第28話 ついてのお楽しみ
夏風を感じながらトロイメライへと歩く。
カランと鐘の音を立てて中に入ると出迎えてくれたのは観月だった。
「あれ? 今日俊介君の担当だっけ?」
「あ……いえ、休みのはずだったんですけど蒼太に呼び出されて……。ところで蒼太はどこに?」
「あれ? 表にいなかった? 及川さあん、蒼太君どこにいるか知ってる?」
「多分裏手じゃないのか?」
厨房から及川の声が聞こえてくる。
「だってさ。確か蒼太君もお休みだったよね? 二人でどこか遊びにでもいくのかも? まあ、楽しんで来てよ」
「あ……はい」
一礼してからトロイメライを出る。
裏手ということであれば母屋の方なのだろう。
言われるがままに裏へと向かうと、白やピンクの薔薇の植え込みの中に灰がかった銀髪が見え隠れしている。
「蒼太……?」
そっと声をかけるとジャージ姿の蒼太が振り返った。
「あ……、あれ? もう二時なの?」
「ああ。一応、来たけど取り込み中だった? 今日出直そうか?」
「ううん、ちょっと手入れしておきたくてさ。ごめんね、今すぐ片付けるから」
蒼太が切り取った薔薇の茎をビニール紐でひとまとめにし始めた。
「それなら俺も手伝うよ」
「ううん。いいよ」
俊介の手を蒼太がそっと押し返した。
「ダメだよ。君はピアニストの手なんだから」
「え、いや。そんな俺やわじゃないぞ」
「君ってそそっかしいからさ。とげで指とか傷つけそう。無理しなくていいから。それに僕が時間忘れてたわけだしさ」
蒼太はスコップを片付けると俊介に振り返った。
「ごめん、今着替えてくるからちょっと待ってて。中に入ってていいから」
「いいや。ここで待つよ。いちいち準備するのも面倒だろうし」
「わかった。すぐに戻ってくるから」
蒼太の姿が部屋の中に消えるのを見送って、俊介は薔薇に視線を落とした。
遠目では分からなかったがこうしてみると、形も色もそれぞれ微妙に違うのが分かる。
園芸周りはさっぱりだが蒼太が薔薇を育てる腕は結構あるのではないかと言うことくらいは分かる。
「本当に見事だな……」
きちんと手入れされた薔薇の植え込みは水に濡れてきらきらと輝いている。
ちゃんとどの枝を残すのか考えて間引きされているせいか側から見ても見栄えがいい。
しかし料理だけじゃなく園芸も上手いのかと舌を巻いた。
(それにしても……、ピアニストの手か……)
そっと指先を見て見る。
今までは特に意識したことがなかった。
何を触ろうが傷がつこうが、誰も指摘する人はいなかったから余計に蒼太の言葉に驚いている。
特に人前でピアノが弾けなくなってからは自分をピアニストだと扱ってくれる人はほとんどいなかったと思う。
蒼太はちゃんと自分を見てくれている。
それがなんだかこそばゆくて指を揉んだ。
「おまたせ。ごめんね。自分から誘ったのにすっかり忘れてた」
今日もいつものジャージとTシャツの俊介に対して蒼太は薄いブルーのリネンシャツに細身のスキニーパンツという出立だった。そして何やら荷物があるようで少し大きめの黒いリュックを背負っている。
シンプルな装いなのに、映えるのはやっぱり顔の良さや見かけの華やかさなのだろう。
俊介が同じ服装をしたらあまり目立たないだろうに、顔面偏差値の違いを俊介はまざまざと思い知った。
(いや。そんなこと気にしてる場合じゃないよな)
俊介は切り替えることにした。
「ところで今日はどこに行くんだ? 全然知らされてないけど」
「大丈夫だよ。すぐ近くだからついてきて」
歩き出す蒼太の後ろについて歩く。
色鮮やかな薔薇を背景にすると蒼太の銀髪がより輝いているように見えた。
「しかし見事だな」
「何が?」
「薔薇だよ。店の前にある薔薇も全部お前が手入れしているんだろう? 俺は詳しくないけどああ言うのって難しいんだろう? それをよくあそこまで綺麗に咲かせられるものだな」
「別に。あれは母さんがよく育ててたものだから。言うなれば形見なんだよ。だから時間をかけて勉強したっていうかさ……。まあ頑張ればそれなりに上手くはなるよ」
「いや違うな」
「何が?」
「単純に時間をかけたから綺麗に咲いてるんじゃなくてやっぱり蒼太が綺麗に育って欲しいって気持ちを込めて育てているからだと思う」
少しだけ蒼太がはにかんだような表情を浮かべた。
「そう? 誰でもできると思うけど……」
「いや。そんなことない。やっぱり手間暇かけているからだろうな。綺麗な花が咲くってのはさ」
(俺のピアノも同じように才能が開花して、綺麗に演奏できればいいのにな……)
長い時間ピアノに向き合っている自分は良くなる気配はない。
しかし最近前に感じていた悲壮感がないのは蒼太がいるからかもしれない。
こうして蒼太と一緒にいればいつかは弾けるようになるのではないかという楽観的にも似た気持ちにもなってくる。
自分を長年苦しめているラフマニノフの幻影。
(それを克服して昔のような自由な演奏が出来る様になる日が来ればいいのにな)
そうしたら蒼太の好きな曲をいくらでも弾いてやろう。ちょっと考えただけでも胸が躍るような気がした。
「何? 突然気持ち悪いよ?」
「まあそう言うなって。お前は褒めるとすぐ拗ねるのな」
「そんなことないってば」
元町公園を抜けて外国人墓地を横目にまだまだ歩く。
「このまま行くと港の見える丘公園か?」
「まあね」
山手公園を抜けてさらに海側へと向かうと視界の際には緑豊かな公園が見えてくる。
横浜市イギリス館や山手111番館などの西洋館があるだけでなく、一年中バラが咲き乱れるローズガーデンも有名だ。
一体何があるのだろう。
まさか男二人で薔薇を愛でにいくわけでもあるまい。
「なあ、一体何があるんだ?」
「それはついてのお楽しみだよ」
「なんだそれ? いいだろ、ちょっとくらい教えてくれたって」
「まあ……俊介にとって楽しいもの……かな?」
楽しいもの?
果たして一体なんなのだろう?
ピアノと食意外にあまり興味がないので楽しいと言われたらそのどちらかなのだろうが。
「うーん。食フェス……とか?」
「それだったらきっとウチも参加してると思うよ。鉄板借りてそれこそナポリタンとか作るのアリかなって」
「じゃあ違うのか……。となると音楽か?」
「ふふ、どうだろうね」
疑問を浮かべるも蒼太は頑なに教えてはくれなかった。
交番前を通り、さらに公園を奥へと進みたどり着いたのは展望台だった。
視界が大きく開けて目の前には太平洋、そして横浜ベイブリッジが見える。
景観の良さから地元民の憩いの場になっているようで人だかりもそこそこあるように見えた。近くのベンチにはカップルや家族連れがそれぞれ午後のひと時を楽しんでいるように見えた。
しかし、俊介の視線を釘付けにしたのは開けた景色でも穏やかな風景ではなかった。
「ピアノ……?」
広場にポツンと置かれた黒い箱。
近づいてよく見るとヤマハのアップライトピアノだった。
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