第34話 終演

 夏の山音坂は四季の中で一番きつい。

 蒸し暑いし、急勾配の階段を一段一段登っていく度に汗が吹き出してくる。

 Tシャツの袖口でぐっと汗を拭き取るも気休めにしかなりそうもない。

 まだ木陰が多いから比較的ましなものの今日は殺人的な暑さになりそうだ。

 息を切らしながら階段を上がり踊り場へと差し掛かるとスマホが着信を告げる。


「ああ、父さん? いや夏休みには一旦帰るから大丈夫。いいよ迎えに来なくたって。一人で平気……。もう何歳だと思ってるんだよ? とにかく大丈夫だから。今、取り込み中だからまた後でかけ直すね」


 着信を切ると蒼太が上から声をかけた。


「お父さん、なんだって?」

「いつ帰ってくるのかってそればっかり。こんなに過保護だとは思わなかった。全然俺の中の矢地尾雅樹と違うんだけど……」

「まあ、よくある話じゃない。息子との距離感分からなくなった父親がちょっとしたきっかけで急に構いたがるのなんてさ」

「って言ってもレッスンで数回会っただけだぞ?」

「考えてもみなよ。数年ほぼ絶縁していた息子から会いたい、ピアノをもう一度教えて欲しいなんて言われたら張り切るでしょ? 俊介の話では数年もやもやしていたなら余計にさ」

