第33話 蒼太のために
朝から小雨がぱらついていた。
家から長傘を差して指定された時間、指定された場所へと移動する。
「一体どういうつもりなんだろ……」
先日父親がコンサートをした場所を指定するなんて。
念のためにホームページで確認したところ本日は何も予定が入っていなかった。
行っても開いてないんじゃないだろうか。
そう思いながらホールに着く。
休みなのだろう。先日と比べて明かりが点っていない。
周りを見渡すが特にこれといった変化はないように見えた。
エントランスのドアをそっと押してみる。
「開いてる……。蒼太?」
中へと呼びかけてみても返事はない。
(一体どういうつもりなんだ?)
恐る恐る会場内へと足を運ぶ。
暗い中へとドアを開ける。
ホールの中に入った途端、俊介の瞳はあるものにぐっと引き寄せられた。
「あ……」
天井からすっと降ろされたスポットライトの下。
まるで世界から切り離されたようにポツンと佇んでいたのは、あの日見たグランドピアノだった。
「時間通りに来たね……」
後ろを振り返ると蒼太が客席に座っていた。
昨日会ったばかりなのに随分久しぶりのような気がして心が騒ついた。
(なんだよ……、相手は蒼太なんだぞ?)
胸に詰まるものを感じて思わず手を当てる。
蒼太は白シャツにジーンズというラフな出立だった。
いつものような少し斜に構えた態度ではなく、どことなく大人しいような気がしてそれが俊介をより一層不安にさせた。
「蒼太……。これは一体?」
「感謝してよね。わざわざ俊介のためにおじいちゃんに頼んだんだから。商工会の人がうまく話をつけてくれてたまたま開いてたこの時間だけ借りられたんだよ」
「どういうつもりなんだよ。こんな場所……」
「ねえ、ピアノを弾いてよ。俊介」
俊介のと問いかけには答えず、そっと優しく蒼太は呟いた。
その反応に俊介は暗く顔を歪める。
「いや……それは。知ってるだろ。俺は人前では……」
「ラフマニノフの幻影ってやつだよね」
「知っててそう言うの酷じゃないか」
困惑を表情に浮かべながら俊介は呟いた。
しかし蒼太は構わずに静かな微笑みを浮かべる。
「ねえ……、俊介はさ。いつも誰のために弾いてるの?」
「愚問だろ? 自分のためだろ。ピアノが好きなんだから」
「それなのに音大は辞めちゃうの?」
静かにそれでいて確実に俊介の心を刺すような声色でそう言った。
(俺の気も知らないで……)
俊介は唇を小さく噛んだ。
「そんなの……お前に関係あるのかよ」
「あるよ。君が僕のことほっとけないって言ったのと同じくらい、僕だって君のことを見捨てるなんて出来ない」
「なんだよ見捨てるって。俺の個人的なことなんだからいいだろ」
吐き捨てるようにそう言った。
蒼太に言われた一言一言が胸に刺さっていくのが分かる。
そうでなくても心がぐらついているのだ。
突き放された方がどれだけ楽か。しかし、蒼太の口からは俊介の思いとは裏腹に優しくて厳しい言葉が溢れる。
「ダメだよ……」
蒼太は静かにそう言うと、そっと立ち上がった。
「だって君は一生後悔することになるから……」
「は……?」
大きく目を見開いて蒼太を見つめかえす。
どうしてそんなことが分かるのだろう。
たった数週間一緒にいたくらいでそこまで言わしめる蒼太の思惑に心当たりがなくて思わず顔が歪んでいく。
「後悔も何も……仕方ないだろう。俺の拙い実力じゃピアニストとしてやっていけない」
蒼太は頭を降った。
それは諦めてかけている俊介の心を奮い立たせるようにしっかりと、言葉の一つ一つを噛み締めるような動きだった。
「違うよ、君のピアノは人の心を打つ。喜ばせる。ストリートピアノで見ただろ? 君のピアノには力があるよ。君自身がブレーキをかけているだけだ。あと少しのきっかけがあれば君は枷から解放されて自由になれる」
「そのきっかけがあればこんなに悩まないだろ。それを探してただ時間だけを浪費させていくなんてもう現実的じゃない。今が人生を考え直すチャンスなんだ。ピアノを諦めて普通の大学なりに通って……真っ当な道を……」
絞りだすような声でそう答える。
しかし蒼太ははっきりと俊介を見据えたまま口を開いた。
「そうやって君はこれからも、お父さんのために生きるの?」
「は……」
今……、なんて言った?
