第31話 雨

 おかしい。

 全く返信がこない。


「どうしたの蒼太君?」


 しかめっ面でスマホを見つめたままの蒼太に観月が声をかける。

 昼過ぎのランチタイムが一息ついても俊介は姿を表さなかった。


「午後からはあいつのシフトだったのに……」

「珍しいよね。俊介君、寝坊でもしたのかな? それとも大学?」

「ううん。今日は午前中だけのはずだから。何やってんだろ」

「まあ、心配ではあるがあいつぐらいの年頃ならブッチする時もあるんだろ? まあいいじゃないか。次ちゃんと出てもらえればさ」

「甘いよ、及川さん。決まり事はちゃんと守らないと」

「まあ確かに。それにしても意外だったな。俊介君はそのあたりきっちりしてる人だと思ってたから」


 観月がグラスを布巾で拭きながら呟いた。


「……」


 蒼太はスマホを見つめたままだ。


(本当に変だな……)


 未だに既読がついたまま返信がない。

 今までだったら絶対に何かしら答えてくれたはずなのに。

 昨日のストリートピアノが悪かったのだろうか。

 いや、俊介もちゃんと楽しんでいたし次も全然やる気だったと思う。

 じゃあ、どうして……?

 なんだか胸騒ぎがする。 

 俊介がもうトロイメライにこないのかもしれないと一瞬頭によぎった。


(ううん……、そんなわけあるか)


 久江さんの思い出の味を再現するのに協力してくれると言ってくれた。

 達成してないのに途中で放り出すような人間ではないと思う。

 いや、久江さんのことを差し引いても俊介はずっとトロイメライにいてくれると思っている。

 蒼太自身もそれを願うようになった。

 あんなふうに蒼太の料理を褒めてくれる人は今までいなかった。

 つい照れ臭くてきつく当たってしまったけれど、単純に恥ずかしかっただけだ。

 今まで蒼太が重ねてきた努力を認められるなんてなかったから。 

 父親のことも何年も上手く消化できていなかったのに、一歩踏み出すことが出来たのは俊介が無理矢理にでも背中を押してくれたからである。

 だからこそ、今度は蒼太が俊介の力になりたいと思う。

 彼に自分のピアノを取り戻して自由になって欲しい。

 もし今邪魔するものがあるとしたら一つしかない。


(ラフマニノフの幻影……)


 俊介に取り憑いたピアノを奪った原因。

 まるで幽霊のように彼は話していたが蒼太には根本的な問題が何であるか気づいていた。

 それは他の誰でもない蒼太が俊介と同じ、父親という枷が縛っていたからである。


(多分……、僕だったら俊介のピアノを取り戻すことができると思う……)


 そうでなければ俊介が自分にしてくれたことと釣り合いが取れない。

 きっと俊介はピアニストになれる。

 出会った時、俊介の演奏は見事だった。

 もし人前で演奏出来るようになった俊介はきっと世界に羽ばたいていくことだろう。


(そうしたらきっとトロイメライをやめることになるんだろうけど……)


