、本当はいい人なのかもしれない。
「俺はしないって言ってるだろ。ただでさえ面倒なのに、新卒の
今一度、前言撤回。
話に性別を持ち出す男とはわかり合えない。
胸の辺りまであった髪は肩よりも上に切り揃えられてあり、最初の頃よりも身体に馴染んできたセットアップスーツ。スカートからのぞく足は防寒のため黒いタイツを纏っている。
さて、こうして私、由野琥珀は少し変わった喫茶店に関わることになった。優しいが食えない店主はまたニコニコしていた。
【後書き 補足】
こんにちは、紀城ゆうです。
90%のソフィアお読みいただきありがとうございます。
このシリーズの各話は一般の若者にはあんまり馴染みない哲学者の思想や言葉を少し反映させてるので補足を。読み飛ばし可です。
ただし、参考にしてるだけで全くもってしっかり思想を反映してるわけではありません!なのでなんちゃって哲学だと思って気軽にお読みください。
第一話は『満足な豚であるより、不満足な人間である方がよい』という言葉を残したイギリスの近代哲学者ジョン・スチュアート・ミルを参考にしてます。
ミルは肉体的快楽よりも精神的快楽の方が質が高いものであると考え、また精神的快楽は他人の幸福によって得られるはずだといってます。これを質的功利主義といいますが覚えなくていいです。基本哲学は理解しなきゃ!と思って読んだら頭パンクすると思ってます。
興味があればジョン・スチュアート・ミルで功利主義とかで見てみてください。
こんな感じでなんとなーく哲学の思想だったりを盛り込んでいきます。深掘りすると哲学者の思想とすれ違ってる事とかもありますが、なんちゃって哲学なのでご愛嬌ということで!
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