第29話 ストリートピアノ

「ストリートピアノっていうんでしょ? 最近流行ってるやつ。ここにも期間限定で置いてくれるみたい」

「へえ……」


 そういえばネットとかで最近こういった動画を撮影してアップするのが流行ってるらしい。大学内でも演奏科の人間が何人かこうやってファンを作ってるのだと聞いたことがある。

 技術があるだけでなく、パフォーマンスに優れていないと再生数は伸びないらしい。

 しかしそこできっちりとファンを作ればテレビ出演やレコード会社からお呼びがかかる場合もあるらしく無視できないのだと言う。


「おい……、お前まさか」


 眉間を歪ませながらそっと隣を見ると蒼太がにこやかに笑っている。

 顔がいいだけあってまるで天使のような笑顔だ。おそらく何も知らない女子がみたらきゅんと言う効果音と共に恋に落ちてしまうような綺麗さだった。

 これからおそらく演奏させられる俊介からすれば悪魔のような笑顔といった方いいのだろうけど。


「そう、君が弾いてよ」

「はあ……??」

(やっぱりか!)


 俊介が頭を抱える。


「人前で弾けないのであれば少しでも慣れる。そういう荒療治が一番いいと思わない?」

「って言われてもなあ……。こんな場所でラフマニノフなんて弾いても正直引かれるだけだと思うぞ?」


 周りを見渡してみても家族連れやカップルだらけでクラシックに興味がありそうにはとても見えなかった。


「ううん、今日は違う曲を弾いてもらう」

「は……?」

「いいでしょ? たまにはさ。俊介はとにかくラフマニノフにかかりっきりだよ。それじゃあ息が詰まるでしょ? なんか他に弾けないの? SNSとかで流行りの曲とかアニメの曲とかさ」

「まあ楽譜があればなんとかなるかも……?」

「あ、そう? じゃあちょっと待ってて」


 蒼太はリュックからタブレットを取り出すと、すかさず検索していくつか見繕って見せた。


「めちゃくちゃ準備してるじゃないか……」

「当然でしょ? 僕が誘ったんだからさ。ほら、早く座ってよ」

「え……あ。ちょっと待てって」


 蒼太が俊介の背中を押して無理矢理椅子に座らせた。


「さてと……、まずは何を弾くかだよね……」


 蒼太が考え込んだようなそぶりを見せるとギャラリーの中で黄色い声が沸いた。

 見ると若い女子大生らしきグループが蒼太を熱い眼差しで見つめている。

 ああ分かるよ。確かにこいつはべらぼうに顔がいい。

 有名インスタグラマー顔負けの顔面偏差値だからな。

 まあちょっと性格がきついところはあるけれど。

 でもお嬢さん方、残念ながらピアノを弾くのはそこのイケメンじゃなくて冴えない容姿の俺なんです。ごめんなさい。

 俊介は心の中で謝った。

 そうしていると三歳くらいの男の子がこちらを不思議そうに見つめていた。蒼太がくすりと笑う。


「ほら、俊介。最初のお客様だよ」

「待てよ。あんな小さい子に受ける曲なんて俺分からないぞ?」


 蒼太がそっと顎に人差し指をつけて首を傾ける。


「ねえ、今小さい子に人気のアニメってなんだっけ?」

「それが詳しくないんだよなあ……?」


 その時視線を男の子の足下に下ろした。 

 男の子の靴にプリントされたアニメキャラクター。きっとその作品が男の子が好きな作品なのだろう。タブレットで検索するがきちんとした楽譜はヒットしてこない。


「難しそう?」

「いや、演奏動画がアップされてるはずだからそれを見る。あとはコード表があれば一応はできると思う」

「動画見て分かるもんなの?」

「一回見たらだいたい弾ける」

「……」

「なんだよ? どうかした……?」


 絶句した蒼太に呼び替えると信じられないかのように口を開いた。


「さらっと言ったけどそれ凄くない?」

「そうか? ピアニスト目指すならこれくらいみんな普通に出来るよ」


 タブレットを譜面台に立てかけると俊介はそっと鍵盤に手を置いた。


(……っ)


 子供であっても自分に突き刺さる視線は辛いものがある。

 しかしその期待に輝いた瞳をがっかりさせたくはない。

 その一心で気持ちを集中させる。

 ふうと深い息を吐いて楽曲の世界を作る。


(よしっ!)


 鍵盤を指先が滑る。

 野外だから少し強めに弾いて曲の持っている明るさ、みずみずしさを表現できるように必死になる。


(あれ……?)


 なんだか少しだけ指先が軽い気がする。

 人の視線があるからか、やはりどこかぎこちなさは拭えない。

 でもあからさまにラフマニノフを弾いている時と明確な違いがあった。


(なんだか……楽しいな)


 クラシックではない、ポップスだからだろうか。

 指先が跳ねるのが分かる。

 曲の世界観も崩せずに弾き勧められている。 

 後ろで子供の笑い声が響いた。

 喜んでくれるみたいだ。

 それが自分の心を勇気づけてくれる。

 なんとか弾き終えると安心したように脱力した。

 ぎこちなさはあったがなんとかノーミスで出来たと思う。

 それでもやっぱり人前は緊張する。

 ふうとため息をつくと、急に拍手が沸き起こった。


「え……?」


 顔を上げるといつの間にこんなに集まったのだろう。 

 ピアノを取り囲むかのようにギャラリーが出来ていた。


「あっ! どうも……ありがとうございますっ!」


 慌てて立ち上がって頭を下げると、先ほどの男の子が声をかけてきた。


「あ……えっと。もう一度リクエストでいいですか?」

「あ、はい。何を弾きましょう……」


 しどろもどろになっていると後ろから笑い声が聞こえた。

 思わず睨みつけると蒼太は口を閉じるも目元は笑っている。


「じゃあ……次はこの曲を……」


 指定された曲をネットで検索して演奏する。

 ピアノを弾いていることはいつもと変わりないのに、胸が湧き立つような気がする。


(どうしてだろう……。いつもはこんなふうにならないのに)


