⑱ 『過去語り⑤』

 それまでずっと話していたルーシアが、ふぅ、とため息をつき、ジェノの顔を見る。


「あの頃のあいつは、島で腕を磨くだけではなく、夫のティルの仕事に時々ついていって、色んな国の料理を勉強していたらしいわ。だから、どんどん腕を上げていた。

 でも、あいつは島の中では随分と若かったし、あいつに弟子入りを希望するものはまだ居なかったのよ。あの頃は、あいつも私も、自分の腕を磨くことで精一杯だったから」

 ルーシアは顔を俯けて、少しの沈黙の後に口を開く。


「ジェノ。バルネアの旦那さんの事は知っている?」

「あまり多くは知りません。ただ、今の店を始める直前に、船の事故で亡くなったと人伝いに聞いています」

「そう……」

 ルーシアは少しの間だけ目を閉じ、また口を開く。


「今まで話した、あのメイラ島での一件から数年後の話よ。<銀の旋律>で副料理長になっていた私のところに、バルネアから招待状が届いたわ。

 エルマイラム王国の首都であるナイムの街に自分の店を持つことになったから、開店前に是非来てほしいと」

 ルーシアは微笑んだ。静かに、そして寂しそうに。


「たぶん、私に招待状を書いていた時のあいつはすごく幸せだったと思うわ。そして私も、自分のライバルとまた腕くらべができると思って、ワクワクしながら久しぶりに休暇をとって、このナイムの街にやって来た。

 でも、私がこの街に到着する頃には、あいつは最愛の夫を失ってしまっていた。あの時のバルネアは、生きる希望をなくしてしまっていたの……」


「…………」

 ジェノは言葉が見つからない。

 普段の朗らかで穏やかな、そしてバイタリティに溢れるバルネアさんが、生きる希望を失っていたところなど想像もつかないからだ。


 当時を知らないジェノは、ただルーシアがその時の話をしてくれるのを待つしかなかった。







 港に船が無事にたどり着き、そこから降りて市街地に入ったものの、ルーシア達は道に迷っていた。

 そう。今回のルーシアは、以前とは違い一人ではなかった。


 正直、終生のライバルとその夫の幸せな様子にあてられてしまったのだと思う。

 忙しい日々の中で人恋しくなってしまい、以前から少し交流があった男性と二年間の交際の末に、半年前に結婚したのだ。


 だが結婚してからも仕事が忙しすぎて、夫との時間を取ることもままならなかった。そこで今回のバルネアからの招待は良い機会だと思い、夫とともに少し遅めの新婚旅行にやって来たのだ。


 手紙には、ナイムの街の中央通りから少し外れたところに店を、<パニヨン>というふざけた名前の料理店を建てたとのことだったが、土地勘のないルーシアにはよく分からない。

 そのため、この街の自警団の人間を捕まえて、今度営業することになる、<パニヨン>という名前の店を教えて欲しいと告げた。


「ああ、そのお店は少しわかりにくいところにあるのでご案内しますよ。我々も、新しい料理店ということで、期待しているんですよ」

 ルインと名乗った壮年の男性が親切に対応してくれて、わざわざルーシア達をその店の前まで案内してくれた。


 そして、その親切な自警団の人間のおかげで、<パニヨン>と記された店の前にルーシア達はやって来たのだが、そこで彼女は違和感を覚えた。


「ルーシア。どうしたんだ?」

「……いえ。その、何だかこのお店が、もう少しで開店する店のようには思えなくて」

 夫にそう答えたルーシアは、何か不安感のようなものを覚えながらも、手紙で指示されていたように裏口に回る。


 この店は、住居と一緒になっているタイプらしく、あの天然バカ達はここにもう住んでいるらしいのだ。


 だが、ルーシアはやはり違和感を覚えずにはいられない。

 なんと言うか、この建物からは温かさを、人が住んでいる温もりを感じないのだ。まもなく開店する店舗であるのならば、もっと物品の搬入などが行われて、どこか忙しない雰囲気を纏っているのではと思ってしまう。


「まぁ、ここでじっとしていても、どうしようもないわね」

 ルーシアはそう思い、裏口のドアをノックする。


 すると、すごい勢いでこちらに走ってくる音が聞こえた。


「なんだ、居るんじゃあないの」

 誰も居ないのではと危惧したが、どうやら自分の思い過ごしだったらしい。


 そして、久しぶりに、何も考えてなさそうな呑気な顔で笑う、あの天然バカの顔を拝んでやろうと、ドアが開かれるのを期待して待った。


 ガチャガチャと鍵をイジる音が聞こえる。

 何もそんなに慌てることはないのに、とルーシアは思う。


 そして、ドアが開かれたので、ルーシアは自慢の夫を見せびらかすべく、不敵な笑みを浮かべ、挨拶の言葉を口に出す。


「ふふふっ。久しぶりね、バル……」

「ティル!」

 