信じられないような瞳で見上げると、蒼太は悲しみに揺れる眼差しを寄越した。
「俊介、気付いてないの? 君はずっとお父さんのためにピアノを弾いてるんだ。それが自分のためにと思い込んで」
「違う……、そんなはずない。俺はずっとピアノが楽しくて、もっと上手くなりたいからって。父さんがピアノを教えてくれて……」
「そうだね。いつしかお父さんが喜ぶピアノを弾くことが君の目標になっていったんだよ。でも俊介。君はもう大人だ。お父さんのために演奏する子供じゃない。自分のためのピアノを弾いて、自分を開放してあげなくちゃいけない。君がもしピアノをやめたとしてもそれは自分のために見せかけてお父さんのためだ。それじゃあ君はずっと苦しむことになる。君はお父さんのために大好きなピアノを辞めるんだから……」
「違う。違う……」
頭を振りながらそう答えるも蒼太の言葉が突き刺さる。
「ラフマニノフの幻影は何も難解な曲が君に見せた呪いじゃない。君の本心を塗りつぶしてまでお父さんの喜ぶ演奏をしなくてはという強迫観念に君の心が耐えきれなかっただけだ。だから君自身がお父さんから自立しないと。ピアノじゃなくても違う形で君のことを苦しめるかもしれない。それこそ、一生だよ」
「そんなわけ……、ないだろ……。なんだよ、大袈裟だな……」
「じゃあ、俊介。弾いてみせてよピアノを。……自分のために」
蒼太がそっとグランドピアノを指差す。
静かにスポットライトの下に佇む姿はまるで俊介を待っているかのように見えた。
(いや……、ダメだ)
また以前にように失敗してしまう。
尻込みするかのように口からこぼれるのは吐息にも似た弱々しい言葉だけだ。
「そう言われても……」
「たった一曲だけでもいい。もし君がピアノを辞めるにしても後悔のないように」
俊介は黙り込んだ。
指を握ったり開いたりして心を落ち着かせようと試みる。
一体こんなことに蒼太になんの得があると言うのだろう?
大掛かりにホールまで借りてまで自分に価値があるとは到底思えないでいた。
これも自分が父親のことを乗り越えられたことに対する礼なのだろうか?
(でも……)
どっちみちこれで最後になる。
自分は大学を辞めるし、それとともにトロイメライにも足を運ぶことはないだろう。
それなら蒼太に付き合うのもいいじゃあないか。
俊介は意を決したように呟いた。
「……曲はトロイメライでいいんだな?」
「うん……」
静かに壇上に上がり、ピアノを見下ろした。
幼い頃からずっと自分が親しんできた相棒だと思う。
椅子に座り指を鍵盤に下ろす。
ふうと息を大きく吐きながら気持ちを整える。
頭の中に曲の情景を描く。
そしてゆっくりと指先を沈み込ませる。
「ダメだ……」
俊介は演奏する一歩手前まで気持ちを作ってからそっと手を離した。
「どうして?」
「やはり駄目だ。人前じゃ……。うまく弾けない。前よりも悪くなってる。それにお前は自分のためにって言うけど。具体的にどういうことなんだ? どう弾けば正解なんだ? もう……よくわからない。ピアノを弾くってことは一体なんなのか。分からないままどんどん遠ざかっていく……」
項垂れて俊介は手でまぶたを覆った。
蒼太が堪えきれずにきゅっと唇を噛む。
「お父さんが君にピアノを諦めさせようとしたときになんて言ったの?」
「お前には……才能がないって」
眉間にぐっと皺が寄った。
「今までずっと俊介に向き合わなかったくせになんて勝手なやつなんだ」
「違う……。父さんは日本を代表するピアニストなんだ。その父さんが言うならきっと俺は才能がなくて……。ピアノを演奏する資格なんてないんだ」
「俊介……。君にピアノを弾かなくていいんだなんて誰も言えないよ。そんな権利なんてない。君は君の心の思うがままに自由に弾いていいんだ」
「ちがう……。俺は……。俺のピアノは……。父さんになんか言ってもらわないと弾けないんだ、きっと。認めてもらわないと不安で仕方ない。無理に自分なりに頑張ってみてもうまく弾けない。あの日失敗したのも父さんの言いつけを守らなかったからだ……」
「俊介……」
そっと目を閉じる。
ガックリと肩を落とした俊介に覇気はなかった。
蒼太はそっと座席を立つと、ステージに上がる。
グランドピアノにそっと体を寄せると、俊介の掌の上に自分の指を重ねた。
