第30話 音楽を奪うもの
蒼太と別れ、帰路についてもまだ俊介は気持ちを消化しきれずにいた。
「誰のために……、なんのために弾いているのか……か」
そんなの決まっている。自分のためだ。
父親の影響もあったけど、父親は俊介のためを思っていたはずなので結果的には巡り巡って自分に行きついているはずだ。
今も昔もそれは疑いようのない事実だ。
でもそれだったらどうして蒼太はあんな質問をよこしたのだろう。
『いつもよりは楽しく弾けたんじゃない?』
蒼太はそう言っていた。
「楽しさ……か」
確かに少し指先が軽くなったし、動きにくいといったこともなかったように思える。
そういえばどうしてなのだろう。
野外でいつも以上に人がいた環境だったのに、遥かにラフマニノフを演奏していた頃よりは断然に弾きやすさが違っていた。
頭を悩ませるも明確な答えにはたどり着けない。
蒼太に聞けたらどんなにいいかと思うけれど自分でその答えに至らなければきっと許さないだろう。
「って言われたけどよく分からんわ……」
少しだけむわっとした空気が頬を撫でる。
もうすぐ夏休みだ。
(試験が終わったらもっとトロイメライのシフトを増やすのもいいな)
そうしたら蒼太が言っていたことのヒントももっと見つかるだろうから。
コンビニに寄り、ミネラルウォーターを買って店を出る。
そのまま自宅へのドアに近づこうとしてはっとした。
(誰だ……?)
アパートの目の前の電灯の下にやたらと背の高い男がいる。
暗い場所が多いから変質者だろうか?
いや、男相手に襲おうとする奴はそんなにいないと思う。
であれば強盗とかかもしれない。
(まずいな……。コンビニに戻ってしばらくやり過ごすか?)
しかしドアまでは目と鼻の先だ。
(このまま走り抜けて家の中に駆け込めばなんとかなるかな。きっと相手は俺が急に走り出すとは思ってないだろうし。うん、そうしよう)
決心をして近づいていく。
次第に蛍光灯の灯が相手の顔を浮き彫りにした。
その顔を見た途端、俊介ははっとした。
「父さん……」
全身黒ずくめに身を包んだ矢地尾雅樹が立っていた。
あの日と同じ剃刀のように研ぎ澄まされた顔をしていた。しかしわずかに精細さを欠いているように見えた。
「俊介……」
力のない声が静かに自分の名前を呼ぶ。
心がそわそわとする。
もう自分は子供じゃないのに、昔レッスンで怒られた時のように手にじんわりと汗を掻く。
(落ち着け……俊介。別に喧嘩をするわけじゃない。きっと自分と話をしに来たに決まってる。恐ることはないんだ……。実の父親だろ)
そう自分に言い聞かせながらわざと明るい声を出した。
「どうしたの……? こんな時間に」
「お前がどんな家に住んでいるか確かめたくてな」
「よく場所が分かったね」
「母さんに聞いた。そう言えばこうしてお前の下宿に来るのは初めてだな……」
「うん……」
何だかいつもの父親らしくなくて落ち着かない。
少しだけ口調が柔らかい。
変だ。
自分の記憶にある父は厳しくて一音でもミスをすると厳しく問い詰めたのだった。
無言の間にもぴりぴりした空気が詰まっているような気がしてなんだか息が詰まる。
「俊介……、お前はまだ大学に通ってるんだよな」
「え、ああ……。まあ。」
「退学しなさい」
ぴしゃりと否応がない声色だった。
はっとして顔を上げるも父親は相変わらず無表情だった。
「な……何をいきなり」
「ピアノを辞めたくても学歴のことを考えれば二の足を踏んでしまうだろう? 心配しなくていい。一般大学の転入も再受験も私がなんとかしよう。受験費用も学費も生活費も出す。だから生活の一切を気にしなくてもいい」
「いや……そうじゃなくって。なんでだよ。どうして父さんにいきなりピアノを辞めろなんて言われなくっちゃならないんだ……」
俊介は食ってかかった。
頭の中で金切り声が響くかのように痛い。
背筋がぞくぞくと震えるのが分かる。
ああ、嫌な感じだ。
レッスンの時に何回も感じた圧倒的な力で否応がなく潰される感覚だ。
「今更俺の前に現れて説教でもいいに来たのかよ?」
「教えを授けるんじゃない。事実を言いにきたのだ。お前には才能がない。さっさと諦めて現実を見せてやるのも親の役目だと思わないか」