 だが、家の中から出てきたバルネアは、ルーシアの言葉を遮り、酷く慌てた様子で、何故か自らの夫の名前を叫んだ。


「ティル! ティル! どこ、どこに居るの?」

 バルネアはキョロキョロと視線を忙しなく動かし、ティルの名前を呼び続ける。


 まったく目の前にいる自分達を見ずに、ティルと呼び続けて視線を彷徨わせるバルネアの姿に、ルーシアはただごとでないことを瞬時に理解した。


「バルネア! どうしたのよ、いったい!」

 ルーシアはバルネアの肩を押さえて自分の方を向かせようとしたが、信じられない力で、腕が振りほどかれる。


「離して! ティルは、ティルはどこなの?」

 こちらと目を合わせようともせずに、夫を探すバルネアに不穏なものを感じ、ルーシアは彼女の頬を引っ叩いた。


 乾いた音が鳴り、バルネアの動きが止まった。そして、ようやく目の前の自分達を認識したようで、


「あっ……。ルーシア……?」

 

 とルーシアの名前を口にした。


「何があったの! 落ち着いて私に話しなさい!」

 本当はもう少し優しく尋ねたほうが良いのかもしれない。けれど、先程のバルネアの目には明らかに狂気が宿っていた。

 少しでも気を抜くと、また先程のような錯乱状態になってしまう気がしたので、ルーシアは敢えて強い口調でバルネアに命令する。


「……何が……あったのか……。その、マクレーンさんから、手紙が……」

「手紙? 手紙がどうしたのよ?」

 やはりバルネアの目は虚ろだ。まずい。これは本当にただ事ではない。


「あなた。街の人に聞いて、医者を連れてきて!」

「あっ、ああ。分かった」

 ルーシアが唖然としていた夫に指示を出すと、夫はすぐに動いてくれた。

 だが、その間も、ルーシアはバルネアから目を離さない。


 いま、目を離したら大変なことになる。

 直感的にそれが理解できた。


「その……、あれ、どうして、ルーシアがここにいるの?」

「そんな事はどうでもいいわ! 手紙がどうしたのよ!」

 まずい。明らかにバルネアはおかしくなっている。


 だが、ルーシアはそんな内心の動揺を隠し、バルネアに状況を説明するように迫る。

 状況が理解できなければ、手の打ちようがない。


「……手紙が……届いて……。あれっ、いつ、手紙が届いたんだっけ?」

「いいから、手紙の内容を言いなさい!」

 ルーシアは思考が混濁しているらしいバルネアに、懸命に呼びかける。


「……ああ、そうだ。ルーシア、おかしな手紙が届いたの。酷い悪戯をするのよ、マクレーンさんてば……。ティルが帰ってきたら、店も本格的に準備をしなくちゃいけないのに……。忙しくなるのに……」

「いいから、内容を教えなさい!」

 よく見ると、バルネアの目は真っ赤に腫れていた。そして、目の下にはクマらしきものも見える。

 それに、随分と細くないだろうか、こいつの肩も、腕も。


「……ティルが……死んじゃったの……。船の…事故で……」

「なっ!」

 予想だにしなかった内容に、ルーシアは絶句してしまう。


「……本当に酷いと思わない? だって、そんな訳ないのに。今回の船旅から帰ってきたら、この店を、本格的に手伝おうかなって……言って……。

 あっ、はははっ。どうしよう……。私は、どうしたらいいの、ルーシア?」

 壊れたように笑うバルネアを、ルーシアは抱きしめた。


 頭の整理が追いつかない。

 だが、自分が今混乱するわけには行かない。


 ルーシアは懸命に頭を働かせる。


 船の事故? そして、ティルがそれで死んだ? その内容を書いた手紙がバルネアの元に届いた?

 だが、いつその手紙は届いたのだろう? こいつのこの弱り方から察するに、一日や二日前ではないはずだ。

 

「……嫌、嫌よ……。私を、私を一人にしないでよ……」

 バルネアはそう呟いたかと思うと、不意に声を上げて泣き出した。


 駄目だ、このままではバルネアが壊れる。

 自分が認めた大切なライバルが、友達が、……親友が、壊れてしまう。


 焦燥感に駆られながらも、ルーシアに出来たのは、ただただバルネアを抱きしめ続けることだけだった。

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