「だったら、僕のために弾いてよ」
静かな声だった。
まるで俊介の心に降り積もるような優しい声。
「君が……もし本当にピアノをやめてしまっても。僕は君のピアノが好きだ。僕を励まして背中を押してくれた。何年も避けていた父さんのことに向き直らせてくれた。その事実はたとえ著名なピアニストが君を否定したとしても変わらない。これからそれが失われるなら僕は悲しい。だからせめて思い出を頂戴。もしこれから辛い時があったときに記憶の中に留めておくために……」
蒼太がそっと目を瞑る。
「そんなこと……」
「お願い……」
「お前のためって言われても……。どうすればいいのか分からない」
「僕とのこと思いながら弾いてくれればいい。上手くなくてもいいよ。笑わない。約束するから」
「……」
俊介がそっと鍵盤に手を乗せる。
心の中に曲の情景を描く。
(蒼太のためって言ったって……)
最初の一音が踏み出せずにいた。
人のために演奏するってどう言うことなのか。
父親以外の誰かに捧げるために演奏することがなかった。
(どうしよう……)
ピアノの前で一人、途方にくれてしまう。
蒼太が満足するようなそんな演奏など出来るのだろうか。
いや、そもそもこんなボロボロの状態で一曲弾けるのと思うことこそがおこがましいような気がする。
駄目だ。やっぱり弾けない。
指が動かない。
(蒼太には諦めてもらうしかない……)
顔をふとあげると蒼太の瞳が俊介を射抜いた。
逃げることは許さないと言った有無を言わせぬ眼差しだった。
「そんなに身構えなくていいよ。俊介が僕が父さんのことを乗り越えてくれた日に弾いてくれたでしょう。あれと同じように弾いてくれればいい……」
「でも……、どう弾いていたかなんて」
「難しく考えないで。きっとあの日、君は僕の心にほんの少しだけ寄り添ってくれた。それが僕にとってどれだけ救いになったことか君に分かる?」
「でも分からない。お前はなんでここまでしてくれるんだ? 久江さんのピアノのことだったら他にもっと上手く弾けるやつがいるだろう。俺に構ってなんの得があるんだ? どうしてここまでしてくれるんだよ」
蒼太の眼差しが燃えるような色に染まる。
「本気だからでしょ! 本気だからこんな周りくどいことしてるんじゃないか。それだけ僕は君に救われたんだよ。だからもう一度ピアノに向き合ってよ、俊介。君だったら絶対に前に踏み出せる。君が僕にそうしてくれたように、今度は僕が君の背中を押す番なんだ……」
「……」
「何? 何か言いたいことがあれば言えば?」
「いや……なんていうか意外で。お前ってそんな熱いやつだとは思ってなかったから……」「な……っ」
蒼太の頬がほんのりと朱が走る。
しばらく口をぱくぱくさせながら俊介のことを見つめていたが急にはっとしたように口をつぐんだ。
しばらくそのまま二人の間には静寂が流れたが、先に口を開いたのは蒼太だった。
「言っとくけど毎回こんなことしないから。今回だけだから。ほんと。早く元の俊介に戻ってくれないと、人手も足りないし大変なんだからね」
心なしか羞恥を隠すかのように声が自然と大きくなったように思えた。
「おう……」
つられて自分の頬も赤くなっているようがしてこそばゆい。
誤魔化すかのように頬をぽりぽりとかいた。
しかし嫌悪感はちっともなくてむしろ好ましくすらあった。
(本当……いいやつだよな)
こんなふうに自分のことを見てくれる人間がいることに奇跡すら感じる。
それは自分の背中を押すのに十分だった。
蒼太の顔を見ているとなんだか少しずつ胸が熱くなる。
ここまでしてくれた蒼太に見合う自分でいたい。
ピアノに向き合うたびに怯えるかのように手が止まってしまったかつての矢地尾俊介。
それを今日、これからやめるんだ。
俊介は大きく息を吐くと心を決めた。
(きっと大丈夫だ……)
ゆっくりと意識をピアノに向ける。
この瞬間が一番緊張する。引き始めは曲の世界を作るから。だからこそしくじるわけにはいかない。
静かにそれでいて深く息をする。
血が通い、指先に熱が籠る。
そっと鍵盤に手を置く。さっきよりも指が動きそうだ。
(これならいける……、いや。やるんだ蒼太のために)
そっと目を閉じる。
曲の世界を描く。
瞼の裏に映るのはあの飴色の肌のスタンウェイだ。