 正直俊介がいなくなるのは寂しい。

 ずっといて欲しい。 

 多分一番蒼太の柔らかいところを知ってる友達だから。

 でも俊介には夢がある。

 それこそ小さい頃から願っていたことだ。

 応援してあげたいし、力になってあげたい。

 寂しさを差し引いても俊介に幸せになって欲しいと願う。


「俊介、どうしたんだろ……」


 手元のスマホは鳴らない。

 それが蒼太の心をざわざわとさせる。

 なんだかよくないことが起きるという想像が頭の中を過ぎる。

 そして決まってその予想は当たるものだ。


「そんなに気になるなら後で大学に行ってみれば?」

「え?」


 振り返ると観月が人懐っこそうに微笑んだ。


「なんだか今日は気もそぞろで手につかないって感じだし? それに俺も俊介君のこと気になるしね。午後は予約入ってないから俺と及川さんで回せるでしょ? ね?」

「ああ、気にしなくていい。行ってこいよ」

「うん、ありがとう二人とも」

「あ……、でも文句は言っておいてね。次やったらなんか罰ゲームさせるってさ」


 観月がわざと戯けていった。


「雨が降りそうだな……」


 窓の向こうを見上げて及川が呟いた。


「え……? そうかな。まだ全然天気だと思うけど」


 観月が窓の向こうに視線を寄越す。蒼太もつられて空を見上げるが確かに雲はあるものの澄んだ青空が広がっている。


「梅雨明けもしたし考えすぎなんじゃない?」

「そうか……? 雨の匂いがしたような気がしたんだが……」


 傘を持っていくべきだろうかと一瞬蒼太は考えた。

 トロイメライから山手音大へは距離がある。

 住宅街ばかりな上、景観を優先するためかコンビニもあまり立ってない。

 折り畳み傘は母屋にあったはずだが、取りに行くのが正直面倒臭い。


「平気平気。及川さん考えすぎだって。もう夏なんだから降ったとしても通り雨だよ」

「ん……、そうか?」


 及川は納得していない表情だったが正直早く俊介のもとに駆け付けたい。


「ごめんね。僕そろそろ行くから」

「オッケー。じゃあ後は任せてね」


 ひらひらと手を振る観月に見送られながらトロイメライを後にする。

 むわっとした空気に包まれながら足早に山手音大へと向かう。

 胸騒ぎが止まず、それがより一層蒼太を急がせる。

 校舎が近くに連れて、並木が生茂る。


(ああ、そういえば最初に出会った時も俊介とここを通ったな。二人で箱いっぱいの玉ねぎを持って……)


 あの日は常連のお客さんから農家の親戚から貰った玉ねぎをお裾分けしてもらうために向かったんだった。

 予想以上の大量さで怯んだけど意地になって運んだんだ。

 バランスを崩して坂の上から落っこちた時は死ぬかもしれないって思ったけど。


「俊介が助けてくれたからなんとかなった……」


 あの時はすぐにお礼を言えばよかったのに、まさかピアノをやってるなんて思わなくて自分の過去の嫌な部分でつい冷たく当たってしまった。


(そういえば……、あの時のことまだ謝ってないや……)


 随分時間は経ってるけど、きっと俊介なら笑って許してくれるはずだ。

 ああ、なんか無性に俊介のピアノが聴きたい。

 人前だと未だ拙くはあるけれど自分を一番安心させる音だ。

 俊介は自分の料理が幸せにしてくれるというけれど、俊介のピアノこそ今蒼太を温かな気持ちにさせてくれると思う。

 以前を思い出せないくらいに今、自分の生活の一部になって勇気づけてくれる。

 今日俊介を捕まえられたら何を弾いてもらおうか。

 やっぱりトロイメライか……、それとも。


「いるかな? 俊介……」


 山手音大の校門を覗き込む。

 蒼太が校内に入ったとしても怪しまれる心配はないがこの広い校舎の中で俊介を見つけるのは骨が折れそうだ。

 いくつかの校舎に分かれているようで中からは時折楽器の音が聞こえる。

 周りを見渡しながら歩いているとぽつりと滴が頬に落ちた。


「雨……?」


 一瞬見間違いかと思ったがしばらくしてまた顔に滴が落ちた。

 降り始めだからまだ顔を濡らす程度だが急に曇ってきたところを見るとすぐに本降りになるのかもしれない。


(及川さんの言った通りになった……。傘を持ってくればよかったな)


 小さく舌打ちをする。

 校舎の中に逃げてしまえばいいが、もし万が一その間に俊介が帰ってしまったら探すのは困難になる。蒼太は俊介の家を知らない。だからまた探すには再度大学に来なければならない。今日はたまたま時間が空けられたが及川との都合もあるしそんなに頻繁には来られない。


(何とか、今日見つけておきたいけど……)


 周りを見渡してもそれらしい影は見当たらない。

 その間にも雨脚は強くなる。

 さらに土砂降りのように急に空から叩きつけるような雨が降ってきた。


(仕方ないな……、一旦校舎内に避難しよう)


 手近な入り口に入ろうとすると入れ違いに出てきた青年と肩がぶつかった。

 そのはずみに手に持っていた書類がばらけて地面に落ちた。


「ごめんなさい!」


 慌てて拾うと書類の文字が目に飛び込んでくる。


「退学届……?」


 不穏な心音が胸に沸く。


「蒼太……?」


 はっとして顔を上げると、目の前にいたのは俊介だった。


「あ……、俊介? どうして連絡寄越さなかったの? それに今日のシフト! 勝手に休むなんてひどいと思わない? それに……えっ」


 続けようとする蒼太を振り切るように書類を奪い取ると俊介は足早に立ち去ろうとする。

 校舎の中から土砂降りの中へと躍り出た。


「俊介……? ちょ、ちょっとまって!」

(あの書類! まさか俊介のもの?)