 指が思いの外動く。

 音が風に乗る。 

 視線を集めているというのに、何故かそこまで緊張しない。

 それどころか心地よさすらある。


(まるで蒼太の料理を食べたときみたいだな……)


 最初こそ蒼太の料理は昔の懐かしい思い出を呼び起こすと持っていたが、むしろ今思えば別の感情だったのかもしれない。

 温かくて美味しい。

 たったそれだけで人は幸せになれる。

 胸にほのかな喜びが灯るそんな優しさが蒼太の料理にはある。

 今こうしてピアノを弾いていると自分には今まで自覚しえなかった喜びを見落としていたのだと改めて気づかされる。

 父親から本格的なレッスンを受ける前はこうした胸に灯る楽しさだけを追いかけていたような気がする。

 決して人に見せられないような出来だったかもしれないけれど、自分がラフマニノフの幻影からどう逃れようと足掻いている時よりはずっと魅力的だったのだと思う。

 ああ、この楽しさにもっと漂っていたい。

 自然と笑顔が溢れていく。

 演奏していてこんなにも心穏やかになれたのはどれくらいぶりだろう。

 指先が軽やかに滑る。

 夏風に音が踊る。

 曲に合わせて人が笑い、拍手が俊介に向けられる。

 幾度目かのリクエストの後に、蒼太が俊介に声をかけた。


「ねえ、俊介。ちょっと休憩しようか」

「え、まだ弾けるぞ?」

「さすがに休んだほうがいいよ。もう一時間は経ってる」

「え? まじか?」


 はっとしてスマホを見ると気づかないうちにだいぶ時間が過ぎていた。


「さすがに他に弾きたい人もいると思うしね。また後からくればいいでしょ? 近くに休めるところあるからそこに行こう」

「お……おう」 


 蒼太に促されるまま、その場を後にしようとする。


「あ、あのすみません」


 立ち去ろうとする二人に声がかけられる。 

 振り返ると先ほどリクエストを受けた男の子の母親のようだった。


「あ、えっと……」

「先ほどのピアノ素晴らしかったです」

「え? そうですか?」


 とっさに疑問で返してしまった。相手は満面の笑みを浮かべる。


「はい、子供もすごく喜んでくれて。さっきまでぐずっていて手がつけられなかったんです。お兄さんのピアノのおかげです」

「え……あ、ありがとうございます」

「またいらっしゃいますか? 私たちこの近くに住んでるので。もしお兄さんがいらっしゃるならまた来ます」

「はい、来ますよ。こいつのピアノ、是非聴きに来てください」

「は? お前、勝手に何を言ってるんだ?」


 ぎょっとして隣を見ると蒼太がニヤニヤと笑っている。

 明らかに煽られたような気がして顔がかあっと赤くなる。


「まあよかったじゃない。君のファンができてさ」

「茶化すなよ。すみません、また来ますね」


 惜しまれながらもストリートピアノを離れる。

 なんだかまだ頬が火照っているような気がして掌をそっと頬に押し当てた。


「どう言うつもりだよ」

「楽しかったでしょ? しばらくあの場所で弾けばいいじゃない? みんな喜んでいたしさ。可愛いファンもついて別に悪くないでしょ?」

「そうだけど、なんで俺よりもお前のほうが乗り気なんだよ」

「だってさ、そうやって余裕のない俊介を見るのなんだか楽しいんだもの。あ、あそこだよ。さて……何食べようかな」


そうして指差した先はカフェ・ローズテラスと言うレストランだった。

 中に入り、カウンター席に案内される。ようやく落ち着くことが出来たと出されたお冷を一気飲みすると蒼太が再び笑い声を漏らす。


「おい。そんなに笑うなって」

「いやだってさ、俊介いくらなんでも緊張しすぎでしょ?」

「仕方ないだろう? あのギャラリー、元からピアノには興味がない人たちばかりだったから。いつも以上に気が抜けなかったよ」

 余裕のない顔でそう言うと、蒼太が微笑ましさを目元に讃えながら微笑んだ。

「でもさ、楽しそうだったよ」

「そうか……? 俺は必死になってたからちっとも余裕がなかった」

「うん。いつもよりは楽しく弾けたんじゃない?」

「ん? そうかな? でもなんで……」

 なんでそんなことを聞くんだ?

 俊介の表情を見た蒼太が真剣さを帯びた眼差しを向ける。

「俊介はさ。誰のために、なんのために弾いてるのか自覚ある?」

「いや……、そりゃ自分のためだよ」

「本当に……?」

「そうだろう? だってそのために俺はずっと練習しているんだから」


 蒼太が真っ直ぐに自分の顔を見つめてくる。

 その真っ直ぐさに一瞬息が詰まる。


(違うのか……?)


 じゃあ一体なんのために自分は弾いているんだろう。


「おい、教えてくれたっていいだろう?」

「ううん。ダメ。俊介が自分で気づかないとさ、意味がないでしょう? さてお腹すいたな。何食べようか?」

「はあ、分かったよ。頑張って自分で見つけてみますよ……」


 俊介は諦めてメニューを開く。

 しかし全く内容が頭に入ってこない。


(一体どういうことなんだろう……)


 ふと隣の蒼太を見たがただ思わしげに微笑むだけだった。

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