「な……なんだよそれ」
「俊介。お前ももうすぐ二十歳だ。そろそろ周りとの力量差も分かっているだろう。才能が幅を利かせる世界で惨めな想いをしながら若い時間を浪費するほど無駄なものはない。いわばリスクヘッジだ。新しい道を歩んだほうがいいに決まってる」
「そ、そりゃあ父さんみたいな凄い売れてるピアニストから見れば俺なんかクズみたいに見えるだろうけど。俺だって努力してる。協力してくれる人もいる。やっと解決の芽が見えてきたところなんだ。きっと頑張れば……」
雅樹の眉がぴくりと跳ね上がる。
「それはいつ成し遂げられるんだ?」
「え……」
俊介は絶句して父の顔を見上げる。
凍りついたような眼差しだった。
それは厳しい実力の世界で磨かれた幾千もの戦場を乗り越えた戦士のような鋭い顔つきだった。
「言っただろう? お前ももう大人だ。同じ年頃の人間が毎年どれだけコンクールに応募し、デビューすると思ってる? それでも花開くのは一握りだ。それも年々厳しさを増していると言ってもいい。新人よりも確実に観客を集められるベテランや売れっ子のほうがスポンサーも金を出すからだ。そんな世界でちっとも開花しない新人がどうやって生き残るっていうんだ?」
「それは……」
反論の余地はなかった。
確かに自分は今、昔の音楽を取り戻すべく努力を重ねてはいる。
しかしそれが実る保証などどこにも残ってない。
ましてプロの世界で結果を出し続けているピアニストからの言葉は剃刀のように俊介の心臓を抉った。
(潮時ってことなのか……)
きゅっと唇を噛む。
確かに父親が言っていることは否応がない真実だ。
結果を出せていない以上、言われても仕方がないと思う。
神童と言われていた子供が大人になって平凡になってしまう例はよくあることだ。
「悪い話じゃないだろう? お前の人生をやり直すには早いほうがいい。生活の心配もしなくていい。出来るだけ希望に沿った学校を選んでやろう。それにバイトに割く時間も無駄にすることもなくなる」
「そんなこと……」
「お前にも友達がいるだろう? 心の準備のために少し時間をやろう。来月にはここも引き払う。そのまま実家に帰ってくればいい。私もしばらくはオフだ。ゆっくり話しあおう」
「……」
「それでは俊介。また追って連絡する」
雅樹はそう言い放つと暗がりの中へと立ち去っていった。
しばらく茫然とその場に立っていたが思い出したようにふらふらと歩き出す。
よろめきながら部屋の鍵を開けて中へと入る。
メゾネットの小さな部屋の中を進んでベッドにぱたんと倒れ込んだ。
スマホが鳴った。
力の入らない手で手繰り寄せる。
蒼太からのメッセージだった。
『明日もまた同じ時間に』
そう言ってくれる蒼太の優しさが辛かった。
今この時も自分の実力を信じて疑わないと言うのに俊介の体はまるで骨がなくなってしまったかのようにぐにゃぐにゃだった。
今の自分では蒼太に見合う人間になれない。
俊介はそう思った。
父親の言い分は真っ当だった。
実力主義の世界では結果を残せない人間は居場所がない。
であれば諦めて新しい道を模索するのは現実的な話である。
俊介はそっと人差し指でぽんとベッドを叩いた。
頭の中で黒鍵の音がする。
弾かずともどんな音楽が流れるのか手にとるように分かる。
しかし……、本当にピアノでやっていきたいのだろうか。
先ほど父親にいいように言われたのに少しも言い返せなかった。
既読にしたまま蒼太のメッセージに返信しようにも気持ちが乗らない。
スマホをそっとオフにする。
今日はあんなにも気持ちが高揚していたというのに、しゅんと萎んでしまった。
ピアノに向かう気持ちがちっとも起きない。
ここまで打ちひしがれた気持ちになるのは初めてだった。
この感覚を俊介は思い当たる節があった。
ラフマニノフの幻影。
いつも自分から演奏を取り上げてしまう呪いのようなもの。
今日のストリートピアノでは少しだけなりを潜めていたと言うのに。
少し遠のいたはずの苦しみは俊介の心を再び虐げるのだった。
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