第32話 明日夕方六時。関内ホールで

 家に帰ってきて鞄の中に折り畳み傘が入っていたことに気づいた。

 こんなにずぶ濡れになる必要はなかったのにと余裕のなさを改めて感じた。

 まさかあの場所に蒼太がいるとは思わなかった。

 俊介はゆっくりと息を吐いた。

 まだ蒼太の傷ついた顔がありありと思い出せる。

 あんな表情をさせたくはなかったが近いうちに避けられないことだったとも思う。


 本当はもっとピアノを弾きたかった。

 しかし今はもう叶わぬ夢だと自分に言い聞かせる。

 右手にはぐっしょりと濡れた退学届が握られている。 

 ひたりひたりと滴が落ちていくのが音で分かる。

 もうこれでは使いものにならない。

 再び大学に行って新しいものを貰ってこなくてはいけない。

 たるいなと思ったが、これで最後になるのだからやらないと。

 その時バイブの音がした。

 きっとスマホには蒼太からの着信が入ってる。

 開く気にもなれなくてベッドに放り投げる。

 なんだかもう全てが嫌になって投げ出したくなってくる。


『君はもう少しで自分のピアノを取り戻せる』


 本当にそれだったらどんなによかっただろう。

 蒼太の期待に応えたかった。

 これは嘘偽りのない俊介の本当の気持ちだ。


「寒い……」


 凍えそうなくらいに体が冷たい。

 指先が冷たくてピアノが弾けない時のようだ。

 温かくなりたくて服を脱いでシャワーを浴びる。

 蛇口を捻りお湯を頭からかぶっても芯の部分は凍えるかのように寒かった。

 こんな時、どんなふうに落ち着けばいいのかさっぱり分からなかった。

 風呂から上がってもスマホを手に取る気持ちにはなれない。

 また蒼太は大学に来るだろうか。

 自分を止めるために。


「俺に……蒼太が俺に心を砕く必要なんてないのにな……」


 そう思ってしまう。

 自分は心半ばで一度決めた道を諦める自分が未だ研鑚を重ねている蒼太に合わせる顔がない。

 そうでなくとも蒼太の期待を無下にしたくせに何を言えるというのだろう。

 風呂から上がり着替えを出そうと思って洗濯物に手を突っ込む。


「あ……」


 手に取ったのはトロイメライのエプロンだった。

 つい最近まで通っていたのに今ではずいぶんと遠く思える。


「……っ」


 気持ちの中で感情がせめぎ合う。

 まだピアノがやりたい。試したい。

 蒼太と一緒に久江さんの思い出の味を表現して驚かせてやりたい。

 それで思いっきり蒼太に達成した笑顔を浮かべてやりたい。


「でも……」


『ピアノをやめろ』


 途端に頭の中に父親の声が響く。

 ピアニストである父親の主張はもっともだ。

 実績が出せない以上、現状を続けていくことはしんどいものがある。

 これからの俊介の人生を考えれば足を洗ったほうがいいのも分かる。

 蒼太の手を取りたいのに、現実がそうさせてくれない。

 父親の言うことはもっともで疑いも反論も出来ない。 


「これでいいんだ……、いいんだよな」


 譫言のように呟いた時ベッドのそばに投げ捨てたスマホが再び鳴った。


(蒼太かな……) 


 心臓が軋んだ音を立てる。

 これだけ無視してもまだ連絡を取ろうとしてくれていることに胸が痛む。

 蒼太はきっとまだ俊介を信じてくれているのだ。

 自分すら諦めてしまった才能を。 

 だからこそこうして呼びかけてくれる。

 その気持ちがなんだか眩しくて俊介はそっとスマホを取った。

 気遣う言葉や叱責する言葉が並ぶ。

 口調が厳しくたって俊介は嬉しかった。 

 どれも蒼太の気持ちがありがたかった。

 最後のメッセージはこう締められていた。


 「もう……これで最後だから安心して。明日夕方六時。関内ホールで」

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