「いや、それだったらもっと早く言ってくれって思うわ」

「自分のせいで息子がピアノを弾けなくなったからどうしていいか戸惑うのも分かるよ。まあいいんじゃない。今までずっとすれ違ってたわけなんだから思う存分甘えるのもさ」


 くすりと笑われたのはなんだか腹立たしくて俊介はむっとした顔を向けた。


「そう言うお前はどうなんだよ。そっちの親父さん、いつ帰国するんだ?」

「来週だってさ。そりゃあ海外にいたら所在なんてますます分からないよね。思い出したように帰ってくることになって正直いきなりすぎてびっくりしてる」

「いいじゃないか。感動の再会ってやつだろ?」


 にやにやしながら視線を向ければ蒼太は呆れ顔で首を傾ける。


「まあ正直どんな顔して会えばいいのか分からないよね。父さんの中の記憶の僕はきっとよちよち歩きだろうし」

「ゆっくり話せばいいさ。時間はたっぷりあるんだから」


 そう言い終わると同時に坂を上り切った。

 並木通りに出れば蝉の大合唱が迎えてくれる。

 雨が降りそうだったあの日、ここで蒼太と出会った。


「玉ねぎに感謝だな」

「何が?」

「あの日、玉ねぎが空から降ってこなかったらお前と出会えなかった」

「どうしたの? 急に感傷的になったの?」

「しみじみと感じてるだけだよ」


 笑いながら歩き出す。


「それで久江さん、何時にくるんだっけ?」

「夕方だって。明日には施設に入るから今日は荷物纏めてから来るってさ」

「いよいよだなあ」


 俊介が小さく伸びをした。

 久江の思い出の味を再現するのはもう最後のチャンスとなる。


「余裕じゃない?」

「ん……?」

「いや。ちゃんと演奏できるのかって緊張してるのかと思った」

「それが全くない。めちゃくちゃ絶好調だからな。教授からもお墨付きをもらったし、来週にはコンクールに推薦してくれるらしいから」

「何それ初耳なんだけど」

「横浜だからお前も来いよ。ぶっちぎりで一位取ってやるから」

「随分と自信あるじゃない?」

「もう向かうところ敵なしって感じだわ」

「油断してると足元掬われるよ」

「何に?」

「慢心ってやつでしょ」

「残念だけどそれすら克服してしまう自信が俺にはあるわ」

「はあ……、逆に心配になってきた」

「心配するなよ。杞憂にしてやるからさ」


 笑いながら歩いていると元町公園が見えてくる、もうすぐトロイメライだ。


「今日のまかないなんだろうな」

「及川さんに言ってくれればなんでも作ってくれるよ。でもおすすめはジンジャーポークかな? 肉料理だったらなんでも美味しいよ」

「そりゃあいいわ。昼がまだだからリクエストしよう。まあでも俺はお前の料理の方が好みだけどな」

「……」

「なんだよ」

「お礼を言うべきなんだろうけど及川さんの前でそれ言っちゃダメだと思うよ」

「当たり前だろ。俺はそこまで空気読めなくないから。お前しかいないから言ってるんだよ」


 白い洋館が見えてくる。

 薔薇の生垣のそばにはアイアンのテラス席と日差しよけのパラソルがいくつも並べられている。


「今日も人混んでるな」

「暑いけどこの辺りは風も涼しくなるから。ちょっとした休憩しに来るんだよ」


 近づくとパラソルの一つで十四郎がパイプをふかせながらアイスティーを飲んでいた。


「おお! 俊介君いよいよ今日だねえ」

「お疲れ様です。あの……、色々とご迷惑かけちゃって」


 ぺこりと頭を下げると十四郎が白い髭を揺らしながら微笑んだ。


「いいのいいの。でもよかったね。憑き物が取れたような顔をしているよ」

「え……、そうですか?」

「うん、とてもいい顔をしている。そうだ……、俊介君」

「はい、なんでしょう?」


 やっぱり何か文句の一つでもあるのかと身を固くする。


「ありがとうね。君のおかげで蒼ちゃんもすごく元気になった。君のおかげだよ。これからも仲良くしてね」

「ちょ……ちょっとおじいちゃん!」

「はは、もちろんですよ! むしろ俺の方がめちゃくちゃ世話になってて。これからも仲良くしていただきたいのは俺の方ですよ。な!」


 俊介が隣の蒼太に声をかけると蒼太の眦がかあっと赤くなる。


「もう、いいでしょ。そんなのわかってるから」

「はは、愚問だったね。皆待ってるよ、早く向かうといい」


 十四郎の横をすり抜けてトロイメライの戸に手をかける。

 カランと音を立てて開くとサーブ中の観月が声をかけた。


「あ……! やっと来た。遅いってば! もうさ、すぐ手伝ってくれない? 予想以上にお客さん来ちゃって俺も及川さんもてんてこまいだよ。ほら早く早く」

 そう言って再び厨房へと消えた観月を見て、俊介は苦笑いを浮かべた。

「ああ……。これはしばらくまかないはお預けだな」

「まあいいでしょ。たまにはこういう日があってもさ」


 蒼太はくすりと笑うとロッカーへと急いだ。

 それからはひっきりなしだった。

 蒼太と及川が料理を作り、観月と俊介が客席へと運ぶ。

 みな料理に舌鼓を打ちながら思い思いのひと時を過ごす。

 そうしてようやく人の入りが落ちついたのは、ようやく日も落ち、夜の帳が落ちる頃だった。

 カランとドアが人の訪れを告げる。


「ごめんくださいませね」


 久江がゆっくりとした物腰でお辞儀をした。

 前よりも少し痩せてしまったようでその背中は小さく見えた。


「お待ちしておりましたよ久江さん」


 俊介が出迎える。


「何回もすみませんね……。私のわがままに付き合って貰っちゃって」

「いえいえこちらこそ。お願いしてるのはこっちですから」


 ゆっくりと久江を席に案内する。

 もうすでに蒼太は料理に取り掛かっているようで厨房から香ばしい香りが漂ってくる。


「あのね……何回も努力して貰ってて悪いのだけれど……」


 歯切れの悪い物言いに俊介が微笑み返す。


「大丈夫ですよ。久江さんの思い出の一皿。きっちり再現してみますから」


 自信を持って返事をすると蒼太が出来上がったナポリタンの皿を持ってくる。


「こちらですよ」


 湯気が立つ一皿が久江の前に置かれる。


「あら……前回とあまり変わりがないようだけど?」

「まあ、これからですよ」


 蒼太が話すと俊介が飴色のスタンウェイへと近づく。


(よろしく頼むよ相棒……)


 そっとその肌を撫でてから椅子に座る。

 気持ちを整えて指先を鍵盤へとそっと乗せた。

 久江の視線が宙にさまよう。

 一体何が始まるのだろう。

 期待が滲んだ視線が俊介の背中に注がれた。

 しかし俊介は以前のように怯まなかった。

 それどころか皆の注目を集めることに快感すら感じていた。


 息を整えてゆっくりと鍵盤を押していく。

 久江の表情が途端に輝いていく。

 あの日の光景がありありと蘇っていく。 

 音と味が人の心をときめかせ、降り積もる。

 それはどれほど月日が経とうともずっと記憶の隅に形作っていくのだ。


 この小さな山手のレストランにはそんな思い出がたくさん詰まっている。 

 次はどんなお客様がくるのだろう。

 美味しい洋食と音楽がいつでも新しい人の訪れを心待ちにしているのだ。

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横浜山手おもひでレストラン トロイメライ 五徳ゆう @gotoku_yuu

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