 心臓が変な音を立てて軋む。

 嫌な想像がさっきから頭の中をよぎってたまらない。

 追いかけようとして蒼太も雨の中を走る。

 追いつき俊介の前に回り込むも、視線を合わせようとしてくれない。


「俊介……! 一体どうしちゃったの? その手に持ってるの退学届だよね? 何考えてるんだよ」

「何って……大学を辞めるんだよ」

「やめるって……」


 思わず二の句を引っ込めた。

 俊介の顔があまりにも悲痛に歪んでいたからだ。

 とめどない雨が二人の体をぐっしょりと濡らしていく。

 信じられない眼差しで俊介を見つめるもただ俊介の瞳は光のないまま虚な視線を寄越すだけだ。


「もう……いいか? 俺、帰るから。これ書かなきゃならないし」

「いいわけないでしょ! 一体どういうこと? 音大辞めるってさ……、ピアノはどうするのさ?」

「ピアノもやめるよ」

「な、なんでそんなこというのさ! 一体何があったんだよ。昨日は凄くやる気だったじゃないか。急にどうしたっていうんだよ?」

「どうしたも何もないよ。ただ音大を辞めて普通の大学に通うってこと……」

「だからその経緯が分からないんじゃないか。どうしたんだよ。僕には言えないことなの? せめて理由を聞かせてよ」

「理由……」


 俊介がそっと瞼を伏せた。

 悲痛に歪む俊介の顔から視線が外せない。


「それは俺に才能がないからだよ」

「才能……?」


 はっとして顔を上げる。 

 俊介の顔が濡れている。

 雨だけじゃない。

それは俊介の心が痛みに歪んで泣いているようだった。


「もう……疲れたんだ。いつまでも出られない袋小路の中でもがいて。結果が出なくて歳ばかり重ねていく。言われたよ……。お前と同じ歳でデビューもツアーもしている奏者はたくさんいるがそいつらでも生き残るのは難しいって。俺なんかまだ結果が出てないのに……」

「結果はこれから出るよ! 言われたって誰に? 俊介の努力も知らないで一体そんな勝手なこと……」


 蒼太は思いついたように目を見開きはっとした。

 どうして俊介が急に変わってしまったのか。

 ここまで俊介を追い詰めるそんなことが出来るのはこの世で一人だけだ。


「矢地尾雅樹……」


 俊介を長年苦しめる絶対的な存在だ。


(そうか……、矢地尾雅樹が何か話したから俊介はこんなに……)


 唇をきゅっと噛み締める。

 まずは俊介を落ち着かせなければならない。

 蒼太は必死になって俊介にすがった。


「大丈夫だよ……。俊介。君はもう少しで自分のピアノを取り戻せる。大丈夫だよ僕がついている。君の言ってたラフマニノフの幻影ってやつ。僕はその正体がなんなのか見当が付いたんだ……だから」


「もういいって言ってるだろ!」


 俊介が蒼太の手をぱんと払い退けた。

 しばらく呆然とした蒼太は信じられないものを見つめるような瞳で俊介の顔を見た。


「俊介……?」


 雨音に消え入りそうな声で蒼太は名前を呟いた。


「もうほっといてくれよ! 才能がないやつはないつまでもずるずるしがみついてるんじゃなくてさっさと踏ん切りをつけるべきなんだ。お前だって料理やってるから分かるだろう? 才能がない俺にはもうこれ以上積み上げても無意味なんだよ……!」


 傷ついた顔の蒼太の瞳が傷ついたような顔を浮かべる。

 その表情をまともに見ていられなくて俊介は視線を外した。


「もうトロイメライには行かない」


 静かでそれでいて揺るぎない声だった。

 濡れたままの体ではなんて言葉を紡げばいいのかが分からない。

 何か……何か思いつかないのか。

 今俊介を勇気づけて再びピアノに向かわせるそんな魔法のような言葉が。

 戸惑う蒼太をよそに俊介が振り切る。


「ダメだよ……俊介。ダメだ……。ここで諦めてしまっては……」


 蒼太の手が俊介の肩を掴む。

 しかし蒼太の言葉は届かない。 

 俊介の心が遠い。

 俊介は静かに蒼太の手を振り切り踵を返すとゆっくりと歩き始める。


「悪い……。久江さんのピアノは他のやつに当たってくれ」


 言い捨てて今度こそ歩き出す。

 蒼太との距離はどんどん開き始める。

 早く追いかけなくてはと分かるのに体がちっとも動かない。

 今泣いてすがったところで俊介の気持ちを覆せるものを持ち合わせていないから。

 雨が俊介の足音を消す。


(だめだ……俊介。君のピアノを無くさないで。僕を勇気づけてくれた音を殺さないでくれ……)


 遠のいていく背中を見つめながら俊介のピアノを思い出す。

 もうどんなふうにトロイメライを弾いていただろうか。

 必死になるのに蒼太の頭の中にはただ、途絶えなく降り注ぐ雨音だけが響いていた。

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