美味しい匂いがして、あの店の料理を楽しむ人がいる。
人の記憶の一ページにくっきりと残るような人の心を満たす素晴らしい一皿。
山手の風がすっと入り込んで匂いを運ぶ。
奥では蒼太が腕を奮っている。
もっと美味しい料理を作るために日々奮闘する蒼太を纏う空気を曲に表現できたらいい。
指先がそっと動く。
ものを切る音、炒める香り、食欲をそそる匂い。
その全てがあのレストランを描く、音の一つ一つなのだ。
あの店にいると気持ちが夢見心地になる。
あったかい気持ちになってまた頑張れると思える。
(ああ、懐かしい感じがする……)
まるで蒼太の料理を初めて食べた時のようだった。
昔、ピアノを弾いて楽しかった頃の思い出を呼び起こされるような。
(そうだよ。この感じだ)
踊るように指先が動く。
途中で曲の世界が遠のいたり、音がばらけたりしない。
俊介の思うがまま、まとまった音を描き続ける。
胸の中がいっぱいになって、突き動かされるように指先が踊る。
まるで昔のようにピアノから音が溢れるのに胸が震えた。
淀みなくまるで風のように心の動きのままに音の粒が流れていく。
(ああ……、この感じだ)
ずっと待ち遠しかった感覚が蘇っていく。
音のまとまりがどんどん渦になって一つの旋律を折り上げる。
指先が鍵盤を叩くたびに心が震える。
遠い記憶の彼方に置き忘れていたピアノの輝かせ方がどんどん体に染み渡るように戻ってくるのが分かる。
目の前が滲んでくるようでふっと目を閉じた。
瞼の裏にはピアノを歩んできた日々が映っている。
初めて鍵盤を触った日、まるでおもちゃのように親しんできた日々。
そして発表会での初めての挫折。
出口の見えない苦しさの中、必死で歯を食いしばってピアノにしがみ付いてきた。
そしてあの日。
坂から落ちてきた蒼太を助けてそれから自分の運命が回り出した。
ゆっくりと目を開ける。
淀みなく動いている自分の指先が愛おしい。
待ち焦がれていた感覚に世界が色づいていく。
もう何も縛るものはなく自由になれるんだと、言葉にせずとも分かった。
(これも……全部蒼太のおかげだ)
あの日、彼に出会わなければどうなっていたのだろう。
もういない日々など想像できないくらいに自分の心の中を蒼太が占めているのが分かる。
なんだかんだ言って自分のことを親以上に慮ってくれたのは蒼太だった。
その善意がどこかこそばゆいけれど嬉しい。
自分の背中を押してくれる人がいるということがどれだけ勇気づけられるものか初めて知った。
自分がこれから進むのは茨の道だ。
ピアノの前には自分一人、そして全て実力で判断される厳しい世界。
それでも蒼太という存在がいるということが俊介の心を奮い立たせてくれるのだと心から信じることが出来る。
少し怖いけれど浮き立つ。
そんな感覚は初めてで俊介は思わず微笑んだ。
すっとトロイメライを弾き終わった後、ほうとため息をついた。
「弾ききった……」
瞼の裏が熱くなる。
自分のピアノを見失ってからすでに十年以上の時が流れていた。
もう絶対に返ってこない。
遠のいた昔の栄光はそのままなのだとずっと思っていた。
気を抜いたら泣きそうになるのをぐっと堪えて、蒼太に満面の笑みを向ける。
蒼太は小さく拍手をしながら微笑み返した。
「ファンタティコ……」
「え?」
俊介が顔を上げる。
「素晴らしいって思った時ってこう言うんでしょ?」
「あ……はは。それで言ったら俺こそお前に言わなくちゃならないな」
立ち上がって蒼太にきちんと向き直る。
「ありがとう。お前のおかげで取り戻せた」
「それは俊介の元から持ってる力だ。いいピアノだったよ。ほんとに」
お互いを見つめ合い笑い合う。
「ねえ、もう一曲弾いてよ。あの早いやつ」
「ラフマニノフか……」
一瞬顔をしかめるが蒼太が得意そうに笑った。
「もう平気でしょ。何が来たって君はちゃんと弾ききるし、もし間違えたとしても僕しか見てないから安心して」
「お……、言うな。見ておけよ絶対にノーミスで弾いてやるからな」
俊介の表情は明るく、憑物が取れたような顔をしていた。
再びそっと鍵盤に手を触れる。
一瞬顔を見合わせて微笑んだ後、俊介の掌から音楽が零れ落ちた。
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